団塊の世代のつぶやき

誇れる日本を取り戻そう

★「道」と「教え」と「つながり」がもたらす日本文化

2022年01月05日 | 神道

 全ての宗教の上に立つ神道の素晴らしさに感動していましたが、ねずさんに神道は道だと教えられ、又しても目から鱗でした。
  剣道・柔道・茶道などあらゆるものに道をつけて技を極めるのもここから来たのでしょう。
  そんな道を極める柔道がオリンピックに採用されたことで本来の道を外れてしまったのも当然かもしれません。
  これも、結局は金に目が眩んだのかもしれません。

  今回も、そんな素晴らしさを書いてくれています。

  何時ものように全文をリンク元で読んで下さい。

  ねずさんの学ぼう日本より     2021/12/29

  「道」と「教 え」と「つながり」がもたらす日本文化      

  ・・・略

 日本で神道と仏教が融合できたことを不思議に思う人がおいでになります。
全然、そうではないのです。
日本人は、人として歩む道を得るため、さまざまな「教え」を得ようとしてきただけのことだからです。

 神道と仏教の融合のことを「神仏習合」と言います。
それだけではありません。
日本では、儒教もまた神道と融合しています。これを「神儒融合」と言います。

 お隣の国を視たらわかりますが、お隣の国にも儒教、仏教、道教などがありますが、それらは決して融合しません。
なぜならそれらはすべて「教え」だからです。
けれど、「教え」の前に「道」という概念がないのです。
だから、すべての教えは、私利私欲のために用いられることになります。

 そういう意味で、「道」を根幹における日本人は幸せです。
なぜなら、すべてを「つなげる」ことができるから。



  それにしても道という考えを産み出した我が先人は本当に凄い。なんとしても、その心を取り戻し日本を再生したいものです。


★キリスト教のどこか偽善で欺瞞なのか

2021年06月03日 | 神道

 不思議なのは人類の幸福を説きながら尤も不幸な戦争を止めない一神教です。それに比べて、アミニズムとバカにされてきた多神教の神道の素晴らしさをネットのお蔭で知ることができました。

  その一神教の代表とも言えるキリスト教を偽善で欺瞞と抉りだした本を奥山篤信さんが海てくれたようです。

  宮崎さんが書評で取り上げてくれています。それにしても、神道を宗教じゃなく道と喝破したねずさんの説は素晴らしい。それを選んだ日本の凄さでしょう。

  「宮崎正弘の国際情勢解題」より   令和三年(2021)5月22日(土曜日) 通巻第6918号
 
  書評 

 生と死は全体であり、切り離せないものである
  キリスト教のどこか偽善で欺瞞なのかを抉り出した無神論者の論理

  奥山篤信『さぁ、僕がキリスト教を教えましょう!』(春吉書房)

 「神は死んだ」とニーチェは言った。著者の奥山氏は無神論の立場から、キリスト教をカルトと断じ、激しい語調で、この宗教 の偽りを衝く。それも場当たりではなく、氏は定年後に上智大学神学科に入学して修士を取得後、わざわざパリのカトリック大学 に留学し、徹底的に聖書を研究した。
 それまでに氏は東大に学び、三菱商事に勤務してニューヨークにも駐在したというエリートコースの人生を歩んだ。そうした履 歴を勘案すれば、なにゆえにここまでの発言を展開するのかが、本書の爆発的パワーを秘める所以である。 
 しかし、いきなりキリスト教が、「奇蹟や預言者の存在を絶対的存在する超越だと考えているから救いようがない」。「旧約聖 書の預言者はイカサマ・ペテン師にすぎない。だいたいそう言うように後付けでくみたてられている、つまり後出しジャンケンと 言える」(55p)などと言われると、尻込みする読者もでてくるだろう。
 評者(宮崎)、半日かけて本書を読了し、しかも読みながら、しきりにニーチェを考えていた。ニーチェのキリスト否定の激し さ、あの哲学的衒学的語彙のなかに迸りでるキリスト教、とりわけ教会への痛罵、そのことを比較して読んだ。
 そして膝を打った箇所がある。
 かねてから評者は、聖書のなかで、唯一得心できるのは「山上の垂訓」と結論してきたが、奥山氏もこう言う。
 「聖書の山上の垂訓は、議論が闊達に融通無碍とすることの足かせとなる。一方でイエスの逆転の発想ともいえる山上の垂訓 は、まさに旧約聖書が克服できなかった問題を、いはば理想の形でイエスが説いたものといえるだろう。当然人間である以上これ を遵守できるものは絶対に不可能である」(68p)
 「この一神教たる排他主義は唯我独尊の同じ神を崇拝するもののみが救われるという、<救い>の特権性がある」(103p)
 それゆえに「ブランド主義の日本人よ! バチカンなどあるいはフランシスコ法王の発言などをありがたがるこの異常な国民 性、失礼だと思わずに教科書までキリスタンの反乱など(天草四郎の乱)を賛歌するかのように書く我が日本人とは何なんだ!」
 「切支丹の偽装を見抜きいち早くこれらを追放した豊臣秀吉こそ日本の英雄であり、キリスト教によって偽善と欺瞞の魂まで陵 辱されたアジアのキリスト教国家群を見よ! 日本は豊臣秀吉によって救われたのだ」(120p)

