この画像をみて混沌と思うだろうか?。
今時つかわない電話ボックスやボラートなどがあるが、背後の飲み屋は心斎橋筋にもあり、ラーメン屋も含めてチェーン店だ。だから店舗のファサードは同じであり、どこでも同じ風景を展開している。そして駅前にあるはずの自転車がない。
この画像では登場しないが、この地域の人々の存在を示すのが放置自転車だった。それはこの土地の生活つまりは属地的な個人の存在を示す風景だった。そうした個人の属性を示す風景とチェーン店にみられる組織的或いは公的な風景とが混ざり合って混沌とした都市の風景を形成してきた。だから以前はこの駅前も、そんな自転車であふれかえっていたのかもしれないし、ディープという言葉もあったのだろう。
今、そんな個人の存在を示す風景がなくなってきた。そうなると薄汚れているとはいえ組織的公的風景ばかりであり駅前が整然としている。このブログで紹介してきた20世紀末の都市の混沌とした風景とは随分違うようだ。
こうした個人を示唆する風景が消えて、組織的公的な風景ばかりでは混沌ではなく、単に撮影アングルで疑似的な混沌の風景を切り取っているのに過ぎない。こうした一見混沌のように見えて実は個人の風景が喪失している都市の風景が最近では多くなってきた。こうした現象を疑似的な混沌の風景と呼んでおこう。
そんな風に考えて行くと最近の都市は面白みがない。次なる被写体を探すべきなのだろう。
2018年大阪市淀川区十三駅前
OLYMPUS OM-D E-M1Mark2、M.ZUIKO DG 17mm/F1.8
ISO800、露出補正-0.3、f/11,1/60