~こころ豊かな愉快な生き方を求めて~

サスティナブルな世の中で幸せの笑顔が満ち溢れますように
内容:地域活性化、歴史探訪、パソコン、野球

歴史は因があり果が出現する有機的な物体だ~普賢寺郷の調査から~

2017-11-09 04:56:45 | 郷土の歴史
今、取組んでいる『普賢寺の郷土史』は、ようやく、個々の点と点が繋がりつつあって、なかなか面白く感じるようになってきた。そもそも、家康の伊賀越えにおける京田辺逃走路の詳細調査から始まった。いにしえ普賢寺郷の調査において、普賢寺谷の中世城館が登場、発掘遺跡報告書の分析と現地確認、南山城の辿ってきた歴史は、南北朝時代の戦火、応仁・文明の乱の影響、山城国一揆との有機的なつながりの中で、山城の一乗谷なる『普賢寺谷』が自己の中でクローズアップされ、しかもエキサイティングするものになってきたと感じている。歴史は、つながる要素があり、出来上がる。因があり果が出現する。ということをまじまじと学んでいるような気がする。現在の世の中や暮らしもそこを繰り返しているのだから、先を見通す能力を養っていかねばならない。なんだか、不思議な気持ちさえし出してきている。


高齢者の淡い思い出~昔の道、田畑、まつたけ、そして、幼馴染の娘さん~

2017-11-08 07:05:56 | 郷土の歴史
近所の高齢者に現在住んでいる周辺の昔の様子をうかがっています。昨日も、散歩の途中で、出会ったので、幾つかお尋ねしました。関心のある、道路のこと、住宅が立つ前の田畑や森林のこと、茶畑、まつたけや筍のこと、雉やホトトギスのこと、聞けば聞くほど、凄い田舎であったと感じます。そして、あの家のあの人という話に展開、そのうち、何度聞いても、話がかみ合わなくなり、10分後ようやく勘違いされていることがわかりました。お年寄りの幼馴染の娘さんとその母親について、誤解されていました。もしかしたら、少年時代の淡い思い出があったのかもしれないと帰宅後、ほんわかした気分になりました。


現役商社マンと情報交換~郷土の文化を伝えていかねば~

2017-08-15 06:49:24 | 郷土の歴史
商社に勤務されている現役役員宅を訪ね、じっくりと疎くなった経済や事業経営の近況についてお話を聞いてきました。月に2、3回の海外出張で、大変忙しそうですが、バイタリティ溢れる充実した活動をされている様子が十分うかがえました。逆に『いにしえ』のことに興味があり、幼い頃に祖父の自宅がある京田辺に遊びに来た彼からは、京田辺の状況について聞かれ、古代から奈良・平安・戦国、昭和の時代の話で盛り上がりました。タブレットで、つつきはっけんのホームページをみて、こんなに多くの文化遺産があることに、あらためてビックリされておられました。また、昭和30、40年代の京田辺のまちの様子や写真には、幼いころの数々の思い出があり、大層懐かしそうにされていました。郷土の良さを知り愛することから、人に優しい心や平和を願う気持ちが育つという当方の思いもよく伝わったようでした。是非、教育現場で郷土の魅力ある歴史を伝えなければという話が出て全く同じ思いでした。

文化創造に本腰を入れなければ市の発展はない

2017-08-12 03:27:02 | 郷土の歴史
地域の活性化を図らねば、この町が衰退していくのは、必至だと感じたのは10年前。その町でただ暮らす住む人ではなく、市の民として活動し、その成果が市や市民にかえって来るには、郷土の魅力や価値を上げることが必要と思い、郷土の歴史や文化を調べ出したのは7年前。市民や関係部署に働きかけ、幾つかは進展したが、思うようにはなっていないと感じる。ふと、自分の近隣地区を考えてみても、その有益な候補はあるが、全てが中途半端である。継体天皇が存在し筒城宮があった場所が不明、鉄の製造物が発見されない多々羅、田辺城跡も調査後その形跡もない、・・・。本腰を入れて、調査研究を継続すれば、大きな財産となる文化財の発掘や観光事業にも繋がったであろうと期待は止まない。長年の地道な活動を通じて、地方創生の基軸になろうとしている伊賀甲賀、松阪の例を見ても、市民と業者、行政、大学が相協力し合うメリットとリーダーシップの重要性を痛感する。

京田辺の極楽浄土は、甘南備山で~す。

2017-02-25 17:56:22 | 郷土の歴史
南山城における郷土史の第一人者の中津川敬朗氏から、南山城や京田辺が勇気づけられる温かい言葉をいただいた。「山背古道」を歩くシリーズ講演会での席上である。古い都の南都(奈良)と新しい都の京(京都)の真ん中に位置するのが、南山城である。これは、以前お聞きし、大変喜んだのを覚えている。本日、お聞きしたのは、山背古道の井手方面の小高いところから西を見れば、京田辺の一番高い山の甘南備山から後光が射し、それを見て、極楽浄土だと昔の人々は言ったのだと思うよ、と。ああ、人間というのは、考え方や思いにより、どれだけ自分を、皆を奮い立たせることができるものだなと、思ったのである。是非、中津川先生と山背&京田辺談義をさせて頂く機会を作りたく思った。


