「『あんたが娘やと思うているあの子、ほんまに自分の娘やと、思うてるのか?』
……そのとき初めて、嵐師匠の表情が動きました。
何を言っている?― そうした不審の表情でした。
熊橋さんが、『君、失礼や!』と一喝しはりましたが、男は怯まずこう喚きました。
『あの娘は、あんたの奥さん、いや、あんたが奥さんと信じている女が、ほかの男との間につくった娘なんやぞっ……!』」
下鶴昌之は唇を噛みしめ、眼(まなこ)をきつく閉じた。
僕は眼を見開き、両手を握りしめて立ち上がり、空をにらんだ。
その愚か者が投げつけた“爆弾”は、僕が心の隅で、微かに、微かに、抱いていた疑いだった。
「次の瞬間、男はついに我慢ならなくなった皆に、外へと引きずり出されました。
嵐師匠は、真っ青な顔で、押し黙っていはりました。口を固く結んで、じっと畳をにらんではる様子は、とても声をかけられる雰囲気やおへんでした。
……唯一の救いは、これが大人だけの席やったことです。
あの場に金澤あかりちゃんがおらんで、ほんまに良かった。
当時は中学生、多感な年頃やさかい……」
金澤あかりは、嵐昇菊の娘ではない……!
僕は、東京で二度だけ会った彼女の姿を思い出した。
朝妻八幡宮の宮司家の血は引いても、歌舞伎役者の血は引いていない―
では、真実(ほんとう)の父親は……?
それにしても、宴席でおのれのエゴを剥き出して相手を罵り、醜聞(スキャンダル)を暴露し、傷付け、恥辱を与える―そういうデリカシーのないオトナが実在することに、僕は腹が立つを通り越して、呆れた。
“親の気持ちとして”?―
それこそが親の“エゴ”でなくて、なんであろう?
子どもをダシにして、自分(おのれ)が人前でいい顔をしたいだけの、見栄っ張りではないか。
とんだバカ親だ……!
「ちなみにその時、溝渕さんはどうしていたのです?」
バカ親が宴席を、おのれのエゴでメチャメチャにしたそもそものきっかけは、溝渕静男が妙な約束をしたことにある。
その元凶は、しれっとした顔で皆と一緒になって、バカ親を外へ引きずり出しでもしたのだろうか?
「憶えてまへん。憶えていない言うことは、特に表立って動かへんかった、いうことやろうな。あの人は、なんでも水面下で動くのが好きやさかい……」
下鶴氏は痛烈な皮肉を放つと、乾いた声で笑った。
「しかし、なんでその男は、金澤あかりさんの出生の秘密を知っていたんでしょうか?」
「確かに、それが不思議でした。そないなこと、この町で知っておる者は誰もおらんはずでした……。もちろん、嵐師匠も含めてです。それだけに、ショックは大きかったはずです。あとで聞いた話しでは、宮司さんかて知らんかったそうですわ。ただ……」
「ただ……?」
僕は、心なしか蒼白に見える下鶴昌之の横顔を見た。
「溝淵さんが、気付いておったかもしれまへん……。あの人も昔、あかりちゃんの母親に惚れとったことがあったによってな。それにあの人は昔から、町一番の“情報屋”です。頭に、“裏の”を付けてもよろしい。もしかしたら、溝淵さんがなにかの時に耳打ちしたのかもしれまへん……」
ようするにゴシップ好きか―
僕のなかで、溝淵静男像がますます卑俗ものになっていった。
「せやけど嵐師匠は、決して取り乱すことはありませんでした。ただ、じっと黙っていはりました……」
下鶴昌之は、奉納歌舞伎の振付師であった嵐昇菊のことだけは、敬意をこめた言葉遣いをする。
いや、敬意という以上の、何かを抱いているようにも、僕には感じられた。
「師匠はしばらくすると、今日は早めに休みたいとおっしゃって、途中で帰らはりました。熊橋さんがお送りします、と言いましたが、先生は大丈夫ですと断らはって、お一人で出ていかれました……」
下鶴昌之は立ち上がって、八幡宮の方を見た。
「そして深夜の、八幡宮の火事です」
続
……そのとき初めて、嵐師匠の表情が動きました。
何を言っている?― そうした不審の表情でした。
熊橋さんが、『君、失礼や!』と一喝しはりましたが、男は怯まずこう喚きました。
『あの娘は、あんたの奥さん、いや、あんたが奥さんと信じている女が、ほかの男との間につくった娘なんやぞっ……!』」
下鶴昌之は唇を噛みしめ、眼(まなこ)をきつく閉じた。
僕は眼を見開き、両手を握りしめて立ち上がり、空をにらんだ。
その愚か者が投げつけた“爆弾”は、僕が心の隅で、微かに、微かに、抱いていた疑いだった。
「次の瞬間、男はついに我慢ならなくなった皆に、外へと引きずり出されました。
嵐師匠は、真っ青な顔で、押し黙っていはりました。口を固く結んで、じっと畳をにらんではる様子は、とても声をかけられる雰囲気やおへんでした。
……唯一の救いは、これが大人だけの席やったことです。
あの場に金澤あかりちゃんがおらんで、ほんまに良かった。
当時は中学生、多感な年頃やさかい……」
金澤あかりは、嵐昇菊の娘ではない……!
