ギャルを撮るのではなくギャルの後ろをついて行けばなんかありそうだ、そんな予感がしていた。だからストーカーのようについていった。そうしたらすれ違う人間の本性をみているようで面白かった。ギャルの前から見た姿は、私も見ていないのでわからない。そんな風に人間の好奇心も混沌としていた。この雑然とした空間と人間の意識が錯綜するところ、それが繁華街か。
そんな街が最近生きにくくなったとメディアは報じている。それはなぜか、おそらく要因の一つに整然とされすぎていることがあるのだろう。それは地元にとっては望ましいことだと思われてきた。しかし誰も放置自転車をかたづけろとはいっていないのではないか。繁華街は雑然としていてこそ人間の気持ちも解放されるという原則が、最近なくなりつつある。街は雑然としていてよいのだ。それとて長い時間の中で右往左往しながらそれぞれの定位置を決めてきた雑然さなのだから。
それは成り行きで形成されたら、つくろうと思ってできるものではない。聖人君子みたいな小ぎれいな街では魅力がない。街、特に繁華なところではある種の猥雑さが必要だ。それがなくなると、生きにくくなるのだろう。
1997年下北沢、LEICAM4-P、ELMARIT28mm/F2.8、トライX