看板を読んで改めてわかった。達者という地名の由来。達者は「安寿と厨子王」の舞台。もの悲しい話も舞台が佐渡。特に外海府であるところがよい。
辺境の地とは誇張が過ぎるが、物語を語る舞台としては似合いすぎるくらいである。県道佐渡一周線から、看板の指示に従い地蔵尊まではすぐ。達者に行くことがあったら、海の方向だけでなく、山手の方にも目を向けていただきたいものである。下記は現地での説明による。
目洗地蔵尊の由来
今から千三十年前、村上天皇の永保元年九月、丹後の国由良の庄、山椒大夫は、領主岩城判官政氏の妻、宇和竹を佐渡の国雑太郡鹿ノ浦太夫平三郎と云う塩焼き荘司に売り飛ばした。そのことを聞いた姉の安寿の姫は、弟厨子王丸とともに母を訪ねてはるばる佐渡に渡った。
安寿恋しやほーやれほい、と粟に群がる雀の番をしていた母は、近くに流れる中の川の水を飲んだり顔を洗ったりしているうちに目が見えなくなった。その川の上流には鉛のでる鉱山があったと云う。
「片辺鹿ノ浦中の川の水は飲むな 毒が流れる日に三度」
とはやされていたと、それでも母は我が子恋しさに名前を呼びながら雀の番をしていた。母にめぐり会い夜道をかけて逃れ、この地に至り延命地蔵尊に参詣し、お祈りしながら湧き出る清水で喉をうるほし目を洗ったところ目我が子の姿が目に写り、親子抱き合いお互い達者でいたから会えたんだなあと云うて喜び合ったと、ここで着ているものを着替えて先を急いだ。田馳高地に弘法大師の井戸があり(弘法大師が錫杖ついて水を出したと云う古井戸)その井戸で顔を映した。はっきり見える見えるようになったんだと喜んだと、それからその井戸を姿見の井戸と云うようになった。
現在もその井戸は残って居ります。その後親子は小川の極楽寺へ寄って泊めてもらったらしく.....以後このを達者と云う。この坂を着替坂を「」きや坂と云い、この地蔵尊を目洗地蔵尊とも安寿地蔵尊とも呼ぶようになったと云う。
昭和五十四年八月十五日 檀信徒 寄贈者 浜辺 輝
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写真撮影:2006:05.03 佐渡市相川
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2006年 地理の部屋と佐渡島 sadorekisi
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