師匠のご案内で、木津の鹿背山城に行ってきました。昨日も、片付けをしていると、初めて登った時の地図や講演会で入手した資料、新聞掲載記事が出てきて、読んでいると、鹿背山地区の関心度が高まり少し勉強になりました。各所で観ることができるやまじろの魅力、興福寺、松永久秀の歴史、大和への物流拠点としての津(港)、地元の市民有志から始まった文化活動が大きく花を開きつつある光景をしっかりと目に焼き付けてきました。主郭Ⅰ、Ⅱ、Ⅲ、枡形虎口、喰い違い虎口、櫓台、切岸、土塁、堀切、二重堀切、堅堀、横堀、畝状空堀群、土橋、武者隠、Y字型防御、しっかりと勉強します。
やまじろの師匠であるM氏の指導の下に、同志社大学構内にある新宗谷遺跡(しそがたに)に行ってきました。これで、何回目でしょうか?行く度に、新たなことが分かったり、以前の判断が間違っていたりしますが、今回はかなり成果がありました。六つあるくるわのI、Ⅱ、Ⅲ、Ⅵ郭について、同志社大学の浜中准教授から入手した最近の学術論文報告を基に、その場所を確認できました。また、Ⅳ、Ⅴ郭の場所もほぼわかりました。都谷城館は、キャンパスの建物や道路に埋もれていますが、新宗谷城館は、大きな郭であり中々のものです。新宮前城館もわかりました。これらを総じて、都谷中世城館と言い、在地の土豪が住み、応仁の乱後のこの地の争いや山城国一揆に参加したと、考えられます。その後は、信長に攻められ切腹させられた記録もあります。まさに、山城の一乗谷と言われて相応しいものです。この歴史をさらに調査研究すれば、田辺城などとともに、京田辺市の魅力ある史跡になり、新たな観光スポットになったのに、それを疎かにしてきた、教育委員会や観光行政の怠慢と思わざるを得ません。将来を正しく見据え、発展する市を目指すためにも、行政は大学と真の連携強化を図り、やる気のある市民とともに、取組むことが重要なことです。そのためにも、3/28のつつきはっけんウォークイベントでも、参加者には、よく理解していただくお話を考えていかねばなりません。先日の大学政策シンポジウムで久しぶりに出会った先生が「市は、外のことをあまりにも知らなすぎます」と言っていたことを思い出しました。市も知らず、市民も知らずに、過ごす住みよい町、便利でええやん、のキャッチフレーズで満足しているのが現在のこの町の実力です。誠に遺憾に思います。
京田辺『普賢寺谷』は「越前の朝倉義景の一乗谷」に似ているのではないかとごく少数であるが言われてきた。勿論、市民のほとんどは知らない。南山城のこの一帯が、南北朝時代、応仁の乱、山城國一揆と続いて、権力者にいかに翻弄されたかと思うと、地元の人々の暮らしの不安定さや貧困さが瞼に浮かんでくる。是非、その実態を知りたく思い、少しづつ調べている。しかし、一乗谷のような建物や遺構がほとんど残っておらず、以前に市が調査したもの程度である。もちろん観光用に整備する行政や団体の意向など聞いたことがない。だからこそ、まずは、市民にこの実情をお知らせしたく、11/30のつつきはっけんでは、多数ある中世館をご紹介、ウォークガイドする。普賢寺谷のスケールの大きさ、勇気ある地侍の戦い、これらのことが戦国時代の信長に攻められるまでに繋がっていくことが徐々に判ってきた。まさに、新たな観光資源として有力なもののひとつである。市民参画の産業振興面での取り組み部隊があるようであるが、文化振興や観光関連のお偉方に発信していかなくてはならない。
■京都清水寺で発表される、今年を表す漢字一文字は、『金』でした。
