平成七年(1995年)の阪神淡路大震災から、今日でちゃうど三十年云々。
それ以降、國内のあちこちで發生した大地震を考へると、三十年がむしろ遠くはない時間に感じられてくる。
そして、現代に頻發するやうになった大地震は、三十年前の今日が端緒だったのではないかとも思へてくる。
かういふ大災害が發生すると、報道屋は決まって家族を失なった方を取材したがる。
被災者に、現代流行りの氣持ち惡い表現で云ふところの「寄り添ふ」フリをしながら、目的はただ災害の悲劇性を煽り立てたいだけなのだ。
だから、立ち直って前向きに生きやうとしてゐる方々ことは、あまり取材したがらない。
當時神戸で大學生だったと云ふ男の人は、倒壊した街を見て、「これでみんな、同じスタート地點に立ったと思った」と私に話した。
神戸市街地の自宅が倒壊した女性は、むき出しになった風呂場を見て、「ウチは今日から露天風呂や、って笑ったわ」と明るい表情で私に話してくれた。
災害が發生したら必ず注意すべきことのひとつとして、流言(デマ)と、多分に共犯である報道屋──
歴史は、學べない人々によって繰り返され、小利巧な少數によって創られる。
しかし災害は、それらとは無關係に襲ってくる。
私たちはいつも試されてゐることを、忘れてはならない日。(※画像は戰前の神戸市街)