この前、図書館に行った時に「リサイクル図書」のコーナーにあった本。
『丘の明り』(庄野潤三著・昭和42年刊)です。
頂いてきました。
中の「蒼天」という小説を読んでいて、「ほほう!」と思った場面。
《子供を抱いて走つた時の始りから終りまでは、映畫の中のひとつの場面のやうに覺えてゐながら、それが自分の過去の月日のうちのどのあたりに嵌め込まれるべきことなのか分からない。さうなると、その背景となる生活そのものが、何やら霞にでも包まれたやうな、頼りないものに思はれて来るのだつた。》
まるで私がこの春に出した詩集『恒子抄』の最後の二行ではないか。
《五十年の見境がつかない あれはいったいどのあたりなのだろう。》
『コーヒーカップの耳』おもしろうて、やがて哀しき喫茶店。
『丘の明り』(庄野潤三著・昭和42年刊)です。
頂いてきました。
中の「蒼天」という小説を読んでいて、「ほほう!」と思った場面。
《子供を抱いて走つた時の始りから終りまでは、映畫の中のひとつの場面のやうに覺えてゐながら、それが自分の過去の月日のうちのどのあたりに嵌め込まれるべきことなのか分からない。さうなると、その背景となる生活そのものが、何やら霞にでも包まれたやうな、頼りないものに思はれて来るのだつた。》
まるで私がこの春に出した詩集『恒子抄』の最後の二行ではないか。
《五十年の見境がつかない あれはいったいどのあたりなのだろう。》
『コーヒーカップの耳』おもしろうて、やがて哀しき喫茶店。