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★韓国軍による虐殺が50年後も隠蔽されている 

2018年06月03日 | 韓国

  韓国軍によるベトナム戦争での虐殺は、ネットでは有名ですが、韓国の下僕であると思わざるを得ない反日売国左翼・在日マスメディアは相変わらず報道しない自由を行使しているのじゃないでしょうか。

  唯一、信頼できる産経さんが、この虐殺問題を詳しく取り上げてくれています。少し長いですが、全文を取り上げさせて貰います。 

  面白いのは、2月3日、第1698回の「奥茂治被告が控訴」などで取り上げてきた奥さんが、吉田清治氏が韓国に建てた謝罪碑を無断で 書き換え たことで裁判されていますが、それと同じようなことをベトナムでやっているようです。こちらは、裁判沙汰にはなったないようです。と言うか、国の命令のようです。

  産経ニュースより    2018.5.26

 【特派員発】韓国軍による虐殺が50年後も隠蔽されている ベトナム・ハミ村 吉村英輝

  ベトナム戦争中(1955~75年)の1968年、米軍部隊が当時の南ベトナムのソンミ(現ティンケ)村で住民 500人以上を殺害したことは、よく知られている。一方で、同じ時期に韓国軍部隊による住民虐殺事件があったことは、あまり報じ られていない。事件から50年たった今年3月、現地では、ベトナム政府要人や元米兵ら約千人が米軍による被害者の追悼式典を開い た。しかし、韓国軍が起こした事件については、歴史の“隠蔽”が続いていた。(ベトナム・ハミ村 吉村英輝)

 記した碑文は石板で覆われた

 ベトナム中部クアンナム省ハミ村は、水田が広がるのどかな集落だ。路地を進むと、テニスコート2面分ほどの慰霊施設に着いた。 石碑には、68年2月25日、ここで亡くなった村民135人の名前が刻まれている。南ベトナム政府に協力して参戦していた、韓国 海兵隊の青龍部隊に殺害された住民たちだ。

 この虐殺は、現地を99年に訪れた韓国人研究者により広く知られるようになり、慰霊施設は、韓国の民間団体と同村が翌2000 年に建てた。だが、施設のどこにも、虐殺の記述はおろか名称もない。

 案内してくれた生存者のド・コイさん(73)は石碑の裏面を指し、「実はここに虐殺について記してあるが、02年に石板で覆い 隠した」と打ち明けた。

 コイさんによれば、00年の完成式典に参加した退役韓国軍人が、碑文の修正・削除を求めた。村は反発したが、韓国側は外交ルー トで圧力をかけてきたという。共産党一党支配が続くベトナムで、「地方や農民に抵抗する力はない。仕方なく石板で歴史を“隠蔽” することにした」と振り返る。

 韓国外務省に事実関係をただすと、「ベトナム政府には石碑に関して何の要請もしていない」と否定した。

 コイさんによると、韓国軍がハミ村へ駐留を始めたのは1967年10月。ベトコンの通称で呼ばれた南ベトナム解放戦線を恐れた 韓国軍は、約1千世帯いた村民に移動を命じたが、50世帯は残留を許された。韓国兵は当初、友好的で子供に菓子を配る兵士さえい た。

 だが、翌年2月25日早朝、韓国兵は急に態度を変え、村の住民を防空壕など5カ所に押し込んで、銃撃や手投げ弾で殺した。悲鳴 が15分ほど続いた。コイさんは当時23歳。南ベトナム政府の徴兵を逃れるため、昼間は家から30メートル離れた防空壕に隠れて いたため助かった。夜を待ち自宅を見に行くと、家は焼かれ、家の地下壕にいた13人中、死亡していた母や伯母らを埋葬した。重傷 の弟は病院に運んだが、その後死亡した。

 当時村にいたのは165人で、ほとんどは老人に女性や子供。事件を生き残ったのはコイさんら15人だけ。仲が良かった韓国兵か ら別の防空壕に行くよう言われ助かった少年もいた。ベトコン掃討作戦の一環だったとの主張もあるが、コイさんは「村にベトコンな どいたわけがない。計画的な住民虐殺だった」と語る。

 “無名”の慰霊施設では今年3月11日、式典が開催され、民間団体など韓国からも約40人が参加したが、退役韓国軍人らの姿は なかったという。施設内の集団墓地には線香が手向けられたが、そこに遺体は埋葬されていない。虐殺の翌日、韓国兵が戻り、戦車な どで遺体や虐殺の跡を隠してしまい、遺体の場所は今も分からない。碑文はそのことにも言及していたという。

 一方、ハミ村から十数キロ離れた同省フォンニィ・フォンニャット村では1968年2月12日、住民74人が韓国軍により殺害さ れた。近くを通る幹線道路でこの日早朝、韓国軍の戦車が地雷を踏んで爆発したため、近くにあった同村に攻撃を仕掛けたとされる。

