迦陵頻伽──ことだまのこゑ

手猿樂師•嵐悳江が見た浮世を気ままに語る。

お弟子の尺度。

2019-02-01 09:37:19 | 浮世見聞記
ラジオ番組のなかで、黒木瞳と講談師•神田松之丞の対談が放送されてゐた。

今年、神田松之丞は二つ目から真打ちに昇進する。

真打ちになると弟子をとれる。

現に、松之丞のもとには今から弟子志願者が殺到してゐるさうだ。

そこで松之丞は、弟子の“本気度”の見分け方を、黒木瞳に訊ねてゐた。

黒木瞳は藝能界の先輩として、

「それは行動に現れてくる」

と教へてゐた。


そのとき私は、ふと思った。

師匠は私を、だう見てゐたのかな、と。

「東京からケッタイな若僧が来よった」──とは思ってゐたらしい。


その当時の私は………?


気持ちばかりが先行して、行動がまったく伴ってゐなかった──とは、いま自覚してゐる。

思ひ返すのも、恥ずかしいことばかり。

憧れの師匠に弟子入りできた嬉しさで、全てが完全に空回りしてゐた、と思ふ。


「師匠と弟子は、藝界の親子関係や」

とは、その後失踪した兄弟子の言葉。


師匠は、私が弟子入りして二年後に急逝した。

とても、“藝界の親子”にまでは至っていない。

私が本当に師匠の人となりを知ったのは、その後のことである。

良く言ふ人もいれば、悪く言ふ人もいた。



ひとつ思ひ出したが、ある老噺家が襲名騒動のなかで、

「大事なのは、師匠と共に過ごした時間の長さだ」

と云った。

つまり、どれだけ長く傍で師匠の藝を吸収したか、を云ひたかったのだらう。

が、徒らに長く傍にゐるだけ、といふ人を何人も知ってゐるので、私はあまり賛同出来ない。



師匠が亡くなって、まう二十年ちかくが経とうとしてゐる。


私の、弟子としての“本気度”?


なんとか現在(いま)もかうして生きてゐる──その“行動”が、尺度になればよいのだが……。




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