横浜市南区のフォーラム南太田で、映画「氷の花火 山口小夜子」(2015年)を観る。
山口小夜子──私がその謎めいた美しさに心酔する数少ない“日本女性”のひとり。
山口小夜子──私がその謎めいた美しさに心酔する数少ない“日本女性”のひとり。
九十席分のチケットは前賣り開始後三日で完賣したとのこと、私が受付預けでもらった前賣券の通し番号は八十番台、「よかったぁ……」とその御縁をありがたく思ふ。
もふ十年以上も前、澁谷のミニシアターで「馬頭琴夜想曲」と云ったと思ふが、そんな不思議な(?)映画に出演してゐる彼女を観たのが、生前の山口小夜子を目にした最初で最後。
映画の内容はほとんど記憶になく、ただただ山口小夜子といふモデルにして“東洋の神秘”の、その超越した美しさだけが鮮烈な印象として残り、現在に至る。
そして平成十九年の猛夏、山口小夜子は五十七歳の若さで急逝し、今年で十二年となる。
東京都現代美術館の企画展いらい四年ぶりに、私は彼女の生誕地である横浜で、かの美しい女性(ひと)に再会す。
生前に親交があった女性映画監督が丹念に追った、彼女の人生から見えてくるのは、
『表現者としての自分を、全身全霊をかけて追究していく姿』
そのカットの一つ一つが私には珠玉の教へだったが、それを要約すると上の一言にならうか。
彼女が遺した作品は、それぞれに確とした“物語”がある。
現在、さうした“物語”をはっきりと見せられる表現者が、果たしてどれくらゐ存在するだらうか──?
それが、このドキュメンタリーフィルムを観てゐて私がもっとも感じたことであり、また手猿楽師といふ表現者の端くれを自認するおのれが、反省したことでもある。
映画の後半、生前に交流のあった面々が無名の若いモデルを山口小夜子のそっくりサンに仕立て、どこも似ていないにも拘はらず本人を真似た写真を撮影して、一同涙ぐむ場面が出てくる。
山口小夜子への失礼に当たりかねない、また映画作品の品質をも堕としかねないその場面に、私は眉を顰めてからハッと気が付く。
「山口小夜子は他のだれにも真似できない、ただ一人の存在であることを示した演出なのだ……!」
と。
『ほかに真似手がいない存在』──
私が手猿楽師としてめざしてゐることと、
彼女の存在意義との共通点を、
私は見つけられた気がする。
だから現在(いま)も私はこの孤高にして華のある女性に、
深く深く、
心惹かれるのだ。