神戸の川柳作家、中野友廣さんから「現代川柳」第64号をお贈りいただいた。
中野さんには「輪」へもお越しいただいたことがあります。
「現代川柳」の編集部のスタッフの皆様と。
さて「現代川柳」ですが、重厚な本です。
84ページあります。
それが充実してます。
これだけのものを隔月で出すにはかなりのエネルギーが要ります。
スタッフの皆さんの能力がよほど高いのでしょう。
中身は川柳の羅列だけではありません。
自選作品、選評、初心講座など勉強になることがいっぱい。
そして、エッセイ欄が充実してるのです。
これは、みなさんのかつての師、時実新子さんの影響でしょう。
新子さんはもちろん、現代川柳の旗手と言われた人。しかしまた、エッセイの名手でもあった人です。
わたしは十分楽しませて頂きました。
後になりましたが、巻頭文「川柳の目」を中野さんが書いておられます。
その一部。
《本誌には、文芸としての現代川柳を愛し、作っていこうという人たちが集まっている。過去の文芸川柳、そして時実新子の川柳を大切に読み継ぎつつ、自身の川柳を研いていこうという人たちと共に本誌は歩んできた。(略)川柳は人物そのものを描く。額に浮かぶ一滴の汗や涙のにじむ瞳、戸惑いを隠せない手の動きまでクローズアップして、人間そのものを描くのだ…》
そして巻末の「事務局雑記」の中で、渉外担当の門前喜康氏がこんなことを書いておられる。
《サラリーマン川柳ほか、一般的に知られる”川柳”から生まれる誤解を解くような、文芸の薫るユーモア句の作句に頭を悩ませました。》
このことは大切なことで、生前の時実新子さんが口を酸っぱくするように言っておられたこと。
<川柳をバカにするような風潮を生むのは、新聞やその他媒体が、ふざけた笑いを川柳と勘違いして流布させている。>
だから川柳は俳句や短歌などほかの短詩形文学の一段下に見られてしまうと。
新聞などでも、ちゃんとした選者ではなく、手っ取り早い自社の記者などの素人を選者にしたりして、文学としての”川柳”を貶めていると。
彼女はそれを糺そうとして必死だったと思う。
そして彼女が頑張ったお陰で、川柳の文学的価値が上がったのだった。
ところが、彼女が亡くなって10年が過ぎ、また以前のように川柳をちょっとした娯楽だけの文芸と錯覚する人々が増えてきている気がする。
あの世で彼女はさぞ悔しい想いをしているだろう。
と、そんな風潮を打破すべく、中野さんたち「現代川柳」の人たちは頑張っておられる。
それがこの本、「現代川柳」を読むとよくわかる。
中野さん、頑張って下さい。
そしてありがとうございました。