国道350号を小木方面に向かっていくと、一里塚が見られる。
今となっては一里塚とはそうそう残ってはいない。佐渡でも素人目にわかるのはここぐらい。貴重な歴史的財産だ。
その一里塚が担ってきた役割は、街道を移動するものたちへの利便を図るものであった。今はひっそりとしたものだが、そこにはさまざまな歴史があった。
この塚のある街道をゆく者たちはいかなる人たちであったか。一里塚脇にあった説明書きの看板を書き写したのが以下の文である。最後に羽茂町教育委員会とあるが、現在は佐渡市になっている。
<町指定文化財> 羽茂の一里塚
相川・小木街道は、慶長六年(1601)に相川金山が開かれると、今の国道沿いにできた。当時の徳川幕府を支えたといわれる佐渡の金も、奉行も通った光の道であるとともに、また、水替え無宿や佐渡の義民たちが唐丸籠で送られ、二度と帰らぬ陰の道でもあった。
相川街道の一里塚は承応二年(1653)に相川から一里ごとに九対築かれたといわれるが、今、完全に残るのはここだけになってしまった。また東京、板橋の一里塚から中仙道・北国街道を経て、これが最後の一里塚ともなった。
ここは、小木半島に続く丘陵上で眺めがよく、妙高山も米山も弥彦山も海の彼方によく見える。昔は、みな休んで行った所でもある。 指定年月日 昭和四十七年五月十日 管理者 羽茂町教育委員会
附記:管理人の記憶が誤っているのか、以前一里塚は紹介していた気になっていた。さがしてみるが無いようなので記事にした。
2005.5.14 20:00 若干の訂正追加
今となっては一里塚とはそうそう残ってはいない。佐渡でも素人目にわかるのはここぐらい。貴重な歴史的財産だ。
その一里塚が担ってきた役割は、街道を移動するものたちへの利便を図るものであった。今はひっそりとしたものだが、そこにはさまざまな歴史があった。
この塚のある街道をゆく者たちはいかなる人たちであったか。一里塚脇にあった説明書きの看板を書き写したのが以下の文である。最後に羽茂町教育委員会とあるが、現在は佐渡市になっている。
<町指定文化財> 羽茂の一里塚
相川・小木街道は、慶長六年(1601)に相川金山が開かれると、今の国道沿いにできた。当時の徳川幕府を支えたといわれる佐渡の金も、奉行も通った光の道であるとともに、また、水替え無宿や佐渡の義民たちが唐丸籠で送られ、二度と帰らぬ陰の道でもあった。
相川街道の一里塚は承応二年(1653)に相川から一里ごとに九対築かれたといわれるが、今、完全に残るのはここだけになってしまった。また東京、板橋の一里塚から中仙道・北国街道を経て、これが最後の一里塚ともなった。
ここは、小木半島に続く丘陵上で眺めがよく、妙高山も米山も弥彦山も海の彼方によく見える。昔は、みな休んで行った所でもある。 指定年月日 昭和四十七年五月十日 管理者 羽茂町教育委員会
附記:管理人の記憶が誤っているのか、以前一里塚は紹介していた気になっていた。さがしてみるが無いようなので記事にした。
2005.5.14 20:00 若干の訂正追加
貴サイトの水準点やら道標などの報告。
いつも見させていただいています。
目立たぬようで価値のあるものばかりです。
岡山県は二度ほど言った経験がありますが、こちらからは遠いところです。訪れてみたいところも数々ありますので、こちらも機会があればと願っています。
当時の一里塚の様子が残されいる貴重なものですね。
私も機会があればぜひ現地に行ってみたいです。
ありがとうございました。
http://blog.goo.ne.jp/4126nk/e/1e4f453f5319986f5881af75f4b66027