日本語は本当に素晴らしい。外来語を吸収して日本語にしてしまうその力には驚くものがあります。
と言うか、それが日本の力でしょうか。それこそが多神教である神道の力かもしれません。
そんなことをねずさんが書いてくれています。
何時ものように全文をリンク元で読んで下さい。
ねずさんの学ぼう日本より 2022/09/22
天高く馬肥ゆる秋
・・・略
たとえば戦後の日本は、米国たくさんのカタカナ英語を採りいれましたが、その中には、本来の英語の意味とはぜんぜん別な意味に使われている単語がたくさんあります。
どうしてそうなるかといえば、日本人が、単に英語をカタカナにしているのではなく、日本の文化的の土壌の上に、カタカナ英語を採りいれているからです。
杜審言の『秋高馬肥』の歌も同じです。
杜審言の漢詩は漢詩として楽しむ。
けれど、もとからある「食欲の秋」に、たまた似た意味のフレーズが杜審言の漢詩にあったから、そこに寄託して「天高く、馬肥ゆる秋」を慣用句として用いたのです。
なんでもそうですが、漢詩にせよ漢文にせよ英語にせよ、なんでもかんでも日本は劣っていて、何もかも余所の国から教わったのだというように子供たちに教えたり、解釈したりすることは、よろしくないと思います。
そういうものは、情報操作に軽々と乗せられてしまった、あわれな愚行であると、断じさせていただきたいと思います。
日本語にカナ(カナは神名(かな)ともいいます)があり、漢字に訓読みがあるように、我々の祖先は、もとからある大和言葉による日本文化という土壌の上に、輸入文化を日本風にアレンジして導入してきたのです。
似て異なるのが、漢字文化と日本文化です。
両者を混同するだけでなく、漢字文化が日本文化よりも上位に位置するのだというように、そもそも物事を上下関係でしか捉えようとしないということ自体が、日本的思想からは外れているのです。
これは特に戦後の文系学会の、大きなはき違いの最たるものであろうと思います。
あたりまえです。
文化に上下など、あろうはずがないのです。
それぞれの国の、それぞれの風土の中で培(つちか)われてきたものが文化です。
地震のない国と、常に地震の脅威にさらされている国では、その建築文化に違いがあるのは当然です。
内陸部で海がなく、塩分は動物の肉からしか取れない国や民族と、四方を海に囲まれて、いつでも塩分もタンパク質も摂取できる国では、食文化だって異なります。
要するに文化に上下などない。
さて、秋の雲といえば羊雲。
その羊雲を、天皇の大喪の礼の際の弔問の人々に見立てた歌が万葉集にあります。
日本は自然環境の厳しい国ですが、同時にその自然環境は、常に私達日本人に恵みを与え続けてくれた環境でもあります。
そうしたなかで、おのずと備わった尊敬と感謝の日本文化。
こういうものを、我々は後世にまで、しっかりと伝えて行きたいと思っています。
やたらなカタカナ言葉には嫌になりますが、日本語・文化の凄さ故と考えれば少しは受け入れることも出来そうです。
それでも、もう少し控えて欲しいものです。