地理の部屋と佐渡島

2009年4月よりの佐渡単身赴任があけ、2014年4月より長岡へ。別れが絆をより深めた。今後ともよろしくお願いします。

中山街道「続キリシタン塚」

2005年01月20日 18時56分29秒 | 佐渡歴史
中山街道「キリシタン塚」の続編である。

 おおよその事については前回で紹介したが、現場にあった説明書きをここに書き写そうと思う。より詳しい内容がわかるのでお読み頂ければと思う。文は極力オリジナルの原文どおりに書き込みをしたが、何よりも佐渡にも17世紀前半に宣教師が来たというのには驚かされた。
 なお、このキリシタン弾圧については、江戸幕府の崩壊後も新政府によって継続されている。ただ、1873(明治6)年、禁教の高札は撤去され、政府としては黙認という方針をとったようである。諸外国の強い抗議があったのが背景といわれている。

佐渡殉教地百人塚の歴史

 佐渡ケ島に初めてカトリック宣教師が来たのは1619年イエズス会のデ・アンジェルス神父、続いて二年後のアダミ神父であった。当時、キリシタンに対する弾圧は全国に広がり、三代将軍徳川家光の時代には一双厳しくなり、土でデ・アンジェルス神父が五十人のキリシタンと共に火あぶりにされた弾圧はその幕開けであった。寛永十四年の秋に起きた島原天草の乱の鎮圧後幕府はキリシタン狩りを強化した。そして安全といわれていた佐渡にも弾圧がおよび、踏み絵等によってキリシタンは摘発され逮捕された。
 佐渡の歴史についてかかれた「国略記」や「佐渡年代記」には『今年、肥後国島原の乱により、中山と言うところにおいて[死刑]を行う・・・・』と記録されておりそれは一六三八年の出来事であったとよみとれる。ここ中山峠で殉教をとげた百人余のキリシタンは身分の低い貧しい人々であった為か名前はいっさい記録に残されていない。いわば指導者のいない無名の人々であった。佐渡における唯一のキリシタン殉教の地である。
 中山峠をはさんで三ケ所の塚は昔から人々に百人塚と呼ばれてきた。明治になって伝道師の大江雄松によって買い取られ、周辺はカトリック教会の墓地として利用され現在に至っている。
カトリック両津教会

 管理人:写真では、新しい墓地の奥に盛り土が確認できる。しっかりと確認してきたわけではないが、これが本来の塚かもしれない。詳しい方がいたらお教え願いたい。

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