地理の部屋と佐渡島

2009年4月よりの佐渡単身赴任があけ、2014年4月より長岡へ。別れが絆をより深めた。今後ともよろしくお願いします。

新穂城跡

2004年12月03日 21時39分02秒 | 佐渡歴史
旧新穂村(現佐渡市)の中心街からやや離れたところに、濠を伴う館跡がある。

 佐渡は歴史的には相川金山や流刑の島として見られているものと思う。佐渡観光案内のパンフなどには、それらを売りとする史跡の案内が載っているが、国分寺、真野御陵、相川金山等々はまさにその歴史的観光スポットの例である。おきまりとはいえ、佐渡島民としては佐渡の歴史を語る自慢の史跡でもある。

 一方、佐渡の歴史をもう少し土着思考で見てみようとすると、また別の観点から中央と辺境の地であった佐渡との関わりや、歴史ロマンが見えてくる。 その好例ともいえる場所の一つが新穂城跡である。
 写真の濠の風景は、その新穂城跡のものである。下記は、その敷地内の旧新穂村教育委員会が建てた解説の立て看板からのものである

県指定史跡 新穂城跡
 国仲低地帯に分布する中性の城館群の一つで、新穂殿と呼ばれる村殿の城館跡である。
14世紀頃の成立と思われ、文安四年(1448年)に新穂有時、戦国末期には本間備前守などの城主名が記録に見られる。
 郭と東西・南北共に約100mのほぼ方形で、郭縁の土塁は大部分が失われている。外周には幅約20~25mの水量豊富な水濠がめぐり、以前はこの堀水が領内十数ヘクタールの水田灌漑用として使用されたといわれる。郭内は「城の内」と呼ばれ、中世陶磁片が出土する。外郭には表通り、横町、中仙道などの通りや観音堂がある。3キロ東北方の領境につ山城がよく形を留めている。
 天正一七年(1589年)上杉景勝の佐渡攻により、島内の各城主らと共に滅び、城館跡は廃城となり農民に開放された。  新穂村教育委員会

 現在濠は記述のとおりとはなっていないが、その断片はしっかりと残っており、その名残は十分に留めている。濠内は集会所用の建物があるだけで、館跡ととしての施設が見られるわけでは無いが、先の看板の内容を一人読んでいると、5~600年前のこの近辺の歴史を思いふける。そんな場所を好む人には、この様なマニアックな訪問先が数多くある。この写真を撮影した後、日を改めて同様の濠の残る青木城址を訪ねる私であったが、この地を好んで訪れる物好きは地元民以外にどれだけの人がいるであろうか。長期滞在をし、佐渡を知り尽くしたい人向きのとっておきの場所の一つである。


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