アメリカがChinaを誤解して応援し、日本を敵視してきたことが大東亜戦争の本質であることはネットのお陰で多くの人に知られるようになってきた。
とは言え、お人好しの日本人にもChinaを誤解してきた人達が多くいたのも間違いないでしょう。
そんな日本人のChinaに対する考察を詳しくしてくれている本を三浦小太郎さんが書いてくれたようです。
宮崎さんが書評で紹介してくれています。戦前にはChinaのことをきちんと理解した人達もおられたようですが、何と、ここでもGHQによる焚書坑儒があったようです。
「宮崎正弘の国際情勢解題」より 令和三年(2021)10月6日(水曜日)
通巻第7074号
書評
三民主義(民族、民権、民生)に深く共鳴し、やがて失望
シナ人と交わって理解できた。かれらはまったく異質な民族なのだ
三浦小太郎『漢民族に支配された中国の本質』(ハート出版)
題名を「長野朗を論ず」としたら、もっと分かりやすかったのではないかと思ったが、長野は現在日本では完全に忘れられ た存在だから、やっぱり、この題名でよいかも。
本書の骨格は「長野朗の思想と行動」である。
時代は辛亥革命、昭和維新前夜から満州における中国共産党の陰謀と日本の対応の鈍さ、そうした過程で次第に農業問題に 関心を深め、権藤成卿の思想に心服し、北一輝、内田良平らと距離を置いた長野郎の激甚な思索と行為を振り返り、歴史的な 評価を加えている。
戦前「陸軍支那通」として著名だった長野朗は、除隊後、シナに関しての著作が五十数冊、チャイナウォッチャーの第一人 者だった。
政治運動家から徐々に軸足をジャーナリストに移し、ものごと冷静冷淡に見た。拓殖大学教授も務めた。
この長野朗の著作が戦後の論壇からなぜ消えたか。
GHQが発禁処分として長野朗の書籍を、書店、流通、図書館から葬り去ったからだ。戦後四分の三世紀を経て、主要著作の 復刻がなされ、ようやく長野に照明が当たった。
十年ほど前だったか、名古屋の北村良和(愛知教育大学名誉教授)から電話があって、「宮崎さんと同じことを言っている 人がおるで」。
大学の図書館に鎮座していた戦前の長野の著作をコピィして送って呉れ、「どこかの出版社から出したらええと思うわ」。
評者(宮崎)は常々「中国人は朝から晩まで、産まれてから死ぬまで嘘をつくという特技がある」と言ってきた。
長野朗は戦前すでに、こう言っている。
「支那人の有つ最も悪い性格の一つは平気で虚言を云うことである。虚言は圧制の結果であって強力に関する弱者の武器で ある」
「自分で嘘を云うから相手も嘘を云うものと決めて居るから中々人を信じない」(中略)「血縁のものや同郷人で周囲を堅 めようとする。政治界にも実業界にも血縁相引くことが流行する」(『支那の真相』)。
長野は足繁くシナへ通ったばかりか、中華民国政府の顧問格として高官とも深く突き合い、一時は孫文の三民主義に深く共 鳴した。
台北の町の南北を縦貫するメインストリートが「中山路」、これを東西に横切るかたちで「民族」「民権」「民生」路が交 差する。蒋介石が孫文の三民主義から採って名づけた(日本時代の中山路の中心街は「宮前町」南京路と交わるあたりは「浪 花町」だったが。。。。)
しかし科挙の伝統があるシナ人社会でも「三権分立」ではなく「五権分立」なのだ。「考試院」と「監察院」がある。もは や無用の長物だが、台湾でもまだ残り、形骸ポストは「名誉職」のごとし。
長野は孫文が唱えた「三民主義」を誤読した。
というより孫文より長野はラジカルに解釈し「民族主義の目的は支那が国家としての自由平等を獲得することである。支那が 今日の状態にあるのは、支那に民族思想がないからだと孫文は云っている」(長野『支那は動く、支那を見よ』)
しかし孫文の民族主義なるものは漢族優位の排他的「中華思想」に変質し、『民族自決』という理想は「革命後、むしろ圧 迫され『五族共和は一場の夢と化したのであった』と著者の三浦小太郎氏は分析する。
つまりシナの「民族主義」とは「他民族支配」に他ならない。
「かれらが支配者となったときは、他民族の権利や文化、いや、肉体と生命までが、抹殺の対象となっていった」 (222p)。
長野はそのことをいち早く見抜いたと、三浦小太郎氏は次を指摘する。
「この二十一世紀、長野の予想を超えて、中国共産党をと漢民族の『民族戦』は、一帯一路政策、東シナ海、南シナ海への 侵略と覇権主義といった形で現れ、同時に、国内の諸民族へのジェノサイド、香港の封殺、台湾への脅迫などに及んでい る」。
長野はシナ人の商いの狡猾さ、現地民にカネを貸し、生産品を安く仕入れて高く売り、さらに現地人に高利の貸し付けを引 きはがすように取り立てる。