 そして奥山氏は福田恒存の箴言を引用する(164-165p)
 「現代のヒューマニズムにおいては、死は生の断絶、もしくは生の欠如を意味するにすぎない。いいかえれば、全体は生の側に のみあり、死とはかかわらない。が、古代の宗教的秘儀においては、生と死は全体を構成する二つの要素なのであった。人間が全 体感を獲得するために、その過程として、死は不可欠のものだったのである(中略)。生の終わりに死を位置づけえぬいかなる思 想も、人間に幸福をもたらすことはないだろう。死において生の完結を考えぬ思想は、所詮、浅薄な個人主義に終わるのだ」(福 田『人間・この劇的なるもの』)

 結語として奥山氏はまとめた。
 「キリスト教のみならず宗教そのものが人間の救いなどに何の役にも立たず、むしろ宗教間の排外主義の存在の方が人間社会の 和を破壊する強烈な障害だということが良く分かった」(197p)。
 解説をキリスト教徒で文藝評論家の富岡幸一郎氏が書いている。

  やはり、日本に産まれたことを感謝するしかなさそうです。世界にこののどかさを広めてあげたいものです。
  宗教戦争ほどくだらないものは無いと言えば顰蹙を買うのでしょうか。


★日本の多神教 と海外の多神教はまったく異なるもの

2021年05月24日 | 神道

 神道と一神教の違いを見事に教えてくれたのが、1月6日、第2394回の「★★★神道は道、宗教はハウツー本」で、取り上げたねずさんの説でした。
  しかし、この説を一神教の人達に教えてあげたら納得するでしょうか。ちょっと難しいかもしれませんね。下手すれば争いになりそうです。これを如何に上手く説明するかで日本の立場も変わってくるかもしれません。

  今度は、多神教も海外のそれとは違うと教えてくれています。こちらは争いにもならないかも。

  その中で、ねずさんが書いてくれているガー ゴイルが気になってサーチして、長年の疑問が解決しました。
  あの教会の屋根にある悪魔の像を何時も不気味としか思えず、何だろうと思っていましたが、何時ものように調べることも無く今まで来てしまいました。
  ところが、なんとあれば樋だそうです。樋にあんな装飾を施す感覚も日本人とは違うようです。

  何時ものように全文をリンク元で読んでください。

  ねずさんの学ぼう 日本より    2021/05/16

  日本の多神教 と海外の多神教(ポリティスティック・Polytheistic)はまったく異なるもの

  ・・・略

  我々日本人は、特に幕末において、西洋の文物を学ぶために、外国の文献を日本語に翻訳するために、たくさんの用語を新設しま した。
たとえば、英語の「Right」を「権利」と訳したりしたわけです。
そこから「人権」などという言葉も生まれました。
「人権」は、人にもともと備わっているもの、というのが、おそらく多くの日本人の理解だと思われますが、ただし英語の 「Human rights」にもある「Right」という用語には、「神の御意思に基づく」という語彙があります。

 ですから、たとえば悪さをした者が、たとえ人権を口にしたとしても、それは神の御意思に背く行動であったわけですから、当然、 処罰の対象となります。
しかし、翻訳語の「人権」には、そこにある肝心の「神の御意思」という概念が欠落しています。
このため、現代日本では「人権」という用語が一人歩きをしてしまっていて、むしろ悪事を是認するかのような使われ方をするに至っ ています。

 福沢諭吉は、西周(にしあまね)らによるこの「権利」の翻訳について、これでは英語の意味がちゃんと伝わらないとして、 「Right」はむしろ「通義」と訳すべきだ、などと喝破していますが、まさにその通りとなったものといえます。

 要するに、我々日本人は、幕末から明治にかけて、たくさんの欧米の用語を日本に輸入し、これによって明治以降、それまでの日本 になかった、まったく新たな日本文化を創生したわけですが、だからといって、そうして形成された日本文化を、単に辞書的な翻訳 で、英語やドイツ語に翻訳すると、意味がまったく違って相手に伝わってしまうことは、よくあるわけです。

 近年では、英語を話せるようになりたい、ということから、小学校のうちから英語を学ばせようという動きが顕著になっています。
それはそれで良いことだと思いますが、そうであれば、それと並行して、あるいはそれ以上に、日本人としての日本的価値観や、歴史 文化伝統をしっかりと子たちに教えることが必要です。

 ただ、英語を話せれば、外国人とコミュニケーションがとれると思ったら、大間違いなのです。
なぜなら、文化的背景が異なれば、単語の語彙からして、まったく意味が異なってしまうからです。

  今回はフェイスブックの投稿を見つけられませんでした。何か変更があったようです。

  それにしても、日本は本当に世界と違っています。正に、日本の常識は世界の不常識です。やはり、日本は内外の使い分けを常に考えて海外との付き合いをしなければならないようです。  

