バンビ・わーるど

プラダー・ウィリー症候群の息子「バンビ」を愛し、その成長を見守る母・suzuのつれづれ日記(&ときどき猫だより)

なわとび

2011年12月22日 | 日々の出来事
先日 バンビがなわとびを跳べるようになってきたらしい と書いたんだけど
”跳べる”というにはちょっと語弊があったようで
実際には 回してぴょん、回してぴょんで連続6回くらい というレベルらしい。

ま、それでも彼なりに進歩したんだけどね。

クラスでもいわゆる”なわとびが跳べる”(縄をくるくるまわしながらぴょんぴょん跳ぶ)子はまだ2人くらいしかいないらしく
後は 高学年でもやっぱり回してぴょん なんだとか。


先生が言うには、連続して跳ぶためには縄を腕や肩ではなく、手首で回すことができなければダメだし
縄に合わせて跳躍ができるようにならなければならないのだそうだ。
うーん、なるほど。

確かにヘタな子 っていうか小さい子は誰でも最初は
腕を挙げて肩を回して、縄を跳ぶために足元に持ってくるような動きになってるもんね。
それだとどうしても 回してぴょん になる。

くるくるぴょんぴょんは、手首から肘にかけての力で縄を回して、回ってくる縄に合わせて跳ぶってことだもんね。


で、縄をうまく回すには
1本の縄の両端を左右の手で持つのではなく
左右別々に(1本を左右交互でも良いみたいだけど)縄を持って回す練習をする。
それを肩ではなく、手首で回せるようにする。

すっごい簡単なように思うんだけど
不器用で微細運動が苦手な子達にはこれがなかなか難しい課題らしい。
実際バンビにやらせてみても どうして?って思うくらいできないんだよね。
必要なところに力が入らず、不必要な筋肉が緊張し固くなってしまう。

なわとびは冬休みの宿題の1つなので
体力作りと体重管理を兼ねて、この冬親子で頑張らなくては。

メールはこちらまで → bambi-suzu@mail.goo.ne.jp
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障害児でゴメン?

2011年12月22日 | 障害児の親
※1つ前の記事の、hiyoさんやきょんちゃんのコメントを受けて
また長くなりそうなので、別の記事として書いてみます。


私はまだ思っちゃうことがある。
”バンビがPWSじゃなかったら...” って。

確かにhiyoさんのおしゃるとおり「バンビがPWSじゃなかったらパンビじゃない」んだけど
でも、まだ100%そういう風に思いきれない というか。

もちろん、健常児として生まれてきていたらこの8年は別のものになっていただろうし
そしたら今のバンビも私もいないわけで。

だから、もちろん ”PWSだろうと何だろうとバンビはバンビ”って思っていて
思っているのに まだ心のどこかで
「健常児だったら今頃○○できるんだろうな」って思ってしまう自分もいて
何かモヤモヤと苦しい... というのが正直な話。



うーん、最初に障害を告知されて、その後それを曲がりなりにも受容できるようになってからは
あんまりそんなふうにも思わなくなってたんだけどな。

成長して、バンビに自我が芽生えて
周りの子と自分が違うことが少しずつ意識されるようになってきてるんだろうな と
思う最近になってから、またそれを感じるようになってきたのかも。


例えば、同じ年の子ども達が外で楽しそうに遊んでいるのをバンビが遠巻きに眺めている姿を見ると
せつなくなって、何か不憫で。
バンビだってほんとはそうやってみんなと遊びたいはずなのになぁ
健常児だったら きっと一緒にああやって遊んでいるよね って思っちゃって
ごめんね って。

そりゃ、”障害あったって健常児と遊んでる子はいるでしょ。
あなたは親としてその努力をしているの?”
と、言われてしまえば 何も言えないんだけど。


バンビはバンビなんだけど、障害があることを何も否定するつもりはないんだけど
でも、悲しいと思う気持ちは まだ消えてはなくならない。
いつ100%消えるのかもわからない。

健常児だったらしなくてもいいはずのイヤな想いや、ツラい体験を
障害児であるがゆえにこの先味わうことになるかもしれないと思うと
ごめんね って、思ってしまう。

私もいつかそんなことはぜんぜん気にならなくなれるんだろうか。

単に私がまだまだ弱くて、ダメな親なのか
それとも、私自身にそういうつもり(自覚)はなくても
やっぱり心のどこかに 障害者そのものを否定するような差別意識があるってことなんだろうか...。


hiyoさんのおっしゃるように
健常児だって、親の思うとおりには育たないものなんだろうけど
でも、バンビの他に子どもがいない私には 
健常児ってどんなもんなんだろう っていう気持ちがどこかにあって
一人は育ててみたかったな って、どうしても思ってしまう。
(んー、子どもがいない人が子どもを育ててみたい って思うようなカンジなのかも。)

そう思う気持ちと バンビを否定することとは私の中ではぜんぜん別なんだけど 
でも、そう認めてもらえにくいことなのかもしれない。



障害者だと何がいけないのか。(本当はいけないことなんて何もないのに。)
障害者の親になったら何が悲しいのか。(本当は悲しいことなんて何もないはず。)

誰にだって 努力してもどうしてもできないことがある。
元々苦手なことだってある。
それが「障害」と呼ばれると、特別なように思われるけど
ちょっと数が多いだけ。程度が重いだけ。
誰に対しても悪いことはしてないし、恥ずかしいこともない。


ただ、障害があることで本人が生きずらさを抱えながら生きていかなくてはならなくなるなら
親としてそういう運命を与えてしまったことには申し訳ないと思ってしまう。
そして、親の私ができること、やるべきことは
本人の生きずらさが少しでも緩和されるようにしてあげること。

まだまだ心の弱い、迷いの多い、未熟でダメダメな親だけど
障害があってもなくても、我が子は我が子で
親はその幸せのために最大限の努力をすることに変わりはないもんね。

メールはこちらまで → bambi-suzu@mail.goo.ne.jp
コメント (12)
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