久しぶりに、前進座の五月国立劇場公演を観に出掛ける。
国立劇場の中に入ること自体、十年ぶりくらゐになるだらうか。
この劇場で伝統芸能の基礎を学んでゐた当時は何でもない、どころか、見飽きたくらゐだったロビーの光景が、思わず笑みがこぼれたくらゐに懐かしく映る。
間違ひなく、ここは私の“母校”である。
が、この母校もあとしばらくすれば、改築工事で取り壊されるらしい……。
さて、今年の狂言は「人間万事金世中」。
イギリスの戯曲を河竹黙阿弥が明治十二年に翻案した、カネに操られる人間の悲喜劇。
この狂言に、私はある思ひ出がある。
それは大阪に住んでゐた時代、金策がつかず途方に暮れた一時があった。
どないしたらええねん──
万策尽きて夜の御堂筋を茫然と歩ひたことは、いまも忘れられない。
そのとき道頓堀の芝居小屋でかかってゐた狂言が、この「人間万事金世中」だった。
もっとも、ただそれだけだ。
金に振り回される狂言中の人物と自分とを重ね合はせるなど、そんな感傷めいたことを考へる余裕もないほど、このときの私は途方に暮れてゐた。
ただ、辺見勢左衛門役を演じるはずだった役者が体調不良だかで初日前から休演し、まるで柄に無ひ優形役者が代演して案の定無惨な有様だったことは、印象に残ってゐる。
このときの金策危機は、我が勇気(?)と知力(?)によって、結果的にはなんとか乗り越へることが出来た。
あのときの経験があったからこそ、現在の私が在る。
人生に無駄な経験など無いと実感すると同時に、大阪は私を心身ともに鍛へてくれた街だと、いまでも感謝してゐる。
さてさて、紙幣を模ったチラシのデザインの面白さに惹かれて、久しぶりにこの劇団の芝居を観てみる気になったが、
面白かったのはチラシだけ。
役者それぞれに個性が無くて、芝居がとても淡泊。
かういふ芝居は、役者がもっと突っ込んで盛り上げていかないと、大劇場の広い舞台をただ持て余してゐるだけに終わってしまふ。
歌舞伎は、役者で魅せる演劇なのである。
歌舞伎役者を評した一文に、『行儀のよい』といふ、判で捺したやうな表現が、よく見受けらるる。
この「行儀のよい」は、
『個性が無くてつまらない』
を倒置した皮肉であることに、気が付かねばならぬ。
この芝居では立女形の河原崎國太郎が立役にまわって恵府林之助を演じたが、こなしがまるでいつもの世話女形で、手代といふより役者崩れのやう、若手二人が扮した白塗りの女形に、未練でもあるのかと思ってしまふ。
辺見勢左衛門の藤川矢之輔は好演しさうな感じがするばかり、その妻おらんを演じた山崎辰三郎だけが、“楽しかった往年の前進座歌舞伎”の面影を、今に伝へてゐた。
“楽しかった往年の前進座歌舞伎”──
私が初めて前進座の歌舞伎を観たのは、この劇場で通し上演された「隅田川続俤 法界坊」だった。
いまは亡き中村梅之助を筆頭に、副将格として嵐圭史、立女形に六代目嵐芳三郎、つづく若手世代は中村梅雀を旗頭に副将格が藤川矢之輔、若女形がのちに母方の祖父河原崎国太郎の名を六代目として継ぐ嵐市太郎、その河原崎国太郎の愛弟子山村邦次郎は前進座歌舞伎に無くてはならぬ存在として、いつもキラリと光ってゐた。
あの時代は各世代の層も厚く、棲み分けもはっきりとしてゐて、それぞれがおのれの領分を全うすることで強い団結力を発揮してゐる──私はさう認識してゐた。
立女形六代目嵐芳三郎の急逝といふまさかの大痛恨事を乗り越へられたのも、その賜物であったと、私は思ってゐる。
実際、あの頃までの前進座の歌舞伎は、時おり漏れ聞く内部事情はだうであれ、“松竹大歌舞伎”とは一線を画した味わひに、観るのをいつも楽しみにしてゐたものだった。
しかし、若手世代の旗頭だったはずの中村梅雀が脱退した頃から、そんな認識が揺らぎだす。