  
  それが分からないのが外務省でしょうか。


★お葬式の不思議・神葬祭と告別式

2021年05月06日 | 神道

 日本の凄さは底なしですね。何と言っても仏教を取り込んで神道と並存させたことがその証拠じゃないでしょうか。
  世界は未だに一神教で争っていることこそがその証拠です。その寛容の無さこそが一神教の最大の欠陥じゃないでしょうか。
  やはり、我が先人の凄さを世界に広める必要があります。とは言え、まずはその心を日本人が取り戻すことが急がれます。

  そんな凄さをねずさんが葬式を例に教えてくれています。何時ものように全文をリンク元で読んでください。

  ねずさんの学ぼう 日本より    2021/04/28

  お葬式の不思 議・神葬祭と告別式  

  ・・・略

 ですからいたずらに、英語で、
「Japan is a polytheistic country.」
 (日本は多神教の国です。)
などと翻訳して、ちゃんと意味が通じている気になっていると、外国の人にあらぬ誤解を受けることになります。
異文化との交流は、単に語学ができたらそれで良いというものではないのです。
自国の文化、他国の文化について、ちゃんとした知識を持たないと、誤解が誤解を生み、あらぬ誹謗中傷や、決定的な対立まで引き起 こしかねないのです。
英語を学ぶ初心者ならいざしらず、大人が外国人と交流するときには、そうした文化の違いを、はっきりと認識しておくべきなので す。・・・中略

 そして江戸時代、葬式は仏式が強制となったとき、多くの人々が選んだ神仏習合の道が、魂は極楽に旅立つけれど、その一部はお位 牌に残って、私達を見守っていてくださっている、という、これはいわば自動車のプリウスのような、いわばハイブリッドの思考で あったわけです。

 我々日本人は、たいへんに古くて長い歴史を持つ文化の中にいます。
そうした日本文化の持つ意味を、あらためて見直して見る。
そうすることで、あらためて、私達が日本人であることの意義を再発見してみる。

 それが、とりもなおさず、私達日本人が、日本人としての誇りを取り戻すきっかとなっていくのだと思います。


歴史を学ぶことでネガティブをポジティブに。 今日のねずブロは《お葬式の不思議・神葬祭と告別式》です。 我々日本人は、たいへんに古くて長い歴史を持つ文化の中にいます。 そうした日本文化の持つ意味を、あらためて見直して見る。 そうすることで、あらためて、私達が日本人であることの意義を再発見してみる。 それが、とりもなおさず、私達日本人が、日本人としての誇りを取り戻すきっかとなっていくのだと思います。 続きはブログで

小名木善行さ んの投稿 2021 年4月27日火曜日

  それにしても、日本の凄さを世界に広めるにはどうしても言語が壁になるようです。翻訳機がその壁を取り去ることが出来れば良いのですが、そこまで期待するのは無理じゃないでしょうか。

  やはり、日本語を世界共通語として子供の時から育つしか無さそうです。これはもっと難しそう。


★なぜ古事記を学ぶのか

2021年04月05日 | 神道

 ねずさんのお陰で古事記を学ばなかったことがどれ程の損失だったかを知り、何とも悔しい。とは言え、今更学ぶ気力も無いのが情けない。
  やはり、政府・自民党に何としても教育改革をやって貰いたいものです。今の文科省を筆頭とした教育界を変えない限り日本の再生は難しいでしょう。それに手を付けようともしない政治は信用できません。

  何時ものように全文をリンク元で読んでください。 

  ねずさんの学ぼう 日本より    2021/03/29

  なぜ古事記を 学ぶのか

  ・・・略

 《質問6》古事記って宗教?学校で宗教を教えるのですか?

 神話に限らず、神道もまた、宗教ではありません。
そもそも宗教という用語が作られたのは幕末の頃です。
神道は、幕末よりも、もっとずっと古くから存在しています。
宗教というのは、神の教えのことを言います。
ですから宗教法人法には、《「宗教団体」とは、宗教の教義をひろめ、儀式行事を行い、及び信者を教化育成することを主たる目的と する左に掲げる団体》(宗教法人法第二条)と書かれています。
要するに、教えがあって、その教えをひろめるのが宗教だというわけです。

 ところが神道には、教えがありません。
信者の教化育成も、「言挙げせず」といって、まったく行いません。
なぜなら神道は「道」であって、「教え」ではないからです。

 「道」と「教え」は異なります。
人が正しく生きる道のことを、人道と言いますが、人道は「教え」ではありません。
人は、道を得るために教えを求め、教えに従って道を切り拓きます。

 たとえば受験勉強では、「こうすれば成績が上がる」、「こうすれば受験で合格できる」といったハウツー本がたくさんありますけれ ど、それらを読んだだけで成績が上がることは決してありません。
それらは合格のための近道を教えてくれるものではあるけれど、結局のところ、本人が勉強をしない限り、決して成績があがることは ないのです。
このときの、受験生として志望校に合格するまでの道のりが「道」です。
そして「こうすれば成績があがる」という教えや、それぞれの教科の学習をすることが「教え」と「学び」です。
受験生は、「教え」を学びながら、合格という目標に向かって「道」を歩むのです。

