門真の詩人、赤井宏之さんだが、先日またご来店くださった。
演劇をやっているというかつての教え子を連れて。
その時、また一冊の詩集を戴いていた。
『続ウ・カンナム氏の軌跡』という詩集。
奥付を見ると、1998年発行となっている。
丁度20年前というわけだ。
戴いてすぐにザッと読ませては頂いていた。
ところがバタバタしていて再読するのが遅れ、やっとじっくりと読めた。
例によって先ず「あとがき」
←クリック。
45歳とある。赤井先生、現役中の詩集ということになる。
文中に面白いことが。
《酔いに任せて網棚に一篇の詩を置いたまま電車を降りて
見知らぬ人が手にする姿を思い描いたこともある。》
なんかこれ、やってみたい気がしますね。一篇の詩というよりも一冊の詩集を。
どんな人が持ち帰り、どのように読んで、どんな感想をもつか?
また、その人がその家でどのような姿で読んでいるのか想像すると面白いかも。
ソファーでひっくり返って仰向きで読んでいたりして。
余談はさておき、この人の詩集3冊読んできたのだが、まこと「文は人なり」と思わせられています。
全篇に人肌の温もりが漂っていて、「いい人なんだろうな。いい先生なんだろうな」と。
高校の国語教師ということで、普通はどうしても構えたものになると思うのだが、
まったくそのようなことはなく、どちらかといえば教師らしからぬ、ザックバランさがあります。
だからと言って粗雑というのではない。人の心の細部を伺うような作品もあり、やはり詩人の繊細さも内に秘めておられる。
わたしの興味をひいた詩をいくつか。
「かく・恋・慕」という詩がある。
その第一連。
《説明を省いて詩を飛躍させないとね、と/あなたは言った/説明を省くと状況が伝わりにくいのですよ、と/僕は答えた》
これなんか、わたしもよく思うことです。どうしても説明しようとしてしまう。
赤井氏、こうは書きながら、後の詩ではちゃんと飛躍した詩を書いておられるのですがね。
内容の紹介は控えるが、「冬の夜の会話」なんて、ほんわかと色っぽくて楽しめる。
「盟友」という詩は電車の中での情景を自分の心情とともに描いて秀逸だと思うが、「雨降ってんの?なあ、雨降ってんの?」の繰り返しがなんともいえない雰囲気を漂わせている。地味な映画の名場面のようだ。
「「卒業文集」という詩は、余談になるかもしれないが、詩の中に「銀も金も玉も何せむに…」という山上憶良の歌が出てくる。
これ、わたしちょっとハッとするのです。よく使うのです。といっても子ども将棋教室に行った時の講座で。
ホワイトボードにこの歌を書いて、「これ、将棋に関係あると思いますか?」と。
するとみんな、「ある~っ」と言います。
そこでわたしの講釈が始まり、「親はあなたたちに立派な人間になってほしくて将棋を習わせているのです」とつないでゆき、
「将棋を子どもの時からするのは、集中力ほかいろんな力を身に着けることになり、ひいては自分の幸せにつながります。それは親の望むところでもあります」などと。ちょっと簡単に書きましたが、子どもたちは一気に食いついてきます。
そして次の「十五の君に」では、(それでおじさんはサンザンクローしているけれど)というのが出てきてまたわたしはビックリ。
これも将棋講座に使います。
先の話の中で、「親に将棋の本を買ってもらいなさい。買ってくれなかったらimamuraさんに電話してもらってください。説得してあげます。電話番号は、サンザンオヤクローです。親はさんざん苦労して子どもの幸せのために頑張っているのです」と。
横道に入りましたが、次の詩がわたしは好きです。
←クリック
「所有権」です。
「うちのクラス」という言葉、わたしにとって新鮮です。
何とも言えないユーモアと皮肉、多少の茶化し。「生意気なガキだ」という言葉はちょっと気になりますが、教師の立場からの「うちのクラス」という言葉に、深い愛情を感じてしまいます。
やはり、わたしは教師になりたかったなあ。
ところで赤井さんの詩集だが、わたしが最初に読んだのは、最新刊の『待ち合わせ』(2018年発行)。その次に『次に会う人』(2010年発行)。そして今回の『続ウカンナム氏の軌跡』(1998年発行)だが、発行の逆に読ませてもらったということですね。
やはり、最新刊が洗練されてきている気がしました。しかし底を流れるものは変わってはいませんね。正に「文は人なり」なのでしょう。
演劇をやっているというかつての教え子を連れて。
その時、また一冊の詩集を戴いていた。
『続ウ・カンナム氏の軌跡』という詩集。
奥付を見ると、1998年発行となっている。
丁度20年前というわけだ。
戴いてすぐにザッと読ませては頂いていた。
ところがバタバタしていて再読するのが遅れ、やっとじっくりと読めた。
例によって先ず「あとがき」
←クリック。
45歳とある。赤井先生、現役中の詩集ということになる。
文中に面白いことが。
《酔いに任せて網棚に一篇の詩を置いたまま電車を降りて
見知らぬ人が手にする姿を思い描いたこともある。》
なんかこれ、やってみたい気がしますね。一篇の詩というよりも一冊の詩集を。
どんな人が持ち帰り、どのように読んで、どんな感想をもつか?
