今号は付録が付いて内容盛りだくさん。今までにない長文となっている。
佐渡市立金井歴史民俗資料館と隣り合う本光寺から、通りを挟んだ所に黒木御所跡がある。承久の乱においてその罪を問われて、佐渡に流された順徳上皇の在所跡だ。黒木のとなるのは宮が皮付きの丸太でつくられた粗末なものであったからといわれる。
承久の乱が勃発したのは一二二一年。三代将軍実朝死後の政争が続く鎌倉幕府に対し、これを好機ととらえた朝廷は北条義時追討の兵を挙げた。幕府方は約半月の戦いであっけなく勝利。勝利した幕府は、乱後厳しい態度で首謀者を処分した。この乱は、西国支配の足がかりの欲しかった鎌倉幕府にとっては、またとないチャンスとなり、幕府の全国政権化を可能とさせた。
さて、朝廷方の処分としては、後鳥羽上皇は隠岐、そして順徳上皇は佐渡へ配流が決められたが。この処分に対して土御門上皇は自ら土佐配流を望んだという。佐渡に流され、生涯を閉じた順徳上皇は、佐渡で火葬され、(その遺灰は)従者により京都へと帰ったという。その火葬塚が真野御陵で、上皇をまつった神社が真野宮である。このほか順徳上皇に関わりのあるところは他にもあるが、別の機会に紹介したい。下記は、御所跡の説明書きである。
承久の変(一二二一)により、順徳上皇は佐渡に配流となり、初め国分寺を行在所と定められたが当時国守が直接管理していた泉に仮宮を造営して行宮とし、そこに移られた。
御所の四隅には上皇の御持仏であった、観音・阿弥陀・薬師・天神が祀られ、日夜礼拝されたと伝えられている。順徳院はこの黒木御所に御遷幸以来、崩御までの二二年間、行在所とされていた。
御所内には昭和天皇が皇太子であられた大正五年七月九日、行啓の際の御手植えの松が実在している。
なお、向かいにある本光寺・佐渡市立金井歴史民俗資料館の説明書きも併せて載せておく。長くなるので、施設入口にある解説書きのみの紹介にとどめる。
付録1.【日蓮宗 法教山 本光寺】
黒木御所出仕観音別当地頭本間安連の嫡男、後の大和房日性上人。
延慶三年(一三一〇)開山
寺宝 ●順徳院御持仏 聖観音像
●日興上人筆 大曼陀羅 二幅
付録2.【佐渡市立金井歴史民俗資料館】
佐渡市には国仲農耕文化発祥の地といわれる約二千年前の千種遺跡(昭和二七年発掘調査)がある。
千種遺跡は、太平洋側の米作りの遺跡である登呂(静岡県)と並んで、日本海側の弥生時代の遺跡であって、農耕時代のあけぼのと呼ぶにふさわしい遺跡である。出土品を見ても、食料を得るための苦労がしのばれる。又、この資料館の付近は、史跡・旧蹟に恵まれ、百メートル北に向かうと、順徳院が在島二二年(一二四三)の間住まわれた黒木御所跡があり、隣の本光寺(日蓮宗)の収蔵庫には、順徳院の御持仏と伝えられる木造聖観音立像(国指定重要文化財)が安置されている。
又、同寺には日蓮と在島の苦楽を共にした弟子日興上人自筆曼陀羅(市指定文化財)もある。
国道から資料館に通じる県道に入ってすぐ右手に観世元清(世阿弥)の配処跡正法寺(禅宗)がある。世阿弥の最初の配所は万福寺(当市千種)であったが、戦乱を避け同寺に移された。ここで十社・泉・時鳥・配所・北山・壇風等を創作し、「金島書」Lとしてまとめた。同寺に古くから伝わる古面(神事面ペしみ)は、日照りの時雨乞いに使われたといわれ、県指定文化財となつている。
世阿弥は金島書の「泉」の中の一節に、「、、、人家いらかをならへ都とみえたり・・・」と泉を描写しているように、古代住居跡、屋敷跡、舘や城跡が数多く点在している。
この資料館に収蔵されているものは、
民俗資料-農耕・脱穀・調整・加工・着用具・搬用具等二千点
考古資料-縄文の貝塚・弥生の玉作りと農耕(千種)・古墳期の出土品・平安の墨書 土器等三千点
創立 昭和五十年六月十四日
開館 昭和五十年九月一日
佐渡市立金井歴史民俗資料館と隣り合う本光寺から、通りを挟んだ所に黒木御所跡がある。承久の乱においてその罪を問われて、佐渡に流された順徳上皇の在所跡だ。黒木のとなるのは宮が皮付きの丸太でつくられた粗末なものであったからといわれる。
承久の乱が勃発したのは一二二一年。三代将軍実朝死後の政争が続く鎌倉幕府に対し、これを好機ととらえた朝廷は北条義時追討の兵を挙げた。幕府方は約半月の戦いであっけなく勝利。勝利した幕府は、乱後厳しい態度で首謀者を処分した。この乱は、西国支配の足がかりの欲しかった鎌倉幕府にとっては、またとないチャンスとなり、幕府の全国政権化を可能とさせた。