 これが人生における「宗教」と、道としての「神道」の違いです。

 神話は、それぞれの神様が歩まれた道です。
それぞれの神様は、子や孫の幸せを願って活躍されました。
そうした幸せへの願いの連続の中に、いまを生きる私達の生命があります。
神社への参拝は、過去のご祖先への感謝であり、未来の子供たち、子孫たちの幸せへの祈りでもあります。
もちろん神社で自分のしあわせ(ご利益)を祈ることもありますが、それはむしろ自分がご祖先からいただいた「ご先祖の祈り」への 「感謝」であり、子孫の幸せのための「祈り」であり、その祈りと感謝を、この先も未来永劫つないでいこうとする、過去と現在と未 来をむすぶものであるのです。


歴史を学ぶことでネガティブをポジティブに。 今日のねずブロは《なぜ古事記を学ぶのか》です。 なぜ神話を学ぶのかについては、以前このブログに書いたことがあります。 今回のテーマの「なぜ古事記を学ぶのか」も、答えは似たようなものですが、整理してみたいと思います。 続きはブログで

小名木善行さ んの投稿 2021 年3月28日日曜日

  それにしても、神道が道であり宗教は教えというのは分り易くて良いですね。道を追求して来た先人の凄さに改めて感謝です。


★★★神道は道、宗教はハウツー本

2021年01月06日 | 神道

 神道は全ての神々を包み込むものである。つまりは、キリスト教など一神教も全て神道に含まれるものだと漠然と理解してきました。
  そのもやっとしたものが、今日のねずさんの話で晴れました。

  神道は人道を極めるものであって、多くの宗教はその道を極める為のハウツー本であるということです。これなら胸にストンと落ちます。
  こんな事を書くと一神教の方達から顰蹙を買いそうですが、どうぞ一度考えて見てください。

  何時ものように全文をリンク元で読んでください。 

  ねずさんの学ぼう日本より    2020/12/30

  神話への素朴 な疑問に答える

  ・・・略

 ところが神道には、教えがありません。
信者の教化育成も、「言挙げせず」といって、まったく行いません。
なぜなら神道は「道」であって、「教え」ではないからです。

 「道」と「教え」は異なります。
人が正しく生きる道のことを、人道と言いますが、人道は「教え」ではありません。
人は、道を得るために教えを求め、教えに従って道を切り拓きます。

 たとえば受験勉強では、「こうすれば成績が上がる」、「こうすれば受験で合格できる」といったハウツー本がたくさんありますけれど、それらを読んだだけで成績が上がることは決してありません。
それらは合格のための近道を教えてくれるものではあるけれど、結局のところ、本人が勉強をしない限り、決して成績があがることはないのです。
このときの、受験生として志望校に合格するまでの道のりが「道」です。
そして「こうすれば成績があがる」という教えや、それぞれの教科の学習をすることが「教え」と「学び」です。
受験生は、「教え」を学びながら、合格という目標に向かって「道」を歩むのです。

 これが人生における「宗教」と、道としての「神道」の違いです。

 神話は、それぞれの神様が歩まれた道です。
それぞれの神様は、子や孫の幸せを願って活躍されました。
そうした幸せへの願いの連続の中に、いまを生きる私達の生命があります。

 神社への参拝は、過去のご祖先への感謝であり、未来の子供たち、子孫たちの幸せへの祈りでもあります。
もちろん神社で自分のしあわせ(ご利益)を祈ることもありますが、それはむしろ自分がご祖先からいただいた「ご先祖の祈り」への「感謝」であり、子孫の幸せのための「祈り」であり、その祈りと感謝を、この先も未来永劫つないでいこうとする、過去と現在と未来をむすぶものであるのです。


歴史を学ぶことでネガティブをポジティブに。 今日のねずブロは《神話への素朴な疑問に答える》です。 神話に関する6つの疑問 1 神話ってそもそも何ですか? 2 神話は事実ではない作り話。教える必要がありますか? 3 他の国では自国の神話や建...

小名木善行ねずさんと学ぶ会さんの投稿 2020年12月29日火曜日

  それにしても、神話を教えていない国は日本だけというのは衝撃ですね。取り上げたアメリカが教えているのも驚きです。
  レーガンさんが教育勅語をアメリカで教えるようにした話を思い出します。

  やはり、「いい加減に目を覚まさんかい、日本人! 」ですね。反日売国左翼・在日共の反対に腰の引けた対応しかできない政府・自民党は必要ない。

  国の為に働く政治家を国会に送りましょう。


★「道」と「教え」にみる日本人の宗教観と主体性

2020年12月24日 | 神道

 神道は全ての宗教を受け入れる事が出来る一神教の上にあるものだとネットで勉強したつもりでしたが、上とか下とかの考えもやはりちょっと違うようです。

  ねずさんが、それは「道」と「教え」の違いと書いてくれています。どうやら日本人の道好きはそこから来ているようです。

  折角先人が明治時代に翻訳してくれた言葉ですが、微妙な違いまでは表現出来なかったようです。やはり、育ちの違う者達が本当に言葉で分かり合えるのは至難の技のようです。

  何時ものように全文をリンク元で読んでください。


  ねずさんの学ぼう日本より    2020/12/17

  「道」と「教 え」にみる日本人の宗教観と主体性

  ・・・略

 この、日本における宗教観が、与えられた「教え」ではなく、単に「道」を示したものであったという点は、たいへんに興味深いと ころです。

  なぜなら、
「教え」であれば、その根幹に唯一絶対のものがあり、その絶対のものを教わることで、人は幸せになれるのだと考えるのに対し、 「道」は、ただ方向を示すだけで、その道を進むのか、別な道を選択するのかは、本人次第だからです。・・・中略