まさに中国共産党は同じことを「一帯一路」で展開した。スリランカ、ラオス、カンボ時、パキスタン。。。。。。。。そ のうえ、日本企業を巧妙に騙して中国へ誘致し、技術を盗むやいなやダンピング輸出で、日本から鉄鋼、造船、新幹線、半導 体ビジネスを壊滅に追いやった。
長野朗は昭和17年に出した『支那三十年』で、辛亥革命の熱から冷めた。
三浦の解説に拠れば、
「北一輝が辛亥革命を回想した『支那革命外史』に漲っている、革命への情熱と絶望的な挫折感、今後の日中両国の未来を切 り開かんとする激烈な意志など」を喪失していた。長野の『支那三十年』は、冷静なルポルタージュとなった点に注目してい る。
そのなかに描かれた支那の軍人の生態とは朝ゆっくり起きて、飯を食べ、昼飯時も必ず休憩し、日が暮れると夜襲など考え ないで寝る。戦争をしているという認識がないというが、これも現代中国軍の実態と変わらない。かれらは戦争のことより、 汚職、利権争奪、軍閥形成のことしか考えていない。
さはさりながら、長野朗という人物の思想遍歴である。紆余曲折を経て、長野がたどりついたのは権藤成卿だった。なかで も権藤は大正十一年に『南淵論』を世に問うているが、 これがキーポイントである。
明治維新は身分制度をあらため、民主、自由の概念が具体化し、燃えるようなナショナリズムが高まって日清日露を戦いぬ いた。
しかし「近代的価値観、そして資本主義経済に支配されてゆく社会の中、次第に日本民衆は、それへの違和感を強くするよう になった。資本主義経済、そして
封建時代を脱した近代市民社会の『自由』は、江戸時代まで存在した共同体を解体し、個々人をバラバラの『市民』に再編成 するものであったからである(中略)。戦争の成金の出現、富の格差、エリート層の出現、東北に代表される農村の疲弊と飢 餓と行った状況の悪化は、ますます庶民の不満と疎外感を強め、それへの解決法を模索させて。或る者は共産主義革命へと向 かい、またある者は「君側の?」であるブルジョア政治家の支配を打破しようとする維新革命の論理と行動に憧れていく」 (166-168p)。
こうした社会情勢と思想状況から権利藤成卿の『社しょく論』が生まれた。
権藤は明治維新の地租改正を悪政と考えていた。
日本の伝統的共同体は明治以降の近代化によって破壊されたと認識する権藤の思想に、長野は「中国では無惨に失敗した革命 への夢、民衆自治の理想郷への夢が、日本でこそ実現しうるのではないかという期待を長野にいだかせた」(185p)。
国家の基本を前に、人間が生きていく上での共同体理念、公私が一致する理念は古代からの農耕民族だった日本の目標ではな かったのか。
中大兄皇子と中臣鎌足が敢行した蘇我入鹿暗殺という「乙巳の変」は半世紀かけて律令国家としての「大化の改新」に結実し た。
その理念を説いたのが、中大兄皇子(後の天智天皇)をインスパイアした南淵請安だった。権藤は、この南淵を思想の源流の もとめたという図式になる。
一時期、左翼は権藤の維新論理と社会概念を取り違えて、権藤成卿をアナーキストの魁のように評価したことがあるが、これ は彼ら特有の意図的な読み違え(中江兆民が頑固な保守主義だったのに、リベラルと間違えたように。或いは保守思想家だっ た福沢諭吉を『文明論の概略』だけを読んだ丸山真男が近代化の理論的先駆者と早とちりしたように)だった。
とはいえ、大化の改新のような軍事クーデタの考え方を権藤成卿や長野朗はしていない。だから北一輝、大川周明らとは距離 があった。むしろ熱を入れたのは農村救済運動だった。
長野は、この権藤の思想のなかに嘗て自己が理想化し、そのため孫文支援に奔走し、三民主義の実現に夢をかけて挫折した反 省を籠めて、維新革命に必要な指導者像を見出したのである。
したがって北一輝らはラジカルな変革維新の思想家と言えるが、権藤成卿、長野朗らの維新運動家は、伝統的保守主義を目指 したということにならないか。
この動画で語ってくれています。
やはり、Chinaの恐ろしさをきちんと理解されていた方々もおられたということですが、バカなアメリカの誤解がここまでChinaを増長させたのが本当に残念です。
日本の政・官・財・マスメディアのお偉いさん達にこうした本で勉強してもらう必要があります。
とは言え、未だにChinaから撤退しない企業が多いことが、その人達の勉強不足を証明しているでしょう。
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