そして、劇団創立者たちの悲願だった吉祥寺の劇場で、あらうことか若手世代から繰り上がった立女形が、最晩年の大女優に巧く取り入り芸養子におさまったドサ回りなどと「歌舞伎」を共演し、その後自分たちの根城であるその劇場を潰すといふ愚に及んで、私は「ああ、終わった……」と、見切りをつけるに至った。
七代目瀬川菊之丞を継ひだ五世国太郎の愛弟子がその前に前進座を離れたことは、山村邦次郎時代からの贔屓だっただけにとても残念に思ったが、いまの私の生き方と思ひ重ねても、致し方ない選択だったと思ふ。
昭和六年、河原崎長十郎、中村翫右衛門、河原崎国太郎(当時はまだ市川笑也)たちが強い理念をもって旗揚げした前進座はいまや、
『親が立てて子が守り、最後は孫が云々』
を、地で行く状況にあるやうに、私には映る。
それは今日の、六割程度の入りの半分が地方からの団体客、幕間の食事中に年配のお客たちが、
「こんなガラガラじゃ、採算がとれないでせうねぇ……」
と話してゐたところにも、前進座歌舞伎の主力役者がことごとく去った痛手を、いまだ克服できない実態が窺へる。
すっかり層の薄くなった現在の顔ぶれからして、かつてのやうに歌舞伎十八番を上演することはもはや不可能だらうし──「勧進帳」を上演してゐたことなど、もはや伝説だ──、仮にやるとしても、もはや見られたものでは無くなってゐることだらう。
これからはせいぜい、落語ネタの世話物に新歌舞伎、そして松羽目の狂言舞踊──ただし地方はテープ演奏──でお茶を濁すしかなくなるのではないだらうか。
大名跡を継ひだ立女形がドサ回りなどと同じ板の上に立ったこと、そして前進座劇場を潰した憤りは、いまも変わっていない。
それでも今回の歌舞伎公演を観やうと思ったのは、前述のチラシを目にした時、さうした気持ちとは別の“何か”が、私のなかで生じるやうになったからだ。
……つまり、私もそれだけ年齢(とし)を喰った、といふことだ。
国立劇場の中に入ること自体、十年ぶりくらゐになるだらうか。
この劇場で伝統芸能の基礎を学んでゐた当時は何でもない、どころか、見飽きたくらゐだったロビーの光景が、思わず笑みがこぼれたくらゐに懐かしく映る。
間違ひなく、ここは私の“母校”である。
が、この母校もあとしばらくすれば、改築工事で取り壊されるらしい……。
さて、今年の狂言は「人間万事金世中」。
イギリスの戯曲を河竹黙阿弥が明治十二年に翻案した、カネに操られる人間の悲喜劇。
この狂言に、私はある思ひ出がある。
それは大阪に住んでゐた時代、金策がつかず途方に暮れた一時があった。
どないしたらええねん──
万策尽きて夜の御堂筋を茫然と歩ひたことは、いまも忘れられない。
そのとき道頓堀の芝居小屋でかかってゐた狂言が、この「人間万事金世中」だった。
もっとも、ただそれだけだ。
金に振り回される狂言中の人物と自分とを重ね合はせるなど、そんな感傷めいたことを考へる余裕もないほど、このときの私は途方に暮れてゐた。
ただ、辺見勢左衛門役を演じるはずだった役者が体調不良だかで初日前から休演し、まるで柄に無ひ優形役者が代演して案の定無惨な有様だったことは、印象に残ってゐる。
このときの金策危機は、我が勇気(?)と知力(?)によって、結果的にはなんとか乗り越へることが出来た。
あのときの経験があったからこそ、現在の私が在る。
人生に無駄な経験など無いと実感すると同時に、大阪は私を心身ともに鍛へてくれた街だと、いまでも感謝してゐる。
さてさて、紙幣を模ったチラシのデザインの面白さに惹かれて、久しぶりにこの劇団の芝居を観てみる気になったが、
面白かったのはチラシだけ。
役者それぞれに個性が無くて、芝居がとても淡泊。
かういふ芝居は、役者がもっと突っ込んで盛り上げていかないと、大劇場の広い舞台をただ持て余してゐるだけに終わってしまふ。