歴史資料調査報告会~文化振興に取組む熱意がうかがえない、ただ淡々とでは何も変わらない~

2016-11-13 03:48:56 | 郷土の歴史
市と京都府大共同で進める歴史資料調査の報告会があった。薪村の小山家文書480点について、大学の専門家の指導を受け、市民ボランティアが調査したものである。家系、家業(油屋、質屋)、捨松日記の内容であった。この種の整理まとめで感じることは、古文書の解説とそこから浮かび上がる出来事や歴史的な関連、地域や人物の暮らし・考え方、そして、今日への繋がりにも触れていただきたいのだが、今回もなかった。ただ淡々と古文書紙面に書かれたことを整理しただけである。そもそも、なぜ、小山家文書を取り上げて共同調査を進めたのかがわからない。今日の報告会は、そこから話が始まらなければならない。文化振興計画の策定、文化振興室の立ち上げの中の市事業として、主旨、背景、課題事項、今後の具体的ステップと計画を明確にしたうえで、取組んでいただきたいと思っている。半年前に文化振興室に提言したが、何も変わっていないのは、遺憾である。ということで、室長と指導の先生にこの思いをお伝えしたが、・・・。ビジョン・夢を持ち、熱意でもって、まちを盛り上げること、これが我がまちには欠けている。

京田辺の不思議~たたら製鉄に使用した桶や鉄屑は同志社大学キャンパスの地中にあるのでは?

2016-11-02 16:17:37 | 郷土の歴史

近くの郷土史会の専務理事を訪ねました。今まで、郷土史に関する情報を色々頂き、イベントで話すネタ切りになってくると、出向いているようにも思います。我々が住んでいるところは、鉄製造のための火起こしの空気を送るふいごのことを蹈鞴(たたら)と言い、それが地名の多々羅になったと言われています。しかし、鉄の製造物に関係するものは全く発見されておらず、以前から気になっています。本日は、それに関する初めて聞く情報をいただきました。ビオ多々羅の古民家から新宮社に行く裏山から、鉄を製造するときに使う桶が出土したとのことです。砂鉄と木炭(くぬぎ)をその桶に入れ、ふいごで空気を送り火を焚きつけたのではないかとのこと。残念ながら、同志社大学がそこに土を盛り、キャンパスにしてしまったから、その桶や鉄屑は、地中にうずもれてしまっているのではないかとの話でした。中々、面白い話なので、調べてみたいと思いました。


京田辺の真実を問う~日本最初外国蚕飼育跡は、ほんとうか?~

2016-10-06 06:28:28 | 郷土の歴史

京田辺市多々羅にある『日本最初外国蚕飼育旧跡』については、以前から、日本最初ということを疑問視している。養蚕は、3000年前の中国殷時代から行われていた。その時代の遺跡物として、甲骨文字に蚕・桑が現れ、斧や壺に絹が付着され発見されている。日本の養蚕は、『魏志倭人伝』の記載から、3世紀中ごろ朝鮮半島を経て伝わる。仁徳天皇の皇后である磐之媛が三色に代わる虫(蚕)を見て作った歌が「古事記」にある。また、奴理能美が養蚕をし、それを見て歌った磐之媛が住んだのは、現在の多々羅に近い三山木越前~大南山である。このような確かな記録が他にはないために、どうもこの地域が日本最初の養蚕地として伝わってきたのではないか。しかし、時代を経て50年前に、北九州の弥生時代中期の遺跡(立岩遺跡、春日市門田貝塚、など)で、素朴な絹の平織が発見されたことから、中国からの養蚕の伝播は1世紀ごろである可能性が大である。即ち、日本最初蚕飼育地は、北九州であり京田辺ではない。時を経て、歴史の真実は明かされるのである。


天王地区は、士族の集まりなのか?~初めて出会った方からの情報~

2016-09-11 13:51:42 | 郷土の歴史
社会福祉センターにて、「10月研究報告会」のポスター掲示をお願いした。本日は、市民のボランティアの方の担当。耳が少し遠いかなりの年配のご婦人の方。要領が得られないので、一緒に、玄関の掲示板にポスターを貼った。当方は、京田辺の魅力を発見し、市民に紹介していると言うと、生まれ育った天王のことを伝えて欲しいとのことで、天王の昔のことを随分と詳しく話が始まり、止まらない。

・天王住民は、落人の士族出身が多い
・各家庭の掛け軸には、士族の家系図が書かれている
・士族は刀や槍を売ったりしたが、包丁や家庭で使うものにも加工した
・昔から刀の加工をよく見た
 刀を打ち、白い火花が飛ぶ。そして、上白光田(かみはっこうでん)という小字がついた
・朱智神社は、祇園祭りの権利?を売った
・一休寺の住職より、茶筅加工の仕事を世話してもらい、現在もそれが仕事

一度、天王の案内するから、詳しくは村の人々に聞いて欲しい、とのことでした。
途絶えていた、郷土の歴史、いよいよ南西部の奥深いところの新情報を得られることになるかもしれない。

早朝、歴史を感じる酒屋神社にお参りして

2016-07-07 10:50:37 | 郷土の歴史

早朝に酒屋神社まで歩いてきました。朝日を避けながら、明治28年の鳥居、今から、140年前に再建された本殿をゆったりとした気持ちで眺めてきました。千木、鰹木、流造り、千鳥破風、軒唐破風は、いつもどっしりと構えています。神功皇后がこの地にやってきて、裏山に酒壺を安置、神々を祭り、この社が創建されたといわれています。いにしえの神々から発したこの国の重さを体中に感じてお参りしてきました。


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