NHKのWEBニュースが福島第一原発に関わる多角的な動向を継続して報道している。新聞では市民団体などが全ての原子炉の廃炉を主張している記事があった。
そのなかで原発全てを廃炉にという市民団体のスローガンのように、私達が使う電気を約30%(原発の発電量相当)減らして廃炉を主張するならば合理的な意見として理解できるが・・・。具体的には夏冬のエアコンを使わないとか、夜は電気を使わないとかすればよいのだが、そこまでは主張していないしできない話なのだろう。今のままでも電気は足りるという彼らの主張では、この先火力発電をフル稼働させることになるが、それによって地球の温暖化を加速させることについての具体的説明をしていない。環境という立場から見れば、今のままで電気は足りるとする主張ができるのだろうか。
他方で原発を再稼働させれば、電気は十分安く使えますという論理もあまり科学的ではない。廃炉技術が確立されていないなかでの原発再稼働が実にやっかいな存在であることに気づきつつの科学技術の応用なのだから。
このように社会的にみれば、原発再稼働と原発廃炉と二つの極が対立する二極対立構造になっている。つまり再稼働:廃炉という二極対立構造では解けない方程式が私達の目の前にあることは確かだろう。二極対立構造が説明力を欠き破綻しているのかもしれない。
よくよく考えると、二極対立構造も一つの構造を右から見たのか、左側から見たのかの違いだったりするのではなかろうかとする仮説も成り立つ。こうした社会的な構造については、本来社会学などが明らかにする事柄なのだが研究中なのだろうか?。
さしあたり個人でできることは、エネルギー効率の悪いソーラーパネルを屋根に設置するほかないのだろう。それとて50kwで契約している住宅用で約3.6kw程度の発電量だから、30%使用量を減らすことはできない。
話は、原発に限らず、現代の私達の生活世界で二極対立構造が行き詰まっている傾向がみてとれる。
20世紀ならば、左翼と右翼、保守系と野党系といった具合に二極対立していて、力ずくでどちらか一方を選択すればことたりたとするのが政治なのだが、今はそうした二極対立の構造では解けない所に私達がいるようだ。さてどうするかは、まさに新しい構造の提案しかない。それが定量的なことであれば工学の分野が扱うことだが、定性的なことは社会学や法学などの文化系が扱うはずだ。
私達の世界には、数字で捉えられる定量的事柄と、数字では捉えられない定性的事柄の2つがあるが、といってそうした2つのとらえ方を、そのまま社会構造として二極化するというのとは話が違うのである。これらを混同してはいけない。
そんなことを街中のcafeでお茶を飲みながら考えていた。
京都市
α6000,Carl Zeiss,Vario-Tessar E 4/16-70mmZA OSS
ISO100,50mm,露出補正0,f/4,1/320