歌舞伎は、役者で魅せる演劇なのである。
歌舞伎役者を評した一文に、『行儀のよい』といふ、判で捺したやうな表現が、よく見受けらるる。
この「行儀のよい」は、
『個性が無くてつまらない』
を倒置した皮肉であることに、気が付かねばならぬ。
この芝居では立女形の河原崎國太郎が立役にまわって恵府林之助を演じたが、こなしがまるでいつもの世話女形で、手代といふより役者崩れのやう、若手二人が扮した白塗りの女形に、未練でもあるのかと思ってしまふ。
辺見勢左衛門の藤川矢之輔は好演しさうな感じがするばかり、その妻おらんを演じた山崎辰三郎だけが、“楽しかった往年の前進座歌舞伎”の面影を、今に伝へてゐた。
“楽しかった往年の前進座歌舞伎”──
私が初めて前進座の歌舞伎を観たのは、この劇場で通し上演された「隅田川続俤 法界坊」だった。
いまは亡き中村梅之助を筆頭に、副将格として嵐圭史、立女形に六代目嵐芳三郎、つづく若手世代は中村梅雀を旗頭に副将格が藤川矢之輔、若女形がのちに母方の祖父河原崎国太郎の名を六代目として継ぐ嵐市太郎、その河原崎国太郎の愛弟子山村邦次郎は前進座歌舞伎に無くてはならぬ存在として、いつもキラリと光ってゐた。
あの時代は各世代の層も厚く、棲み分けもはっきりとしてゐて、それぞれがおのれの領分を全うすることで強い団結力を発揮してゐる──私はさう認識してゐた。
立女形六代目嵐芳三郎の急逝といふまさかの大痛恨事を乗り越へられたのも、その賜物であったと、私は思ってゐる。
実際、あの頃までの前進座の歌舞伎は、時おり漏れ聞く内部事情はだうであれ、“松竹大歌舞伎”とは一線を画した味わひに、観るのをいつも楽しみにしてゐたものだった。
しかし、若手世代の旗頭だったはずの中村梅雀が脱退した頃から、そんな認識が揺らぎだす。
そして、劇団創立者たちの悲願だった吉祥寺の劇場で、あらうことか若手世代から繰り上がった立女形が、最晩年の大女優に巧く取り入り芸養子におさまったドサ回りなどと「歌舞伎」を共演し、その後自分たちの根城であるその劇場を潰すといふ愚に及んで、私は「ああ、終わった……」と、見切りをつけるに至った。
七代目瀬川菊之丞を継ひだ五世国太郎の愛弟子がその前に前進座を離れたことは、山村邦次郎時代からの贔屓だっただけにとても残念に思ったが、いまの私の生き方と思ひ重ねても、致し方ない選択だったと思ふ。
昭和六年、河原崎長十郎、中村翫右衛門、河原崎国太郎(当時はまだ市川笑也)たちが強い理念をもって旗揚げした前進座はいまや、
『親が立てて子が守り、最後は孫が云々』
を、地で行く状況にあるやうに、私には映る。
それは今日の、六割程度の入りの半分が地方からの団体客、幕間の食事中に年配のお客たちが、
「こんなガラガラじゃ、採算がとれないでせうねぇ……」
と話してゐたところにも、前進座歌舞伎の主力役者がことごとく去った痛手を、いまだ克服できない実態が窺へる。
すっかり層の薄くなった現在の顔ぶれからして、かつてのやうに歌舞伎十八番を上演することはもはや不可能だらうし──「勧進帳」を上演してゐたことなど、もはや伝説だ──、仮にやるとしても、もはや見られたものでは無くなってゐることだらう。
これからはせいぜい、落語ネタの世話物に新歌舞伎、そして松羽目の狂言舞踊──ただし地方はテープ演奏──でお茶を濁すしかなくなるのではないだらうか。
大名跡を継ひだ立女形がドサ回りなどと同じ板の上に立ったこと、そして前進座劇場を潰した憤りは、いまも変わっていない。
それでも今回の歌舞伎公演を観やうと思ったのは、前述のチラシを目にした時、さうした気持ちとは別の“何か”が、私のなかで生じるやうになったからだ。
……つまり、私もそれだけ年齢(とし)を喰った、といふことだ。