ラジオ番組のなかで、黒木瞳と講談師•神田松之丞の対談が放送されてゐた。
今年、神田松之丞は二つ目から真打ちに昇進する。
真打ちになると弟子をとれる。
現に、松之丞のもとには今から弟子志願者が殺到してゐるさうだ。
そこで松之丞は、弟子の“本気度”の見分け方を、黒木瞳に訊ねてゐた。
黒木瞳は藝能界の先輩として、
「それは行動に現れてくる」
と教へてゐた。
そのとき私は、ふと思った。
師匠は私を、だう見てゐたのかな、と。
「東京からケッタイな若僧が来よった」──とは思ってゐたらしい。
その当時の私は………?
気持ちばかりが先行して、行動がまったく伴ってゐなかった──とは、いま自覚してゐる。
思ひ返すのも、恥ずかしいことばかり。
憧れの師匠に弟子入りできた嬉しさで、全てが完全に空回りしてゐた、と思ふ。
「師匠と弟子は、藝界の親子関係や」
とは、その後失踪した兄弟子の言葉。
師匠は、私が弟子入りして二年後に急逝した。
とても、“藝界の親子”にまでは至っていない。
私が本当に師匠の人となりを知ったのは、その後のことである。
良く言ふ人もいれば、悪く言ふ人もいた。
ひとつ思ひ出したが、ある老噺家が襲名騒動のなかで、
「大事なのは、師匠と共に過ごした時間の長さだ」
と云った。
つまり、どれだけ長く傍で師匠の藝を吸収したか、を云ひたかったのだらう。
が、徒らに長く傍にゐるだけ、といふ人を何人も知ってゐるので、私はあまり賛同出来ない。
師匠が亡くなって、まう二十年ちかくが経とうとしてゐる。
私の、弟子としての“本気度”?
なんとか現在(いま)もかうして生きてゐる──その“行動”が、尺度になればよいのだが……。
今年、神田松之丞は二つ目から真打ちに昇進する。
真打ちになると弟子をとれる。
現に、松之丞のもとには今から弟子志願者が殺到してゐるさうだ。
そこで松之丞は、弟子の“本気度”の見分け方を、黒木瞳に訊ねてゐた。
黒木瞳は藝能界の先輩として、
「それは行動に現れてくる」
と教へてゐた。
そのとき私は、ふと思った。
師匠は私を、だう見てゐたのかな、と。
「東京からケッタイな若僧が来よった」──とは思ってゐたらしい。
その当時の私は………?
気持ちばかりが先行して、行動がまったく伴ってゐなかった──とは、いま自覚してゐる。
思ひ返すのも、恥ずかしいことばかり。
憧れの師匠に弟子入りできた嬉しさで、全てが完全に空回りしてゐた、と思ふ。
「師匠と弟子は、藝界の親子関係や」
とは、その後失踪した兄弟子の言葉。
師匠は、私が弟子入りして二年後に急逝した。
とても、“藝界の親子”にまでは至っていない。
私が本当に師匠の人となりを知ったのは、その後のことである。
良く言ふ人もいれば、悪く言ふ人もいた。
ひとつ思ひ出したが、ある老噺家が襲名騒動のなかで、
「大事なのは、師匠と共に過ごした時間の長さだ」
と云った。
つまり、どれだけ長く傍で師匠の藝を吸収したか、を云ひたかったのだらう。
が、徒らに長く傍にゐるだけ、といふ人を何人も知ってゐるので、私はあまり賛同出来ない。
師匠が亡くなって、まう二十年ちかくが経とうとしてゐる。
私の、弟子としての“本気度”?
なんとか現在(いま)もかうして生きてゐる──その“行動”が、尺度になればよいのだが……。