 生存者のトラン・バン・タさん(59)は、こう証言する。

 「家に弟と妹の3人でいたところ、午前10時ごろに韓国兵に踏み込まれ、家の防空壕に入るように言われた。中に手投げ弾を投げ 込まれたが、奇跡的に爆発しなかった。空腹になり午後3時ごろ外にでると、米兵が南ベトナム兵と、殺された村人の写真を撮ってい た」

 米軍も把握していたこの虐殺が、広く知られるようになったのは、韓国の民間団体が調査に来てからだという。同団体と村で 2004年ごろ建てた慰霊碑には、犠牲者名と「韓国兵士に74人が虐殺された」と簡潔な説明があり、地方政府が史跡指定してい る。

 タさんは、「退役韓国兵は、この村にまだ誰も来ていないから、文句の言いようもないのだろう。韓国から学生が慰霊に来ることも あるが、虐殺について学校などで教えられておらず何も知らない」と述べた。

 地元記者によると、ベトナム政府は、外交問題に発展しないかぎり、地域レベルで虐殺の慰霊碑などを作ることなどは、不満の「ガ ス抜き」の意味もあり、自由にさせているという。

 韓国軍撤退後の1973年にサイゴン(現ホーチミン)を訪れた司馬遼太郎は、韓国人を指す「ダイハン(大韓)」の言葉が住民に 「憎悪と嫌悪をよびおこす」とし、米兵よりも「始末がわるい」との評判を記した(『人間の集団について』中公文庫)。

 だが、韓国兵の襲撃を受けた1年前、やはり自宅近くで、他の十数人の村人とともに、母と妹2人を米兵に殺害され遺体を井戸に捨 てられたというタさんは、「米兵も韓国兵も、残虐性において何の違いもない」と、当時の悲惨な状況を振り返った。

 韓国軍による虐殺を目の当たりにした住民の心の傷が癒やされることはない。

 韓国大統領の「遺憾」にメディアの関心低く

 韓国の文在寅(ムン・ジェイン)大統領は今年3月23日、訪問先のベトナムで、「両国間の不幸な歴史に対し遺憾の意を表する」 と述べた。韓国の聯合ニュースは、ベトナム戦争時の韓国軍による民間人虐殺に対し、初めて公に遺憾の意を表明したとした。

 ただ、韓国外務省は、かつて何人かの韓国大統領が遺憾を表明しており、文氏の発言も「それに沿ったもの」であり、従来姿勢を踏 襲したものだと説明する。

 韓国国内では、文氏の「遺憾」表明に、左派紙のハンギョレが社説で「当然すべき発言で評価する」「ベトナム政府は公式に韓国に 謝罪を要求していないが、被害を与えた韓国としては機会のあるごとに過去の誤りに対し頭を下げることが必要だ」と主張した。しか し、その他の主要メディアは、文氏の遺憾表明については事実関係を報じた程度で、あまり関心を示していない。

 国交樹立(1992年)以降の韓国政府の対応を見ると、98年に当時の金大中(キム・デジュン)大統領がベトナムを訪問した 際、「不幸な時期があった」と「遺憾」を表明。2001年に金氏が訪韓したチャン・ドク・ルオン国家主席(当時)に対し首脳会談 で、「不幸な戦争に加わり、本意ではなかったがベトナム国民に苦痛を与えたことについて申し訳なく思う」と初めて公式に謝罪し た。

 金氏の発言に対し当時、野党や退役軍人らから「謝罪は行き過ぎだ。参戦将兵の名誉を傷つける。大統領の歴史認識を疑う」などと の批判が出た。特に、野党ハンナラ党副総裁だった朴槿恵(パク・クネ)前大統領は、ベトナム参戦を進めた朴正煕(パク・チョン ヒ)元大統領の長女で、「自由民主主義体制に対する確固たる信念がない」と語り、金氏の国家観に疑問を呈した。

 韓国は1964~73年、米国以外の国家としては最大の延べ約32万人をベトナムに派兵。韓国軍による虐殺被害者は9千人以上 とする推計もあるが、韓国外務省は「(犠牲者数を示す)発表は一切していない」として、事実関係は不明なままになっている。

 一方、言論統制の厳しいベトナムのメディアは、今回の文氏の発言を伝えなかった。ベトナム政府は韓国政府に虐殺事件の補償も謝 罪も求めていない。背景には、経済的な結びつきを強める韓国への反感を押さえ込もうとの配慮と、「国内対立に再び発展しかねな い、南北内戦に絡む全ての歴史を封印し、国家の団結と前進を図る思惑」(地元記者)があるようだ。(名村隆寛がソウルで補足取材 しました)

  それにしても、これだけのことをやっていながら恥ることなく、日本にはニセ慰安婦問題で講義し続ける人間性には驚くしかないですね。
  この人間性は、日本の国会で騒いでいる反日売国左翼・在日野党共の恥知らず振りとそっくりと思うのは私だけでしょうか。



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