2024年はペリーが橫濱に上陸して170年云々、その企画展を橫濱市内二ヶ所の博物館で觀る。
橫濱市立歴史博物館の「サムライ Meets ペリー With 黒船」展は、
黒船来航とペリー上陸時、實際に海岸で警戒に當ってゐた武士たちの日記から當時の様子を明らかにしていく企画展で、幕僚の對應についてはいくらでも資料が公開されてゐるが、誰よりも現場の最前線に立ってゐた人々の遺した記録については、確かに知られてゐない。
(※案内チラシより)
實際に異國船や異國人を目の前にして行動した武士たちの遺した日記や手紙には、未曾有の事態に緊張して對應した姿が生々しく記され、これほど臨場感に溢れた文献はないだらう。
『嘉永七年(1854年)正月二十三日、萩原唯右衞門は乙艫浜(おっともはま)に上陸した米國兵に、井戸水の呑み方を實演して教へた』──
『同日、本牧を警戒中の鳥取藩士角田安処は、米國兵が“バッテーラ(小舟)”で江戸湾内を勝手に漕ぎ廻った(測量)挙げ句、本牧八王子岸下の岸壁に白土(白ペンキ)で文字を書き付け、「言語道斷不輕之振舞」と憤慨して日記に記す』──
『同年二月十日、橫濱村で幕僚がペリーに應接中、警備に當ってゐた小倉藩醫の桐原鳳卿は、同じく警備中の米國兵とお互ひに武器を見合ひ、やがて米國兵は“ドクトル”であると自己紹介し、握手をしてきたが日本にその風習がない桐原は戸惑ふ。のちに“ドクトル”とは醫者の意味であることを知り、不思議な縁を思ふ』──
『松代藩の佐久間象山は、ペリーが自分に會釈をして通り過ぎたことに感激して、國許の家族へ手紙に書いて送った』──
ペリーの上陸によって、國は違へど同じ人間同士としての交流が公式の場以外でも行はれてゐた事實は、もっと知られるべき歴史だ。
(※久里浜に建つペリー上陸記念碑)
神奈川縣立歴史博物館の特別展「かながわへのまなざし」は、
開國直後の日本に上陸した西洋人の目に映った“かながわ”を、彼らによって持ち込まれた文明により變様する以前の風景から追想する内容となってゐるが、目玉は「ペリー艦隊日本遠征記」の挿繪で有名なヴィルヘルム・ハイネの作品群。
令和元年(2019年)に橫濱美術館で開催された、「絵でたどるペリー来航 展」の焼き直しのやうにも感じたが、西洋風ニッポンに再びじっくり逢へたと思へば、蒸し暑さを押して出かけた価値は大いにあり。