 ところがいつの世にも、そうした社会体制を悪用して、我が身の贅沢を図ろうとする者が現れます。
これを許さない社会を築くための方法は、二つありあります。
ひとつは、武力をもって悪を許さないこと。
もうひとつは、民衆の中に、高いレベルの教育と、文化が育てることです。
日本が選択したのは、後者です。・・・以下略

  

歴史を学ぶことでネガティブをポジティブに。 今日のねずブロは《「道」と「教え」にみる日本人の宗教観と主体性》です。 人が正しく生きる道のことを、人道と言います。 人道が大切であることは、万国共通の常識です。 けれど人道は、教えではありません。 教えを通じて得る結果が、人道です。 これが「宗教」と、「神道」の大きな違いです。 これは日本文化の大きな特徴です。 続きはブログで

小名木善行さ んの投稿 2020 年12月16日水曜日

  高いレベルの教育と文化を捨てた戦後の日本人が武力も持ちたがらないのはこんな日本の成り立ちがあるからなのでしょうか。
  やはり、日本の常識は世界の非常識のようです。余りにも恵まれた国に産まれたことが今の憲法を改正することを拒否しているのだとしたら皮肉なものですね。


★ローマ教皇「ウイグル族迫害」と懸念 中国は反発

2020年11月29日 | 神道

 ローマ教皇が、流石に世界の非難に気が付いたのか、急にウィグル族迫害に懸念を表したようです。
  もう遅かったのじゃないでしょうか。キリスト教の胡散臭さは多くの人達が気が付いて来たのじゃ無いでしょうか。日本は秀吉の時代から気が付いていたようですが。

  一神教はすべからく神道の下に入るべき時代が来るのじゃないでしょうか。その時こそ世界から宗教戦争が無くなる時かも。


★とうとうバチカンは本音で動くのか

2020年10月26日 | 神道

 このところローマ教皇の言動がおかしいと言われてましたが、とうとう教義も捨てたようです。
  何と、同性愛者の事実婚を認めたそうです。Chinaも諦めてないようです。余程、信者の減少が堪えているのかもしれません。やはり、教義より金なのでしょうか。 


  元々、日本ではその胡散臭さで広まることがなかったキリスト経ですが、やっと世界も気が付いてきたのかもしれません。
  いよいよ神道の時代が来るのかも。


★神社での参拝の作法

2020年10月18日 | 神道

 戦後教育にどっぷりと浸かっていたので完全な自虐史観の平和ボケだったことは何度も書いてきました。
  その弊害もあって、神社の参拝にも殆ど行ったことがありませんでした。それだけに参拝の作法なんて全く知らずに来ました。
  もしかしたら、今の極貧生活もこの所為じゃないかと反省しています。とは言え、金も体力も無くなった今、神社を参拝する機会も殆どなさそうです。

  ネットのお陰でその参拝の作法も少しは覚えていますが、何といっても実践が少ないだけにきっとその時になったら思い出さないのじゃないかと思っています。

  今回のブログは、ねずさんにそこをズバリ突かれたような気がします。

  何時ものように全文をリンク元で読んでください。

  ねずさんの学ぼう日本より   2020/10 /10

  神社での参拝 の作法

 ・・・略

 こうした保守的な活動をしていると、皆様とともに神社に参拝させていただくことがよくあります。
ところが最近になって目覚めた方に多いのですが、参拝の作法がわからないという方もおいでになります。
そこで、基本的な神社参拝の作法について、服装、鳥居のくぐり方、参道の歩き方、手水、参拝、玉串奉奠の6つをまとめてご紹介し てみたいと思います。・・・中略

 国の富が民衆に分散され、特別な大金持ちもいない代わりに、超のつく貧乏人もいない。
誰もがそれなりに真面目に働きさえすれば、確実に中流の(つまり人並みの)生活を送ることができる。
民衆が総中流化しているうえに、いざ災害などの天変地異が起これば、必ず政府が被災者のために行動を起こしてくれる。
そして政治が被災者のために行動を起こすのは、それが国家最高権威によって政治権力に与えられた役割になっている。
そういう社会体制が、何百年、何千年と培われてきたからこそ、日本では災害時に暴動が起こらないのです。

 そしてそういう社会体制が根幹にあるからこそ、政府も、神官も、ただ「これが作法ですよ」というだけで、民衆は黙って、それに従 う。
これこそ人類が希求し続けた、究極の社会体制と言えるものなのではないでしょうか。
そんな国を日本は築き続けたのです。

