地理の部屋と佐渡島

2009年4月よりの佐渡単身赴任があけ、2014年4月より長岡へ。別れが絆をより深めた。今後ともよろしくお願いします。

中山街道「キリシタン塚」

2005年01月19日 23時16分33秒 | 佐渡歴史
やっとついた。キリシタン塚。あえて「切支丹塚」と言いたいくらい。特別漢字に直す必然性はないが..。なんとなく..。

 秀吉のバテレン追放礼があっても、貿易上の利益があるため、数十年間はキリスト教への弾圧策は曖昧なものであった。秀吉後の家康は、基本的にはその政策を継承するも、しだいに貿易統制と禁教令をもって鎖国政策を明確化していった。

 その政策は、当然徳川幕府の安寧を祈ってのものである。その方針は2代秀忠も継承するが、3代家光の治世中ついに、島原の乱(寛永12年=1635)が勃発。乱を鎮圧した後、貿易統制と禁教令のさらなる強化が進み、鎖国政策は完成の域へ。

 この様に17世紀の政治においては、キリシタンの存在は無視できない。江戸幕府によるキリシタン弾圧の歴史的史実は数多いが、島原の乱を期に強化された弾圧策は、佐渡にいた信者も例外としなかった。

 当時佐渡にはキリシタンは120人いたと報告されているが、キリシタン塚はその信者達が処刑された場所といわれている。

 現場はすっかり整備されていて公園のごとくなっていた。期待したのは寂れた盛り土の塚や、石塚であったが、後世の信者達によって整備されたもののようだ..。

 ひっそりとしたこの風景にマッチしているとも、ミスマッチであるとも評価はできない。ただ、信仰あるが故に殉死した人々がいたことを後世に伝えているし、流刑の島という一面のある佐渡において、歴史の中心との接点を見せてくれる場所であると思う。

 この後、静かな現場をもと来た道をたどり戻った。キリシタン塚へ至る冬枯れの山道。歩きはつらかったが、何か心地よいものも感じた。春・夏・秋という季節であったらどのように感じただろう..。


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