また、その人がその家でどのような姿で読んでいるのか想像すると面白いかも。
ソファーでひっくり返って仰向きで読んでいたりして。
余談はさておき、この人の詩集3冊読んできたのだが、まこと「文は人なり」と思わせられています。
全篇に人肌の温もりが漂っていて、「いい人なんだろうな。いい先生なんだろうな」と。
高校の国語教師ということで、普通はどうしても構えたものになると思うのだが、
まったくそのようなことはなく、どちらかといえば教師らしからぬ、ザックバランさがあります。
だからと言って粗雑というのではない。人の心の細部を伺うような作品もあり、やはり詩人の繊細さも内に秘めておられる。
わたしの興味をひいた詩をいくつか。
「かく・恋・慕」という詩がある。
その第一連。
《説明を省いて詩を飛躍させないとね、と/あなたは言った/説明を省くと状況が伝わりにくいのですよ、と/僕は答えた》
これなんか、わたしもよく思うことです。どうしても説明しようとしてしまう。
赤井氏、こうは書きながら、後の詩ではちゃんと飛躍した詩を書いておられるのですがね。
内容の紹介は控えるが、「冬の夜の会話」なんて、ほんわかと色っぽくて楽しめる。
「盟友」という詩は電車の中での情景を自分の心情とともに描いて秀逸だと思うが、「雨降ってんの?なあ、雨降ってんの?」の繰り返しがなんともいえない雰囲気を漂わせている。地味な映画の名場面のようだ。
「「卒業文集」という詩は、余談になるかもしれないが、詩の中に「銀も金も玉も何せむに…」という山上憶良の歌が出てくる。
これ、わたしちょっとハッとするのです。よく使うのです。といっても子ども将棋教室に行った時の講座で。
ホワイトボードにこの歌を書いて、「これ、将棋に関係あると思いますか?」と。
するとみんな、「ある~っ」と言います。
そこでわたしの講釈が始まり、「親はあなたたちに立派な人間になってほしくて将棋を習わせているのです」とつないでゆき、
「将棋を子どもの時からするのは、集中力ほかいろんな力を身に着けることになり、ひいては自分の幸せにつながります。それは親の望むところでもあります」などと。ちょっと簡単に書きましたが、子どもたちは一気に食いついてきます。
そして次の「十五の君に」では、(それでおじさんはサンザンクローしているけれど)というのが出てきてまたわたしはビックリ。
これも将棋講座に使います。
先の話の中で、「親に将棋の本を買ってもらいなさい。買ってくれなかったらimamuraさんに電話してもらってください。説得してあげます。電話番号は、サンザンオヤクローです。親はさんざん苦労して子どもの幸せのために頑張っているのです」と。
横道に入りましたが、次の詩がわたしは好きです。
←クリック
「所有権」です。
「うちのクラス」という言葉、わたしにとって新鮮です。
何とも言えないユーモアと皮肉、多少の茶化し。「生意気なガキだ」という言葉はちょっと気になりますが、教師の立場からの「うちのクラス」という言葉に、深い愛情を感じてしまいます。
やはり、わたしは教師になりたかったなあ。
ところで赤井さんの詩集だが、わたしが最初に読んだのは、最新刊の『待ち合わせ』(2018年発行)。その次に『次に会う人』(2010年発行)。そして今回の『続ウカンナム氏の軌跡』(1998年発行)だが、発行の逆に読ませてもらったということですね。
やはり、最新刊が洗練されてきている気がしました。しかし底を流れるものは変わってはいませんね。正に「文は人なり」なのでしょう。