 私達が取り戻そうとしている日本は、そういう日本です。
このことに反対し、あるいは攻撃を繰り返す人たちというのは、どういう人たちでしょうか。
日本の治安が悪化し、悪党がはびこり、民衆が収奪される世の中を求めているのでしょうか。
そうであるなら、それは、日本にとっての害毒というだけでなく、人類にとっての敵です。
そして神々は、そのような人たちを決して許すことはないと思います。・・以下略



  何とか身に付けて、もし参拝する機会があれば作法通りに自然にやりたいものです。多分無理でしょう。


★神道が世界を救う ゲスト:マンリオ・カデロ大使

2020年08月11日 | 神道

 「神道が世界を救う」という本を書いてくれた加瀬さんとカデロサンマリノ大使さんを、2018年9月7日、第1541回の「★神道は日常を律するこころの信仰」で、取り上げました。

  何と、そのお二人が同じタイトルで対談をしてくれています。こうやって、外国の方が神道を理解してくれているというのに、未だに日本を貶めることばかりしかやらない反日売国左翼・在日の方達は何とも気の毒としか言い様がないですね。
  自分達が、どんなに素晴らしい国に産まれたかをこれを見て理解して欲しいものです。 


  それにしても、一神教も全て受け入れる神道のなんと素晴らしいことか。世界が、これを知る時こそ世界が救われる時でしょう。


★こんぴら、神社本庁離脱へ「大嘗祭巡り不信感」

2020年06月17日 | 神道

 神社本庁のおかしな動きを、2018年2月27日、第1349回の「宇佐神宮裁判の判決と結果」などで取上げてきました。

  最近は大人しくなったのかと思っていたら、何と我が香川のこんぴらさんと揉めているようです。
  それも、去年の大嘗祭に関することのようです。


 

  どうも神社本庁は胡散臭い。まさかこんぴらさんまで乗っ取ろうなんて考えてなければ良いのですが。

  それにしても、神社本庁というのもGHQの仕掛けだったようです。何とも嫌なことしてくれるものです。

金刀 比羅宮の神社本庁離脱は日本崩壊のシグナル!緊急LIVE


★廃仏毀釈

2020年04月09日 | 神道

 日本の歴史で何時も勿体ないと思うのが幕末の廃仏毀釈です。あの時に多くの貴重な文化財が失われたことを何とも惜しいと思ってしまいます。
  ところが、六世紀から七世紀にかけて、廃仏毀釈があったのだそうです。宮崎さんが書いてくれています。仏教伝来の時にもそれがあったのは当然でしょうね。
  それが何故、幕末にもう一度起きたのは国学のなせる技だそうです。

  それを、宮崎さんが書評で書いてくれています。書評というより宮崎さんの宗教論のようで面白い。やはり宮崎さんの書評は、ご自分の経験からの裏付けがあって本当に凄い。

  「宮崎正弘の国際情勢解題」より    令和二年(2020)4月2日(木曜日) 通巻6429号  

   書評 しょひょう BOOKREVIEW 書評 BOOKREVIEW 

  法華経の精髄は伝来の日本文化と日本人の美意識に適合した
   大楠公は法華経を写経し、誓願した事実は何を物語るのか


  相沢宏明『法華経世界への誘い』(展転社)

 経済論壇の大御所、天下のご意見番だった木内信胤氏が安永門左衛門が設立した「産業計画会議」を引き継ぎ、歴代政権へ政策提言をしていた。毎月一回、この会は倶楽部関東で開かれ、じつは評者(宮崎)も十年ほど、その末席を汚した。
 雑談となって或る時、宗教が話題となった。古典や宗教書にも通じる木内信胤氏が言ったのだ。
「キリスト教の『聖書』で、読む価値があるのは『山上の垂訓』だけ」(評者もそう思ったので賛意を表した)。
 ついでにと思って評者は聞いた。「なら木内先生が信仰するのは?」
 「仏典で、強いて言えば法華経だろうな」がそのときの回答だった。本書を手にしたとき、まっさきにその情景を思い浮かべた。もう三十年は前のことだろうか。
 ついでに書くと、切支丹伴天連の布教を許し、仏教徒を弾圧した信長、じつは法華経の信者だった説が有力である。
 相沢氏は法華経を研究して数十年、何冊かの法華経関連の著作がある。本書はかといって法華経の入門書でも解説書でもない。独自な氏の宗教論、それも法華経と国体思想を結びつける独特な歴史論である。仏教の知識のない人にとっては難解かも知れない。
 瞠目するような解釈がさりげなく挿入されている。
 「法華経の一体三宝観とキリスト教の三位一体説とは、はなはだ類似している」(312p)
「法華経の漢訳と三位一体説の制定時期は、大まかに括れば同じ時期に現れてきている」
法華経の特徴だが「国家観、併せていえば世界観、宇宙観、こうした国土・世間思想が法華経には色濃くある」(315p)。
 そこで大胆な仮説が編み出される。
「三位一体説と一体三宝論の類似性を両教お互いが認め合い、真の融合が果たせれば、宗教の対立は解ける(中略)。一神教と多神教・汎神教とが融合すれば、一の神が一として存在できない理論構築が完成する」(318p)。
「法華経の教主釈尊を主・師・親と仰ぐ仏弟子の立場と天皇を宗家と仰ぐ日本国民の立場とが、いつしか渾然と融合した」。
 それが伝来以後の日本文化を形成した。従って、「日本の王法思想(国体)を法華経からみることは極めて国家の内容を解明するために重要な作業になる」とする著者は、例として楠正成をあげる。
「南朝の忠臣として名高い楠正成(大楠公)は法華経を写経している」。
 そして「法華経を仏の本懐として信奉し、読誦することで朝敵逆徒を成敗し天下は静謐になる」と誓願した事実がある。
 一部の用語に難しさがあるものの、宗教を国体思想の変遷と噛み合わせて説いたところに本書の独自な思想がある。

