遣隋使や遣唐使を真実と信じていましたが、何と、遣日使の方が盛んだったという説を知って驚いたものです。
田中英道さんがこの上に空海も最澄も仏教を教えに行ったという説を唱えた本を書いてくれたようです。
宮崎さんが書評で取り上げてくれています。それにしても面白い説ですね。どこまでが本当か分かりませんが日本にとっては嬉しくて面白い説です。
「宮崎正弘の国際情勢解題」より 令和四年(2022)7月13日(水曜日) 通巻第7402号
書評
魏志倭人伝はフィクション、志賀島の金印は捏造された
空海も最澄も仏教を学びに唐へ行ったのではない。教えに行ったのだ
田中英道『日本と中国 外交史の真実』(育鵬社)
魏志倭人伝がフィクションであることは小誌でも屡々指摘してきたので、ここでは繰り返さない。
邪馬台国は何処、卑弥呼は誰?と喧しかった歴史論争は、魏志倭人伝が陳寿のフィクションである以上、無意味であると田 中氏の説は破天荒に始まる。
志賀島の金印が偽物であることも、ほぼ知れ渡ったが、本書で田中氏は、その後の新発見や研究などから、江戸時代の贋作物 であることを120%証明している。この箇所はとくに読み応えがある。評者(宮崎)も、この偽造金印については拙著新刊 『歪められた日本史』、宝島新書)で述べている。
さて以上ふたつは既知の事実として、本書では新しい展開がある。
徐福伝説は日本各地に残るが、日本に不老不死の薬があるとして秦の始皇帝が三千人の使節団を派遣した。孔子の時代から シナ人は知っていたのだ。日本は「道のくに」であり、道徳が高く、そのうえ長寿の国であることを。
紀元前三世紀から日本への渡来人ブームがあった。徐福の来日は『神皇正統記』に拠れば第八代孝霊天皇の頃とされる。
古代からシナ人にとって日本は憧れの国だった。日清戦争後には夥しい留学生が日本に学びに来た。魯迅も秋勤も周作人に 蒋介石、周恩来。。。。。。。
戦後の歴史家は一貫して遣唐使、遣隋使を日本の朝貢と、誰に言われたのか自虐史観に凝り固まっているが、朝貢した事実 はない。君臣関係でも従属関係でもなかったのだから、日本の歴史家たちが自虐的に冊封体制にはいったと錯覚したのだ。あ くまで対等のつきあいであり、皇帝列席の儀式でも序列は別格だった。
遣唐・隋使は日本人の殆どが帰国した。舟の難破、漂着などで阿倍仲麻呂は唐土に骨を埋めたが帰国の思いは変わらなかっ た。ところが、遣日使は殆どが帰国せず日本に居着いた。あべこべだろう。
最澄や空海は仏教の高みを得ようと唐に渡ったとされるが、これも逆。教えに行ったのだ。鑑真は日本に教えに来たのでは ない。学びに来たのである。
つまりシナは仏教先進国でない。たまたま先「着」国だったのだというのが評者の持論である。
そして田中氏は言うのだ。長屋王が千枚の袈裟をつくりシナに送っている。それほど日本は仏教の「先進国」であった。
シナにも仏教渡来まえに伝統的な道教が根付いており、激しい廃仏稀釈があった。日本でも第一次廃仏毀釈は、結局、蘇我氏 vs物部氏+大伴氏との戦争となって、天孫降臨以来の名家一族は敗北し、地方へ散った。各地に物部氏を祀る神社が多いの は、それが由来である。
その崇仏派の蘇我氏を討ったのが大化の改新(乙巳の変)だった。以後、神仏混淆が日本で定着する。
目から鱗の連続、文章は易しく書かれていて一気に読める。
鑑真が学びに来たというのも面白い。まさに目から鱗です。遣日使が殆ど帰らなかったというのも面白い。
やはり、日本は素晴らしい国だったようです。まだまだ歴史は謎ですが日本ならありそうに思えます。
日本は思ってた以上に凄い国かも!
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