ついに「小説:小樽の翆」も、冬物語から夏に突入してしまった。
純文学であれ、官能小説であれ、ジャンルを問わず小説は、そこに数多くの登場人物がいて、彼らとすぐそばで話をしているようでもあり、そうした会話が聞こえてくるようでもあり、そこが小説を書く面白さの一つだろう。まして人との接触をするな、という新型肺炎による制約があるなかで、小説の登場人物達との会話は、心安らぐ数少ないコミュニケーションだと思っているし、それが小説「小樽の翆」を長く続けてきた理由だと思われる。
それにしても夏に雪の画像だから違和感はぬぐえない。小樽の5月、6月は、一斉に花も咲き、青い空と新緑と相まって、美しい風景だろうということは容易に想像できる。だから「小説:小樽の翆」にも夏の章があっても面白いと考えていた。
だが今小樽へゆくのは大変リスキーだ。というのも先日、昼カラオケでクラスターを発生させてしまったからだ。目下感染者59名を数える。山と海に囲まれた狭い街小樽も、ついに感染地になってしまった。これでは取材にゆけない。
といって、この柔らかい空気があって好きだった官能小説の登場人物達との会話を止める気分でもない。どうしようかな・・・。
官能小説も、朝起きて書いている。それで濡れ場などを書いたりすると、ホットな気分になって、その後の仕事がはかどる。多分私には、頭を柔らかくし気分をリラックスさせてくれる効果があるのだろう。セックスを日常感覚で書きながら、つまんない自己規制やモラル意識から乖離できれば面白い。だから官能小説は、癒やし系だし、気力回復薬だろう。
さらに現代人は、仕事、結婚、出産、キャリアな仕事、晩婚、超高齢期出産といったように、全てを後ろ送りにするライフスタイルを選択し、そして誰しもそれに右へならい!、多くが追随してきた。それはステレオタイプ化した現代人の意識のなせる技だろう。
しかし小説では、左へならい!、なのである。万事早送りをするライフスタイルを提案している。超といってよいぐらいの早婚であり出産であり、核家族ではなく大家族といった具合にである。そして早送りライフスタイルは人生の負担が少ないということも発見した。そんな左へならいの早送りライフスタイル、そこがこの小説「小樽の翆」で変わることがない基本的考え方なのである。
もう一つある。それは核家族への疑問だ。
私の父の実家は11人、母の実家は8人の子供がいた。小学生の頃夏休みのお盆でよく母の実家にゆかされた。実家のお盆の時は、三間続きの農家に雑魚寝である。そして8人の子供達が総出でお盆の料理をつくり宴会の準備をしていた。もちろんそれはすごいご馳走だ。8人の子供達がさらに子供をつくるから、もう遊び友達だらけで、なかには色っぽいお姉ちゃんが川へ魚釣りにつれていってくれたこともある。多分女の色気を感じ始めたのはその頃だろう。そう思っていたら、翌朝お姉ちゃんはお腹が痛いといいだし、回りがよってたかって、これ盲腸だなと推察して、農家のトラックで遠くの病院へつれられていった。もちろん盲腸だった。
そんなふうに、いろんな人間達がいて沢山のコミュニケーションがある、それが田舎のお盆の頃である。いま考えても、それは最高の夏休みだったと記憶している。だから日本のリゾートなんてものが実にアホらしく思われるのであるが・・・。人間が生きてゆく基本には、たくさんの人間達とのコミュニケーションがある。それが一つのファミリーのなかで充足されていた。
そんな原体験をしてくると、現代の核家族社会への疑問がわき上がる。それがもう一つの基本的考え方としてある。つまり左へならいのライフスタイル、脱核家族、これが書き始めた動機だろう。書いてみたら、つまりシミュレーションしてみたら、多数の人間の生き様が重なり、様々な事が起きる、それは面白いではないか。歩き去るカップルの背中をみながら、そんなことを考えていた。
小樽市
SONYα6600、E18-135mm/F3.5-5.6OSS
1)ISO800,焦点距離33mm,露出補正-0.3,f/13,1/50
2)ISO500,焦点距離135mm,露出補正-0.7,f/13,1/250