地理の部屋と佐渡島

2009年4月よりの佐渡単身赴任があけ、2014年4月より長岡へ。別れが絆をより深めた。今後ともよろしくお願いします。

中山街道「街道入り口から」

2005年01月15日 11時24分39秒 | 佐渡歴史
 相川と沢根の間に中山峠がある。現在は中山トンネルが通り、相川への交通はたやすいので、古い街道の存在は知ってはいても佐渡人とて訪れることはまず無い。しかし、峠を越える中山街道は今でも残されている。

 せっかくの機会。かつて数多くの流人、奉行所の役人などが通ったであろうその古い道を、切支丹塚まで歩いてみることにした。写真は、県道脇からそれて街道に入る入口部である。(入口部といっても中山トンネルをはさんで相川側である。)中山街道の標識と説明書きの看板が設置されている。道は、軽トラック程度であれば安心して通れるほどの山道。

 路上に車をおいて歩き始めたのはよいが、いくらか積もった雪道を歩き始めてみると、切支丹塚まではそこそこ距離があるようだ。最初の舗装はすぐに切れ、わだちの深い未舗装路となった。

 足下は悪いが、車の通ったあとも、人が歩いたあともない山道を一人歩くのもまた良いもの。冬枯れの落葉樹林、杉林、竹・笹林等、道端の植物の変化もあり、その場その場で異なる趣もある。振り返ると歩いてきた自分の足跡だけが雪に残っている。

 昔の人たちも歩いたであろうこの道を、今自分が歩いている。そんな物思いも人と共に歩いていたのでは会話で邪魔されそうだ。時には一人歩きで寂しい山道を歩くのも楽しく、『街道をゆく』(司馬遼太郎)の気分になる。以下に、この街道入り口にあった説明書きの文面を紹介する。

中山街道
 鉱山のある相川町へ入る往還道として、寛永五年(1628)ごろできたといわれる。この街道を歩いた人たちは数え切れない。
 江戸から着任する佐渡奉行も、唐丸篭で鉱山へ送られた無宿水替人夫も、国仲から入る商人も、皆この道を通ってきた。

『こともなく佐渡の中山またこゆる けふの帰りもいのちなりけり』

 天保の佐渡国一揆騒動のあと始末を終えて江戸へ帰る川路三左衛門奉行もこう詠んだ。路傍には江戸の獄門場、廻国供養塔、六地蔵、一里塚、庚申塔など昔なつかしい石塔が風雪にさらされている。

 約一キロ登った頂上に旅人や役人が、わらじを履きかえ、甘酒を飲み汗をぬぐった峠の茶屋あとがある。春から秋にかけて、竹林や樹間をかけぬける鶯(うぐいす)が多い。茶屋の上には寛永十四年(1637)島原の乱のあと、ここで処刑されたといい伝わる佐渡の切支丹信者たちの百人塚が残る。明治十八年(1885)この街道の脇に人力車が通る堀割新道ができてから廃道になった。

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