膝を傷めたのはこの春、3月だった。
階段の上がり下りにも苦労した。
正座はおろか胡坐もかけなかった。
N村整形外科に行ってレントゲンを撮ってもらった。
大したことはないといわれた。でも膝に水が溜まっていると。
しばらくリハビリに通って下さいということだった。
でも、リハビリに毎日通うのは〇もかかるし面倒だしで行かなかった。
大したことがないのが分かればそれで良かった。
リハビリなら家でやればいい。
けど、なかなか良くならなかった。
次はM浦整骨院にいって鍼などの施療をしてもらった。
これは少し続けた。
しかしこれもそれほど効果上がらずやめた。
やはり時間と〇がもったいない。
そんな効果もないものに使うのなら本を買う。
で、家で柔らか灸をした。
少し改善した。
薄皮を剥ぐとはこのことかと。
でも、これもなかなかだった。
で、灸がいいのなら、柔らか灸ではなく、本当の灸をすればいいと、この夏ごろから始めた。
これは熱かった。
そりゃあそうだ。火が直接に皮膚につくのだから。
それでも毎晩風呂上がりに続けた。
関節の周りが灸の痕だらけになった。
体操も続けた。
森光子さんがやっていたスクワットの真似ごとを。
100回×一日3回。
これは本当に、薄皮を剥ぐように良くなるのが実感できた。
風呂の湯船の中で、少しずつ正座をする練習もした。
秋が深まって来た頃に相当良くなってきた。
そして昨夜のことだ。
毎晩お参りする仏様の前で正座をしてみた。
風呂では出来ていたが、どうかな?と思いながら。
すると、なんとかお経を終えるまで出来た。
うれしかった。
8ヶ月ぶりだった。
やっと全快する目処がついた。
もう少しだ。
でも焦らないでおこう。
ここでまた傷めたら、今までの努力が水の泡だ。
宮城県の「笑顔カレンダー」のこと、神戸新聞夕刊に大きく出ました。
これについて書いた先日のわたしのブログはこちら。↓
http://blog.goo.ne.jp/coffeecup0816/d/20121123
ブログで触れたように、女道化師、森文子さんが応援してはります。
皆さま、購入して上げて下さい。
ジャック・イン・スマイルのホームページで申し込むか、吉川さん(?070・5629・6553)へ。
12時過ぎだから先ほどのこと。
タクシーを乗りつけて来られたお客様があった。
知らないご婦人。
店の中を見渡して「あれ来てません?」と待ち合わせのご様子。
「用海町には他に喫茶店ありますか?」と。
「いえ、うちだけです」
「近くには?」
「ありますよ。多分そちらでしょう。うちはお客さん滅多に見えませんから」
納得して出て行かれた。
すると店内におられたお客様から一斉に笑い声が。
この笑いには深い意味がある。
子どもの頃の思い出話の第6回目。
この前のページに地蔵さんの仮堂建設の話を書いた。
資料に世話人の名が並んでいた。みな懐かしい名前である。
父は別にして順に想い出を書いていこう。
この隣保はまったく庶民層であった。今もだが、下町も下町、「用海谷、地獄谷」と揶揄されたことも。よくケンカもあった。
先ず、田淵三次さん。
空気銃の正さんのお爺ちゃんにあたる。
わたしもうっすらと覚えている。いかにも頑固そうな人であった。
田淵さんの玄関の前はちょっとした空き地になっていて、よく遊んだ覚えがある。田淵さんの敷地内だった。しかし、三次さんの仕事の邪魔になったのだろう、叱られた覚えがある。まあ、当時、私は近所のお年寄りにはよく叱られたものだが。これはゴンタ自慢になるか?いやそんなことはない。ゴンタではなかった。いたっておとなしかった。ただ、当時の大人は近所の子どもをよく叱ったものだ。
この人の、お地蔵さんに関わるエピソードがある。
縁起『小墓圓満地蔵尊』にも記した話だが、
夜、境内の工事をしていたところ、大きな狸らしきものが現れて驚かせたと。家に飛んで帰り「恐ろしいものが出た」と震え上がったということである。
三次さんは小柄だったがいわゆるカチコミというようながっちりした体形。まったく小心者というタイプではなかった。
このあたり、戦前にはキツネがたくさん棲んでいて狸も驚くには当たらないが、余程大きなものだったのだろう。ついでに言うと、戦後、私が子どもの頃、「日本盛」の敷地内で子ギツネが捕まったことがあった。私は実見していないが。
つづく