 ▼渡来人は仏教と同時に疫病も持ってきた

 ものはついでなので、本書の議論からはずれるが、仏教と神道の習合(所謂「神仏習俗」)は、いかなるかたちで、どのような経過でなされたのか。聖徳太子は仏教を国教としたが、その前の古代神道との間に確執、或いは宗教戦争があったはずであり、六世紀から七世紀にかけて、廃仏毀釈があった。
 物部氏と蘇我氏との抗争は神道と仏教の対立が基底にあり、仏教の伝来とは渡来人が多数来たわけで、同時に疫病がもたらされた。「日本書紀」には崇神天皇の時代に疫病で人口の半ばが死んだとある。天然痘ももたらされ、「日本書紀」は敏達天皇十四年に疱瘡で夥しい人が死んだ記録がある。
すなわち物部と蘇我の神道vs仏教の対立は、疫病への対立でもあったと四宮正貴氏は指摘する(『政治文化情報』、令和二年三月二十五日号)。

 里見岸雄氏は「国体規範論」のなかで次のように概括された。
 「国体の本義は、他教に対する寛容をもって貫かれている(中略)。神道も明らかに自然教時代を経過して高等なる文明教に進んだ宗教であって、自然教の時代も未だ精霊信仰ともいうべき極めて幼稚劣等な自然教に属した段階から神々の個性の分化を示し、また神々の相互の間に神統を発生した高等自然教の段階に発達している」
 推古天皇以前の日本の状況である。
 「かくいふところへ、全然系統を異にする他の高等な宗教が入り込めば、そこには後者による前者の徹底的征服か、或いは、極めて限定せられた状態において後者が辛うじて土着するか二者択一を出でることはない」。
 つまり里見説を演繹すれば外来宗教の仏教が日本で古代神道と溶け合って土着したことになる。
 イランに於けるイスラム教は、伝来のゾロアスター教に上に被さるように土着した。ローマのキリスト教は、それまでローマ人が信仰したミトス教に被さるようにした土着した。ロシア正教は、シャーマニズムの上に土着した。インドネシアのイスラムも又古代からの土地の宗教に被さった。
 したがって日本人の寛容の精神が仏教を受け入れ、奈良朝では大仏開眼という一大セレモニーを展開し、各地に国分寺が創立建立される。
 しかし、日本書紀に従えば、聖徳太子は古来より信仰されていた自然教を敬愛しており、神祗を拝スベシと説かれ、用明天皇は「仏法を信じ、神道を尊ぶ」、聖武天皇は「敬神尊仏」と続日本記にある。だから伊勢神宮には大神宮寺が設けられ、お寺の玄関に鳥居がある風景がいまの全国各地に残る。

 信長の時代に切支丹伴天連がやってきても、布教に寛容だった。仏教各派の信奉した仏様があり、だからキリスト教もそのひとつ、大臼(デウス)と阿弥陀仏も同じように考えた。
だが、一神教は寛容ではなかったため、徳川時代に厳格に排斥、禁教とした。
 里見氏はこう解釈する。
 「(徳川の切支丹伴天連の禁教は)俄然その性格を一変し、上の好む所、下之に倣うとばかり、幕府の官学たる儒教を奉ずる儒者らは、仏教排斥を開始し因果応報の理か、その儒者らは、国学によって斥けられることとなり、ここに本居宣長以下の国学者、神道家等による儒教及び仏教の排斥を生み、かくして古来の日本人の未だ示さなかった低級偏狭なる排他的性格を馴致する」(同前掲論文)。
 幕末の廃仏毀釈は国学平田圧胤の思想的影響が甚大だった薩摩に吹き荒れた。神道はGHQによって目の仇とされ、キリスト教の一派や西本願寺の一部のグループなどが、いまも靖国神社を誹謗するのは、そうした歴史の尾を引いている。

  やはり、神道と仏教も争いは当然のごとくあったようですが、それを上手く集合するのが日本人の凄さだと思ってましたが、他の宗教でもあったことというのに驚かされました。
  宗教とはそんなものだと言うことのようです。何と、靖国神社を誹謗する宗教があるんですね。これにも驚かされました。

やはり、宗教は怖いのか!