僕は、東京で二度だけ会った彼女の姿を思い出した。
朝妻八幡宮の宮司家の血は引いても、歌舞伎役者の血は引いていない―
では、真実(ほんとう)の父親は……?
それにしても、宴席でおのれのエゴを剥き出して相手を罵り、醜聞(スキャンダル)を暴露し、傷付け、恥辱を与える―そういうデリカシーのないオトナが実在することに、僕は腹が立つを通り越して、呆れた。
“親の気持ちとして”?―
それこそが親の“エゴ”でなくて、なんであろう?
子どもをダシにして、自分(おのれ)が人前でいい顔をしたいだけの、見栄っ張りではないか。
とんだバカ親だ……!
「ちなみにその時、溝渕さんはどうしていたのです?」
バカ親が宴席を、おのれのエゴでメチャメチャにしたそもそものきっかけは、溝渕静男が妙な約束をしたことにある。
その元凶は、しれっとした顔で皆と一緒になって、バカ親を外へ引きずり出しでもしたのだろうか?
「憶えてまへん。憶えていない言うことは、特に表立って動かへんかった、いうことやろうな。あの人は、なんでも水面下で動くのが好きやさかい……」
下鶴氏は痛烈な皮肉を放つと、乾いた声で笑った。
「しかし、なんでその男は、金澤あかりさんの出生の秘密を知っていたんでしょうか?」
「確かに、それが不思議でした。そないなこと、この町で知っておる者は誰もおらんはずでした……。もちろん、嵐師匠も含めてです。それだけに、ショックは大きかったはずです。あとで聞いた話しでは、宮司さんかて知らんかったそうですわ。ただ……」
「ただ……?」
僕は、心なしか蒼白に見える下鶴昌之の横顔を見た。
「溝淵さんが、気付いておったかもしれまへん……。あの人も昔、あかりちゃんの母親に惚れとったことがあったによってな。それにあの人は昔から、町一番の“情報屋”です。頭に、“裏の”を付けてもよろしい。もしかしたら、溝淵さんがなにかの時に耳打ちしたのかもしれまへん……」
ようするにゴシップ好きか―
僕のなかで、溝淵静男像がますます卑俗ものになっていった。
「せやけど嵐師匠は、決して取り乱すことはありませんでした。ただ、じっと黙っていはりました……」
下鶴昌之は、奉納歌舞伎の振付師であった嵐昇菊のことだけは、敬意をこめた言葉遣いをする。
いや、敬意という以上の、何かを抱いているようにも、僕には感じられた。
「師匠はしばらくすると、今日は早めに休みたいとおっしゃって、途中で帰らはりました。熊橋さんがお送りします、と言いましたが、先生は大丈夫ですと断らはって、お一人で出ていかれました……」
下鶴昌之は立ち上がって、八幡宮の方を見た。
「そして深夜の、八幡宮の火事です」
続