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近くの郷土史会の専務理事を訪ねました。今まで、郷土史に関する情報を色々頂き、イベントで話すネタ切りになってくると、出向いているようにも思います。我々が住んでいるところは、鉄製造のための火起こしの空気を送るふいごのことを蹈鞴(たたら)と言い、それが地名の多々羅になったと言われています。しかし、鉄の製造物に関係するものは全く発見されておらず、以前から気になっています。本日は、それに関する初めて聞く情報をいただきました。ビオ多々羅の古民家から新宮社に行く裏山から、鉄を製造するときに使う桶が出土したとのことです。砂鉄と木炭(くぬぎ)をその桶に入れ、ふいごで空気を送り火を焚きつけたのではないかとのこと。残念ながら、同志社大学がそこに土を盛り、キャンパスにしてしまったから、その桶や鉄屑は、地中にうずもれてしまっているのではないかとの話でした。中々、面白い話なので、調べてみたいと思いました。
京田辺市多々羅にある『日本最初外国蚕飼育旧跡』については、以前から、日本最初ということを疑問視している。養蚕は、3000年前の中国殷時代から行われていた。その時代の遺跡物として、甲骨文字に蚕・桑が現れ、斧や壺に絹が付着され発見されている。日本の養蚕は、『魏志倭人伝』の記載から、3世紀中ごろ朝鮮半島を経て伝わる。仁徳天皇の皇后である磐之媛が三色に代わる虫(蚕)を見て作った歌が「古事記」にある。また、奴理能美が養蚕をし、それを見て歌った磐之媛が住んだのは、現在の多々羅に近い三山木越前~大南山である。このような確かな記録が他にはないために、どうもこの地域が日本最初の養蚕地として伝わってきたのではないか。しかし、時代を経て50年前に、北九州の弥生時代中期の遺跡(立岩遺跡、春日市門田貝塚、など)で、素朴な絹の平織が発見されたことから、中国からの養蚕の伝播は1世紀ごろである可能性が大である。即ち、日本最初蚕飼育地は、北九州であり京田辺ではない。時を経て、歴史の真実は明かされるのである。
・天王住民は、落人の士族出身が多い
・各家庭の掛け軸には、士族の家系図が書かれている
・士族は刀や槍を売ったりしたが、包丁や家庭で使うものにも加工した
・昔から刀の加工をよく見た
刀を打ち、白い火花が飛ぶ。そして、上白光田(かみはっこうでん)という小字がついた
・朱智神社は、祇園祭りの権利?を売った
・一休寺の住職より、茶筅加工の仕事を世話してもらい、現在もそれが仕事
一度、天王の案内するから、詳しくは村の人々に聞いて欲しい、とのことでした。
途絶えていた、郷土の歴史、いよいよ南西部の奥深いところの新情報を得られることになるかもしれない。
早朝に酒屋神社まで歩いてきました。朝日を避けながら、明治28年の鳥居、今から、140年前に再建された本殿をゆったりとした気持ちで眺めてきました。千木、鰹木、流造り、千鳥破風、軒唐破風は、いつもどっしりと構えています。神功皇后がこの地にやってきて、裏山に酒壺を安置、神々を祭り、この社が創建されたといわれています。いにしえの神々から発したこの国の重さを体中に感じてお参りしてきました。