Creator's Blog,record of the Designer's thinking

フィールドワークの映像、ドローイングとマーケティング手法を用いた小説、エッセイで、撮り、描き、書いてます。

京都暮らし100. 多義的な大学

2009年09月15日 | Kyoto city
京都暮らしのシリーズも100回となってしまった。これまで書いてきた2年間のブログのシリーズを振り返ると、セカンドライフ、Village Design、Landscape、番外編、横濱、京都に棲む、ヴァーチャルアイランドであった。今回のシリーズは、それらの中で最長の回数となってしまった。といって特にそれに意味があるわけではない。
 このブログも全くPRをしていないために、ビジターも少なく、私は静かに執筆できる。時折大学の裏話なども書いているので、今の世知辛い社会を思えば、あまり広く読まれない方が無難だと思っている。
 大学の先生は、何のためにいるか?。そういう質問をされれば、学生に物事を教授するためという答えが一般的だろうし、それも先生の存在理由の一つかも知れない。
 だが、実は!!、なのである。一週間の大学の先生の時間配分を試算すると、先ず本や論文を書くために研究したり執筆したり、研究者とシンポジウムをしたりといった研究活動が5割、大学の運営に関する仕事、特に学部生は、毎日何かしら珍奇な出来事を起こしてくれるので議題は減らないが、そういう運営に関する会議や打合せで3割、残りの1割が講義についやされ、その他1割が雑用となる。だから、学部生の講義に費やされる教授の時間は1割程度にすぎず、一般的な認識や期待とは大いに異なっているのが現実だ。従って大学の先生は、学生のためと言うよりは、研究のために存在しているといった方が正確なのである。
 このようなワークスタイルをしていると、「研究ばかりしていないで、学生達にもっと接しなさい」、という上からのお声がかかってくる。
 ホナ!というわけで、学部生達に近づいてゆこうとすると、彼らからうっとうしい先生だなと言われるのが通例である。彼らの気分としては、「ほっといてよ!、バイトがあるのになんでゼミなんかすんだよ!」、「えっ、ゼミの懇親会!、金かかるからやめといて欲しいな!欠席です!!」、挙げ句の果てに「今日は着物の着付け教室があるのでゼミはお休みします」、といった具合なのである。こうして疎遠志向の関係性が、なんとはなしに成立しているのが、今の日本の大学実態であろう。
 実際多くの教員は、毎週学生達に接するfree時間を設けているが、私の経験でも、これまでにこの時間帯にやっ来たのは、博士後期課程のドクター論文を書く院生達だけである。
 つまり現代社会では、学部生にとって大学にゆく目的は、教授をうけること以外に、4年間の大学ライフを彼らなりに楽しむといったもう一つの目的が成立しているのである。大学に行く目的が多義的になっているのであろう。

清水寺
Fuji FinepixS5pro,AF-SNikkor16-85mm/F3.5-5.6ED
シャッター1/60,絞りf11,焦点距離16mm,ISO200,F2モード
コメント
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