~こころ豊かな愉快な生き方を求めて~

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内容:地域活性化、歴史探訪、パソコン、野球

高齢の郷土史研究家の姿

2025-02-12 18:17:27 | 郷土の歴史
定年後、地域社会につながることをしようといろいろ試みて、郷土史を学んだが、次から次へと郷土史研究されている方々を紹介していただいたことが、幸運であった。その一人である南山城研究家の元教師を図書館で見かけた。近づいていき、話しかけようとしたが、職員と難しそうな話をされており、なかなか終わらないので、失礼をした。かなりの高齢になっておられるのだが、それでも、書物を読もうとされている姿に昔のはつらつさを垣間見たのだった。

久しぶり、突然、街中で郷土史のお話をした

2023-09-24 09:39:32 | 郷土の歴史
住宅土地統計調査の対象宅を訪問、その説明を行った。新興住宅地区を回ったが、インターホンを鳴らすと、玄関口までご主人が出向いていただき調査の主旨、目的、いつから、あなたはどなたなど、ごく自然な質問が出てスムースに回答した。その後、この地域の話となり、古代からの歴史的なところや、伊賀越えで家康の通過したところと話しかけると大変興味を抱かれ、30分ぐらい立ち話で盛り上がった。話が尽きなかったが、さらに郷土史について興味がおありでしたら、別途、時間をとっても良いと伝え、名刺をお渡しした。「つつきはっけん」活動をしながら、こういった街中での、郷土史について度々お話したことを思い出していた。

「若冲の屋敷跡」は、本当?

2022-06-25 23:25:48 | 郷土の歴史
相変わらず、伊藤若冲人気は衰えないのか、家近くにある「若冲の屋敷跡」に関する問い合わせがよくある。以前、いろいろと調べたが、古文書、古議録に関するものの中には、見当たらない。古老の雑話の中に、「ひげぼうぼうの老人」が鶏の絵をかき、米一斗と交換していて暮らしていたとの話が出てくるが、そのことが言い伝えられきたようである。歴史の真実性としては、NOである。言い伝えは、いろいろと尾ひれがつき、近所の大きな屋敷の表札が「伊東」であるので、ここが屋敷、若冲が住んでいたということで盛り上がったのだが、詳細を調べると全く関係ない屋敷であった。


市民の方からの『伊藤若冲』に関する問い合わせ

2021-12-15 16:33:28 | 郷土の歴史
市民の方から『伊藤若冲』について知りたいと電話があった。インターネットで調べていたら、五年前に当方が掲載した普賢寺にある若冲屋敷跡の記事がヒットしたという。はっきり言って、付近村人の言い伝えであり、真実性に乏しいとお伝えした、天明の大火で、自宅が焼け、その後二年間行方不明で、南に下ったという。地元ではひげがぼうぼうの老人が鶏の絵をかき、コメと交換していたとする話が伝わっている。その真相を確認するために、当時隣接する屋敷や由緒ある地域のお宅を訪ねたが、明確なものは得られなかった。若冲が画いた鶏の絵が当時米と交換したものかが手掛かりになると思うのだが・・・。

京田辺市の山城調査がやっと始まった。これまた五年を要した。

2020-05-20 14:50:07 | 郷土の歴史
嬉しいニュースが飛び込んできた。市史編纂組織部隊で京田辺の山城を調査し始めたという。思い起こせば、5年前に、やまじろ研究先生に市内や南山城、その他の地域に連れて行ってもらい、山城の面白みを味わった。その一方で、市内の学術考古学的な実態調査がされずに、荒れ放題の現場を見ながらよく「残念だあ」とつぶやいていた。中世南山城地域の最大の事件である「山城国一揆」における実態および庶民の暮らしを明確するためにも、中世歴史文化的な価値(観光産業にもつながる・・・)を見出すためにも、是非、専門家による現地調査を要望し、市の関係者や市史編纂室室長にもお願いに行ったことを覚えている。やっとである。行政の方で、やっとその気になってもらい有難いのだが、これらの情報はもう少し、早くいただきたかった。


