団塊の世代のつぶやき

誇れる日本を取り戻そう

★洋公主が韓国を追い詰めるか

2015年06月03日 | 洋公主

  韓国の洋公主問題がどんどん明らかになって来ています。いよいよ、日本の反撃が本格化してきたのでしょうか。今のところは、週刊誌だけですが、新聞やテレビなどの反日マスメディアも国民の声が高まれば取り上げざるを得なくなるのじゃないでしょうか。
  それ以上に、世界へ拡散されれば、アメリカも流石に放ってはおけなくなるのじゃないでしょうか。やはり、そこまでやらないと日本の汚名はそそげないでしょう。早く、その段階まで追い込みたいものです。
  もしかしたら、意外と早くその日が来るような気もします。

  NEWSポストセブンより   2015.05.26

  韓国政府が曖昧にしてきた米軍慰安婦の存在 徐々に明らかに

   韓国には、朝鮮戦争後に朴槿恵大統領の父・朴正煕が米兵向けに全国に設置した歓楽街「基地村」が今も残る。ここで米兵相手に売春する女性たちはかつて「米軍慰安婦」と呼ばれ、人権を踏みにじられてきた。在日韓国人ジャーナリストのコナー・カン氏がレポートする。

    米軍慰安婦の存在について韓国政府は、これまで肯定も否定もせず曖昧な態度をとり続けてきた。だが近年、元慰安婦の女性や市民団体、また一部国会議員の告発により、徐々にその全容が明らかになりつつある。

    2014年6月には、元米軍慰安婦122人が韓国政府を相手取り、謝罪と損害賠償を求める集団訴訟を起こした。その過程で、慰安所の凄惨な実態が詳らかにされたのである。

   16歳のころ知人に騙されヨンジュコルの米軍慰安婦となった原告の一人、金ジョンジャさんによれば、慰安婦は毎日3~4人の米兵の相手をさせられたが、賃金の大半は店の経営者に搾取され、警察に駆け込んでも相手にされなかったという。

    なぜなら、基地村の当局者が裏で繋がっていたからだ。慰安婦は月に一度、基地村の行政府が主催する集会への出席を義務付けられていた。この 場で行政府職員は「慰安婦はドルを稼ぐ愛国者」と褒めそやし、「米兵に対してさらに素晴らしいサービスをするよう」求めたという。

   米軍慰安婦が韓国政府の管理下に置かれ、売春に従事させられていたことは当時の報道や公的資料からも明らかだ。たとえば、1962年9月 10日付の『京郷新聞』は、京畿道知事の朴昌源氏が在韓米軍のヒュー・P・ハリス中将らと「米韓親善委員会」を催したことを報じ、

   「(基地村で働く)女性全員に対し、28時間の挺身、美容、衛生及び英会話などの教育を施し、(性病)検診を受けた女性のみに慰安行為を許諾することなど、基地村で働く女性の処遇が協議された」と伝えている。

    だが、基地村の規模が拡大するに連れ、性病の蔓延は次第に深刻な問題になっていった。これに業を煮やした米軍側は1970年代初頭、韓国政 府に「基地村における性病管理の徹底」を要求した。折しも、当時はニクソン大統領がアジア全域での軍縮を打ち出した直後であり、在韓米軍の削減・撤退を恐 れる韓国側はこの要求を呑まざるを得なかったという。

   当時、韓米合同委員会の韓国側幹事を務めていたギム・ギジョ氏は市民団体「太陽の光社会福祉会」の会報で次のように証言している。

   「当時、米軍司令官だったベスト大佐は、米兵の休息とレクリエーションのために基地村の品質向上を要求した。米軍の継続的な駐留を望む青瓦台 (大統領府)は1億ウォンの予算を投じ、議政府や東豆川、安亭里などの基地村で浄化事業を開始した。米軍の主張をほぼそのまま受け入れた形だ」

    こうして始まったのが、基地村で働く女性たちの性感染症管理を主目的とする「基地村浄化対策」事業である。

    韓国政府は直ちに動き出し、嫌疑のある女性を片っ端から保健所に連行した。検査で陽性が出た場合、女性は収容所に監禁されペニシリンによる治療が施されたが、その際、ペニシリンの過剰投与によるアナフィラキシーショックで死亡する者もいたという。

    元米軍慰安婦・金ジョンジャさんは、韓国紙『ハンギョレ』の取材に、「基地村の女性は収容所を“丘の上の白い家”と呼んでいました。(部屋の)窓には鉄格子がはまっていて、まるで刑務所のようでした」と収容所の様子を明かしている。

   なお、基地村浄化対策への韓国政府の関与は、韓国民主党の兪承希議員が2013年1.1月に公開した朴正煕大統領の直筆署名入り公文書により決定づけられているが、この動かぬ証拠を突きつけられても、韓国政府は固く口を閉ざしたままだ。

   兪議員は公文書を2012年の時点で入手、国会への提出を予定していたが、大統領選を控えた朴槿恵大統領のハンナラ党(現セヌリ党)から、「提出を見送るよう強く要請された」ことも明らかにしている。 ※SAPIO2015年6月号

