思い出、7回目。
U谷S吉という人があった。
うちの家から二軒北。
トヨエースという小型のトラックで運転手をしておられた。
たしか、塗料を運んでおられたように思う。
父が健在のころだから、昭和30年代前半、たまにこの人に店の手伝いをしてもらっていた。冬に使う練炭、薪、木炭などを値段の安い夏にまとめて購入されるお得意さんが何軒かあった。裕福な家庭で夙川方面だったと思う。雲井町だったかな?そのお得意さんは父が戦前奉公していた森具の古賀商店時代の知り合いだった。それの配達をU谷さんの仕事が休みの時にお願いしていた。うちの店ではまだ自転車で配達していたので。
U谷さんは因島出身だった。村上水軍の末裔だなどと聞いたことがあるがこれは眉つば。でも彫の深い赤ら顔で髪は癖毛。異国の血が入っていても不思議ではない。思い出せば目の色も多少青みがかっていた気がする。
U谷さんはお酒が滅法好きだった。
よく外へ出て飲んで帰って来られた。
夜中に外で歌声が聞こえる。U谷さんだ。お地蔵さんの床几に腰掛けて歌っておられるのだ。ごきげんだ。歌は必ず「われは海の子」。
子どもの頃の因島を思い出して歌っておられたのだ。
しばらく大声で歌ったあと家に入られる。
この人、酒飲みの運転手だったが、実は物知りでもあった。
「身体髪膚これを父母に受く、あえて毀傷せざるは孝の始めなり」という言葉を教えて下さったのはこの人だった。子ども心に賢い人なんだ、と思った。
ということで、この人の子どもさんは学業に優れていた。私よりたしか二歳ばかり下。U谷M重と言った。
4人兄妹だったが皆優れていた。
ところがこのM重君と私は特に仲が良かった。いつも遊んでいた。そしていつもケンカをした。子ども時代に最も多くケンカした相手だ。
そうだ思い出した。彼は子どもの頃、冬になるといつも青洟を垂らしていた。まああのころは多くの子どもが栄養不足で青洟を垂らしていたものだった。
鼻の下に2本の青洟が垂れている。それを見つけたうちの配給所の職員の小路さんはメリケン粉を手にM重を追いかけ捕まえ、鼻の下に擦りつけるのである。
するときれいに2本の白い縦線が現れた。懐かしい思い出だ。
さてS吉さんだ。
晩年は奥さんを先に亡くされ淋しそうだった。子どもたちも独立して家を出て行き、一人暮らしだった。夕方うちの店にやって来てメニューにないビールを飲み、家内の作った小鉢のものを肴にしみじみ飲んでおられた。うちの店では歌うこともなくおとなしいものだった。
つづく