古代の都「筒城宮」は、都ではなく、樟葉宮の軍事拠点かもしれない。

2020-05-01 17:34:50 | 郷土の歴史
定年後、全く予想もしなかった、我が町、京田辺市の歴史に興味を抱いた。伝え語られた郷土史は、古代、中世、近世に至るまで、実に多くの著名な人物が登場するが、調べれば調べるほど、その真実性のエビデンスに乏しいのである。考古学的には、遺跡・遺物、史的には、古文書・古事録が存在しないのである。古代は、神功皇后が住み、511年に筒城宮(京田辺市)を置いた継体天皇である。特に、筒城宮の遺跡は全く見当たらない。5年前に個人で調査したときに思いついた、都ではなく、大和豪族を見張る軍事拠点のようなものがあったのではないかということが、NHK「英雄たちの選択」の番組を見て、今一度、その可能性を強くしたのである。この辺りを詳細に論理展開するものを書き上げたいと思っている。

市民ねっと楽学塾『松井横穴古墳群の発掘』~よくわかった

2018-08-01 03:59:00 | 郷土の歴史
三年ぶりに市民ねっとの楽学塾に参加してきました。本日のテーマは、「松井横穴古墳の発掘:古墳時代の京田辺」ということで、京都府埋蔵文化財調査研究センターで実際に発掘に携わり、現在、市文化振興室の若手、Aさんのお話であった。横穴発掘の実際を写真と横穴分布図で、臨場感豊かに分かり易く説明頂き、参加して良かった。講義を盛り上げる為に途中質問をすると、松井や大住の地元の方の質問が相次ぎ、それぞれに興味を抱いた。横穴古墳の葬られた人物と継体天皇との関係の追求は、是非継続してやって欲しいところ。こういう文化財担当が、現在でも一人であることは、我が市の文化振興への力の入れ具合が依然として貧弱であることを物語るもの。以前からの大きな課題であるがゆえに、教育委員会の文化振興における正式見解を今一度、聞きたいものである。文化振興計画づくり懇話会、市民参画検討会、文化振興室の組織化と2~3年かけてやってきて、幾つかを提言させていただいたけれども、まだこういうことであるということになれば、また厳しく訴えなくてはならない。担当者は、実に素晴らしい働きを行っているだけに、行政のトップ、上層部の文化学術振興における意識改革が必要である。一口メモ:質問があった大住車塚古墳のことを地元ではチコンジ山古墳というのは、智光寺あるいは地魂寺のことである。


歴史文化継承へ新鮮な若い息吹が必要

2018-06-09 04:27:50 | 郷土の歴史
久し振りに郷土史会の専務理事と2時間の情報交換を行いました。テーマは、京田辺の歴史文化継承が主で、後は、南西部の史跡・人物について、資料を見せていただきました。市民において、いにしえからの文化財の価値がわからなくなっている。その要因は、文化振興推進やストーリーだった有用な活動が不十分であるからとのこと。いつまでも、昔からの人物が独自の方法でやっており、もっと新鮮な若い息吹を吹き込むことが大切だとの認識を共有した。


『地名ものがたり』~地名の尊さ、庶民の知恵と暮らしがある~

2018-04-03 11:49:20 | 郷土の歴史
4月1日から京都新聞朝刊の1面コラムに『地名ものがたり』が連載されている。京都、山城、近江の説明は、簡潔明瞭でよく理解できる。地名は、地理・地形やそこに生きた人々の暮らし出来事文化を表していることが多い。現在住んでいる京田辺市の多々羅は、欽明天皇時代に百済国人爾利久牟(にりくむ)王が住居したところといわれ、鉄工の業を伝え、朝廷より多々羅の姓を下賜されたそうである。歴史の大半は、領主や支配者などの上位者を中心とした出来事を伝えるが、それは一般民衆にも影響を与えるとともに、彼ら自身の暮らし慣習もあり、まさに尊いものであるからこそ、末永く子孫たちに残そうと名づけられた地名もある。そんな中、土地住宅開発や市町村の合併で、分かり易くナンバリングされた町名に否応なしに変わりつつある。その真意を知って欲しいと行政にも何度か訴えたことがあるが、合理的で効率的な丁目番地が当然の如く大手を振って名付けられていく。残念ではあるが、歴史文化のある地区がナンバリングされたならば、せめてもの、昔の地名の案内標識を建てて残して欲しいものだ。我々の先祖が生き抜いた暮らし文化を継承するためにも。






市史編さんには欠かせない、筒城宮・継体天皇の充実した記述

2018-03-06 14:34:26 | 郷土の歴史
あたたかい日差しを受けて、白梅が満開近くになりました。戸外は、少し風があり、ひんやり感じますが、春近しです。五十年ぶりの市史編さんについては、この町の筒城宮、継体天皇についての充実記述が必須と思っています。その関係者はどうもその方向になく、失望していますが、自分なりに研究し、整理したく思っています。今まで収集した資料を今一度、まとめていきたく思っています。





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