  
  これはTBSワシントン支局長(当時)の山口敬之氏のベトナム人慰安婦問題の続編です。ケント・ギルバートさんが、二か国語で書いてくれています。これぞ、世界への拡散の武器ですね。全文は長いので、是非、リンク元で読んでください。
  日本にとっては、本当に有難い味方です。やはり、こうした強力な応援を日本政府が利用しない手はないでしょう。外務省の仕事はまだまだ手ぬるいでしょう。

   ケント・ギルバートの知ってるつもりより、   2015-05-28

  韓国軍にベトナム人慰安婦がいた!二カ国語 Part2(拡散自由)

  The ROK Army Used Vietnamese Comfort Women Part2(No restrictions on retransmission)

  韓国軍にベトナム人慰安婦がいた!二カ国語 Part1(拡散自由)

  今回、米国の公文書によって初めてその存在が明らかになった、サイゴンの「韓国軍慰安所」とは、一体どのように運営されていたのか。
How was the ROK army comfort station in Saigon that has come to light through a U.S. archive document operated?

  すぐにでもホーチミンに飛んで現地取材したかったが、ワシントン支局長という立場上長期間アメリカを離れる事は難しい。そこで私は、アメリカにトルコ風呂の実態やこの施設について知っている人物がいないか、改めてリサーチを開始した。
I would have wanted to fly to Vietnam immediately to investigate, but as the Washington Bureau chief, it was difficult to take leave from my job for an extended period. Therefore, I began research to find out if there was anybody in the U.S. who was knowledgeable about the sex industry in Saigon at that time or who knew about the establishment in question.

  まず、当時の米軍関係者とベトナム系アメリカ人に照準を絞って、アメリカにおけるベトナム関連のネットワークを探した。関連のフォーラムに出席した り、米政府の退役軍人省のデータベースを調べたりして、連絡先の判明した関係者に虱つぶしに手紙やEメールを送った。また、サイゴンに駐在経験のある人物 の証言を得る為、ワシントン郊外バージニア州のベトナム人集住地区の新聞に情報提供を求める広告を出した。すると、ほどなくして広告を見たアメリカ人から Eメールが来た。
I focused first on former U.S. military personnel and Vietnamese-Americans and looked for Vietnam-related networks in the U.S. I attended the relevant forums, looked into the databases of the U.S. government’s Department of Veteran Affairs, and sent letters and e-mails to people with known contact information who might know. I also placed an advertisement in a newspaper in the Vietnamese community in Virginia outside Washington, asking for information. Shortly after, an American who saw the ad sent me an e-mail.

  ハンス・イケス氏(70)。六〇年代後半にアメリカの通信インフラ会社からサイゴンに派遣され、その後数年間にわたってベトナムとアメリカを往復した というイケス氏は、今はバージニア州東部で年金生活を送っているが、若くして訪れたサイゴンは印象が強烈だったという事で、当時の街の様子を饒舌に語って くれた。しかし、トルコ風呂について質問が及ぶと、周りを憚るように声を潜めた。
Hans Ekes [spelling not confirmed], 70, was sent by an American communication infrastructure company to Saigon in the late 1960s. Ekes, who traveled back and forth between Vietnam and the U.S. for several years, is a pensioner living in eastern Virginia. He talked at length about what Saigon was like, since the city made a strong impression on him as a young man. However, when we asked about the Turkish Bath, he suddenly lowered his voice and became wary of people around us.

  「『トルコ風呂』は、当時サイゴンにいた人の間では、『射精パーラー』(Steam and Cream Parlor)と呼ばれていました。若いベトナム人女性から性的サービスを受けることが出来たからです」
“At that time, people in Saigon called the Turkish Bath a ‘steam and cream parlor’ because it was a place where you could avail yourself of the sexual services of young Vietnamese women.”

  トルコ風呂の実態については徐々に明らかになってきたが、韓国軍の慰安所の存在を確実に知っている人物にはなかなか辿り着けなかった。
It became clear from the statements that the Turkish baths in Saigon at that time were another name for brothels, like in Japan in the past. However, I had difficulty finding someone who knew about the ROK army’s comfort station.
 
  作業を続けて半年程経った頃、ベトナム戦争を戦った経験のある米軍OBからEメールが送られてきた。
About six months after I started the research, I received an e-mail from a U.S. veteran who fought in the Vietnam War.

  アンドリュー・フィンライソン氏(71)。米海兵隊の歩兵部隊長として六七年から二年八カ月に渡ってベトナム戦争を戦い、サイゴンをはじめ南ベトナム 各地を転戦。退役後は紛争地域の軍事顧問団として活躍し、ベトナム戦争に関する著作も発表している研究者だ。早速インタビューを申し込むと、快く応じてく れた。
Andrew Finlayson, 71, served with the U.S. Marines’ infantry unit in the Vietnam War for two years and eight months from 1967 and fought in various locations in South Vietnam. After leaving the military, he served in military adviser groups in conflict areas. He is a researcher and has published books on the Vietnam War. He agreed to be interviewed.…以下略

  ここまで、明らかになって来ても、放置したままの韓国政府はどんどん追い詰められそうです。朴大統領もいよいよ終わりなのでしょうか。
  ここで、日本の経済界が一挙に手を引けば、完全に韓国を崩壊に持ち込めるのですが、劣化した今の経営者達にそれを求めるのは無理なのでしょうか。たまには、日本の為に働いたらどうでしょう。



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