さて、朝廷方の処分としては、後鳥羽上皇は隠岐、そして順徳上皇は佐渡へ配流が決められたが。この処分に対して土御門上皇は自ら土佐配流を望んだという。佐渡に流され、生涯を閉じた順徳上皇は、佐渡で火葬され、(その遺灰は)従者により京都へと帰ったという。その火葬塚が真野御陵で、上皇をまつった神社が真野宮である。このほか順徳上皇に関わりのあるところは他にもあるが、別の機会に紹介したい。下記は、御所跡の説明書きである。
承久の変(一二二一)により、順徳上皇は佐渡に配流となり、初め国分寺を行在所と定められたが当時国守が直接管理していた泉に仮宮を造営して行宮とし、そこに移られた。
御所の四隅には上皇の御持仏であった、観音・阿弥陀・薬師・天神が祀られ、日夜礼拝されたと伝えられている。順徳院はこの黒木御所に御遷幸以来、崩御までの二二年間、行在所とされていた。
御所内には昭和天皇が皇太子であられた大正五年七月九日、行啓の際の御手植えの松が実在している。
なお、向かいにある本光寺・佐渡市立金井歴史民俗資料館の説明書きも併せて載せておく。長くなるので、施設入口にある解説書きのみの紹介にとどめる。
付録1.【日蓮宗 法教山 本光寺】
黒木御所出仕観音別当地頭本間安連の嫡男、後の大和房日性上人。
延慶三年(一三一〇)開山
寺宝 ●順徳院御持仏 聖観音像
●日興上人筆 大曼陀羅 二幅
付録2.【佐渡市立金井歴史民俗資料館】
佐渡市には国仲農耕文化発祥の地といわれる約二千年前の千種遺跡(昭和二七年発掘調査)がある。
千種遺跡は、太平洋側の米作りの遺跡である登呂(静岡県)と並んで、日本海側の弥生時代の遺跡であって、農耕時代のあけぼのと呼ぶにふさわしい遺跡である。出土品を見ても、食料を得るための苦労がしのばれる。又、この資料館の付近は、史跡・旧蹟に恵まれ、百メートル北に向かうと、順徳院が在島二二年(一二四三)の間住まわれた黒木御所跡があり、隣の本光寺(日蓮宗)の収蔵庫には、順徳院の御持仏と伝えられる木造聖観音立像(国指定重要文化財)が安置されている。
又、同寺には日蓮と在島の苦楽を共にした弟子日興上人自筆曼陀羅(市指定文化財)もある。
国道から資料館に通じる県道に入ってすぐ右手に観世元清(世阿弥)の配処跡正法寺(禅宗)がある。世阿弥の最初の配所は万福寺(当市千種)であったが、戦乱を避け同寺に移された。ここで十社・泉・時鳥・配所・北山・壇風等を創作し、「金島書」Lとしてまとめた。同寺に古くから伝わる古面(神事面ペしみ)は、日照りの時雨乞いに使われたといわれ、県指定文化財となつている。
世阿弥は金島書の「泉」の中の一節に、「、、、人家いらかをならへ都とみえたり・・・」と泉を描写しているように、古代住居跡、屋敷跡、舘や城跡が数多く点在している。
この資料館に収蔵されているものは、
民俗資料-農耕・脱穀・調整・加工・着用具・搬用具等二千点
考古資料-縄文の貝塚・弥生の玉作りと農耕(千種)・古墳期の出土品・平安の墨書 土器等三千点
創立 昭和五十年六月十四日
開館 昭和五十年九月一日
登呂は、弥生時代の一番終わりの時代の遺跡で、すぐ近くの遺跡に古墳時代のはじめのものがあり、登呂の埋没後、そちらに移ったのではないかとも言われております。
千種の遺跡は佐渡でも認知度の高い遺跡です。
ただ、当方、弥生のいつの頃かは知りません。
申し訳ありません。
取材しなければなりませんね。
現在の遺跡の状態。
ご質問の内容。
共々、佐渡へ行った折りにたずねてみます。
ふるさと佐渡に関することです。
次ぎに佐渡へ行くチャンスがありましたら、先の件共々、記事にいたしましょう。
発掘報告書を読むと解かりますから。
読むのに骨が折れますが、慣れると楽しいです。これほど興味深いモノはありません。
登呂遺跡の正式発掘報告書も、当地に無く、新潟県立図書館から、当県立図書館が借りてくれて、読むことが出来ました。新潟は学問の水準が高い所です。
そんなことよりも、被災地の方々のご苦労、察して余りあります!
こういうときは、力の出る、お団子や、餅みたいなものが、いいですよね。
朝鮮人参も、肝臓の働きをよくしてくれて、疲れにくくなるそうです。
どうか、ご自愛くださいませ。
当方、出身は佐渡島旧両津市であります。現在は本州島長岡市に在住しております。
佐渡は、歴史・地理・民俗に関わる見所と、それらに関係する書籍の多いところで、今となって興味深いものがあります。
また、自然も美しく、ふるさとへの想いも年と共に益すばかり。語るに尽きせぬものを感じております。
登呂遺跡はかつてたずねたことがあります。今はありますでしょうか? 赤米の栽培されている水田もありました。幾粒かもらって帰りました(許しを得てですよ)。またいつかたずねてみたいものです。
さて、私と当地への励まし。感謝であります。ただ、当方の場合、団子は疲れをいやす一杯の方でしょうか..。本日は、疲れも手伝ってくれまして水割り三杯となってしまいました。