テディちゃとネーさの読書雑記

ぬいぐるみの「テディちゃ」と養い親?「ネーさ」がナビする、新旧の様々な読書雑想と身辺記録です。

京都にて・その8/《若冲展》 やがてかなしき。

2007-06-06 23:19:45 | 若冲展
「ぶじに、みおわって、ヨカッタですね。ネーさ」

 ……そうね、夢のように美しい絵に会えて、幸せでした。
 でもね、ずっと心に引っかかっていることがあるのです。

「え~? なァに?」


~~ ~~ ~~ ~~ ~~ ~~ ~~ ~~ ~~

 それは、《若冲展》第一展示室での出来事でした。
 偶然、どこかの大学の先生や生徒さんの集団と
 至近に居合わせることになりました。
 アカデミックな御話が聞けるかも、と期待した私でしたが、
 間もなく、びっくりしてしまったのです。
 
 毘沙門天立像の前に来た先生のお一人が、
 小さなペンライトを取り出し、
 やおら、立像の頭部を照射したのです。

 作品保護のため、ほの暗く保たれていた室内の、
 ガラスケースの中の毘沙門天さまのお顔が、
 鮮やかに浮かび上がりました。
 頬の線、鼻梁、両の瞳もが、照らし出されます。

 ええ?と、
 私、びっくりしてしまいました。
 けれど、周りの誰も咎めはしませんし、
 係りの人が慌てて飛んでくるようなこともなく。
 ではこれは悪いことではないのだろうな、と
 考えたわけなのですが。
 何だか、妙に、違和感が残ったのでした。

 ふと気付けば、第二展示室などでも、
 小型のスコープやレンズを手に、
 作品を鑑賞している人が大勢います。
 
 これはごく普通のことなのでしょうか。

 作品に集中せねばならかった美術館内では、
 あまり考えてもいられなかったのですが、
 見終わって暫くの後、
 もやもやとした違和感は強まる一方でした。

 この、違和感の正体は何なのでしょう。

 やがて、思い当たりました。

 あの毘沙門天さまは長らく秘仏とされ、
 とても大事にされてきた仏像なのです。
 なのに、あのライトは。
 礼を失する、という言葉を私は想いました。
 無遠慮に、顔を光で照らされて、
 仏像さまはどう思われたでしょう。

 いえ、仏像さまだけではないのです。

 若冲さんの絵の前で、
 私たちは礼にかなった振舞いをしていたでしょうか。
 答えは、否、です。
 
 若冲さんの絵は、美しい。
 あまりに美しくて、これが本来、仏画であったのを
 つい忘れてしまいます。
 釈迦三尊像の、
 さながら脇侍のように左右に控える花と鳥たちの絵は、
 おそらく「花鳥画」ではないのです。
 若冲さんが一筆一筆に渾身の祈りをこめた、仏画です。

 なんだか、悲しくなります。
 見たい、愉しみたいという欲に動かされ、
 土足で館内をうろつく私たちは、
 あさましい餓鬼のようです。
 
 若冲さんがこの有様を見たら、
 どう感じるでしょう。

 もしかしたら、
 公開しない方がよかったのではないか、
 とすら思いました。

~~ ~~ ~~ ~~ ~~ ~~ ~~ ~~ ~~ 
 
 もっとも、この喧騒は今に始まった事ではない、という
 考え方もあるのですけれど。

「どういうことでスか、ネーさ?」

 江戸のむかし、
 釈迦三尊絵と動植糸采絵が年に一回公開される時も、
 それはもう大変な人出で相国寺の境内は大混雑だったとか。
 門前も、市の如く。
 屋台がずらりと並び、物売りの声も喧しかった、と。

「にんげん、いつのじだいも、することなおんなじ、
 なのでスよゥ」

 そうかもね。
 でも、公開方法はもう。ちょっと考えてみないと。

「え。どうするのでスかァ?」

 うん、それは次回で。
 
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