★経典もなければ布教もしない神道は、言葉、論理伝来以前から日本に根付いた

2020年03月31日 | 神道

 ネットを始めるまでは、日本の宗教は多神教でありキリスト教などの一神教と比べて遅れたものだとの教えを信じていました。
  ねずさん達のお陰で神道が素晴らしいものであることを認識したものです。一神教は神道の多神教の中の一つの神であると考えると神道の素晴らしさが良く分かります。

  そんな宗教を、何と、加瀬英明、ケント・ギルバート、石平の三人が『新 しい日本人論』として書いてくれているようです。

  何時もの宮崎さんが書評で取り上げてくれています。これは興味深いですね。只、気に入らないのが出版社です。なんとあのソフトバンクの子会社のようです。嫌な出版社があるんですね。知りませんでした。

  「宮崎正弘の国際情勢解題」より   令和二年(2020)3月24日(火曜日) 通巻6415号 

  書評 しょひょう BOOKREVIEW 書評 BOOKREVIEW 

 経典もなければ布教もしない神道は、言葉、論理伝来以前から日本に根付いた
  言葉やはロジックで説く宗教は、教えの限界を露呈しているのではないか

 加瀬英明 v ケント・ギルバート vs 石平『新 しい日本人論』(SB新書)

 三人とも個性強烈、自説を曲げない独自性の強い論客だから、鼎談ともなれば激しくぶつかるか、いや奇妙に一致するか。 しかし結論は殆ど同じなのに、バックグラウンドが異なるから思考のプロセスも三人三様、当然ちがってくる。
 それぞれの論地の形成過程が新鮮に思えた。
 日本の強みとは「つくりかえる力」「八百万の神々の存在と共生」、「開闢以来、つねに新しい」。だから刀にも匠があ り、精神が籠もる。
 ならば日本人の弱みとは「性善説でものごとを考えること」「国家安全保障のリスク認識に欠陥があり、防人を尊敬しな い」「依存心が強くて自律生が稀釈。ゆえに自立していない』ことなどであろう。
 石平氏は北京大学で哲学専攻。テツガクは理詰め、ロジックが基礎になる。
 「しかし、神道を勉強するなら何を読むかとなりますと、読みものがないです。(中略)どうして神道が善悪を語らずに、 他の宗教がそれを語るのか」と初歩的な疑問から中国との比較を展開し、「老子曰く。『教えというのはね、道徳が廃れて教 えが生まれる』と。要するに、心が悪くなったから、教えが必要になったんだと。人間が生まれたままの、あるいは神話時代 の純粋の心のままだったら、教えが要らないんです」(220-221p)
 加瀬英明氏はこう言う。
 「ユダヤ、キリスト、イスラム教、仏教とか、そういった宗教は、人間が文字を持つようになってから生まれた(中略)。 七世紀に仏教と一緒に、儒教が日本にやってきた。その時に初めて、日本に論理がもたらされるんです」(216p)
 初来日したとき、まだ天皇陛下の歴史をよく知らずにヒトラーやスターリン同様の独裁者だから戦争責任があると考えてい たと正直に告白するケント・ギルバート氏は、自らはモルモン教徒ではありながらも、次の発言をする。
「一神教のキリスト教を信仰するアメリカ人には、神の言葉を預かる『預言者』ならまだしも、神の血を引く者を名乗ること は、認められない。それを認めたら、キリスト教の思想をなす神と人間との関係を覆ることになります」(30p)。
 このように本質的な歴史、哲学、文化、国家、宗教を語りながらも逐一、言葉が平明で飲み込みやすい。
単なる仲良し三人組の討論には終わっていないで重量感が伝わってくる。

  日本人の弱点が「性善説」や「国家安全保障のリスク認識に欠陥「とか「自立していない」というのは納得です。
  とは言え、これも余りに素晴らしい国であればこその弱点でしょう。つまりは、鎖国が可能な時はこれでも差し支えなさそうですが、やはり、他国と付き合わなければならない時代にはこの弱点をきちんと認識して内外で使い分ける必要があるということでしょう。
  これを、今の政・官・財のお偉いさん達が認識出来ていない事で利用されているということでしょう。
  やはり、お偉いさん達への教育が必要ですね。
  

と言うか、自分で勉強しろ!

 


★★神道は宗教じゃない大きな道だ

2020年01月15日 | 神道

  中東がキナ臭くなっていますが、どうして同じ宗教の人達が争うのか不思議です。それに比べて我が神道の凄さを、8日、第2030回の「★★神道は天地悠久の大道である。いつまでも続く、限りの無い、大きな道だということです。」で、取上げました。

  今年最初の【討論】も、宗教が議題でした。加瀬さんが日本に宗教という言葉はなかったことを最初に語ってくれています。やはり、神道は「大きな道」であると世界に宣言すべきじゃないでしょうか。

  高山さんが、シーア派とスンニ派の生い立ちを詳しく話てくれています。これは参考になります。第2部の最初です。


  やはり、世界の宗教戦争を収めることが出来るのは「大きな道」の神道じゃないでしょうか。神道を残してくれた先人に感謝しかない。