オリンピック開催の年は、この漢字がよく選ばれる。イチロー金字塔、トランプ金髪、格差拡大を表す金(かね)など、少々こじつけ気味である。今一つ、日本全体で、考えることによりモノやことを生み出し表現する能力が低下してきているように思われてならない。
■自分自身にとっての漢字一文字は『城』である。因みに昨年は、出会い、教。
やまじろうさんの案内指導の下、一昨年から鹿背山城、井手城、飯盛山城、・・・今年になって、霧山城、宇陀松山城、高取城、市内いにしえの城跡(天王畑、大住城、西平川原館・・・)、松坂城、青春18切符を利用した岡崎城、丸亀城、津山城、最近は、小川城、津田城 など、その時々の記憶がよみがえる。やはり、目的意識が強いためと思われる。さあ、来年は、どんな城との出会いがあるのでしょうか。
オリンピック開催の年は、この漢字がよく選ばれる。イチロー金字塔、トランプ金髪、格差拡大を表す金(かね)など、少々こじつけ気味である。今一つ、日本全体で、考えることによりモノやことを生み出し表現する能力が低下してきているように思われてならない。
■自分自身にとっての漢字一文字は『城』である。因みに昨年は、出会い、教。
やまじろうさんの案内指導の下、一昨年から鹿背山城、井手城、飯盛山城、・・・今年になって、霧山城、宇陀松山城、高取城、市内いにしえの城跡(天王畑、大住城、西平川原館・・・)、松坂城、青春18切符を利用した岡崎城、丸亀城、津山城、最近は、小川城、津田城 など、その時々の記憶がよみがえる。やはり、目的意識が強いためと思われる。さあ、来年は、どんな城との出会いがあるのでしょうか。
家康の生まれた岡崎城に行き、その後、お隣の豊橋まで行って、吉田城を観てきました。
岡崎城は、公園内にあり観光事業化されていましたが、家康館の展示物がわかりやすく、特に関ヶ原の戦いを、映像、グラフィックと東西軍団を動くジオラマで解説し、関心を高めていました。時間が許せば、一日でもじっくりと観て回りたく思いました。
吉田城では、鉄櫓の写真を撮る場所を川越しと決め撮影、また石垣の刻印を見つけようと見知らぬ人から教えてもらい探しました。
帰りは、名古屋から関西本線に乗り、亀山、加茂、木津、三山木で帰ってきました。亀山で40分、木津で20分の待ち合わせで、東海道本線を使った行きと比べて1時間時間を要し、4時間かかりました。
今回も、京田辺のやまじろ第1人者の『やまじろう』氏の案内で、スムースにかつ有益な解説で、楽しく巡らせていただきました。
岡崎城は、公園内にあり観光事業化されていましたが、家康館の展示物がわかりやすく、特に関ヶ原の戦いを、映像、グラフィックと東西軍団を動くジオラマで解説し、関心を高めていました。時間が許せば、一日でもじっくりと観て回りたく思いました。
吉田城では、鉄櫓の写真を撮る場所を川越しと決め撮影、また石垣の刻印を見つけようと見知らぬ人から教えてもらい探しました。
帰りは、名古屋から関西本線に乗り、亀山、加茂、木津、三山木で帰ってきました。亀山で40分、木津で20分の待ち合わせで、東海道本線を使った行きと比べて1時間時間を要し、4時間かかりました。
今回も、京田辺のやまじろ第1人者の『やまじろう』氏の案内で、スムースにかつ有益な解説で、楽しく巡らせていただきました。
大阪府大東市・四条畷市にまたがる生駒山麓の飯盛山城に、『のざきまいり~~の』で有名な野崎観音ルートから登りました。
特長:石垣の多さ、堀切、土塁の規模の大きさ、珍しい土橋、南北にのびた尾根伝いに主要な曲輪、河内平野を一望、京都、淡路島まで見える頂上での景観(314m)
築城:木沢長政、三好長慶が拡張
ハイキングコースであるが、上り(野崎観音ルート)の七曲り、下り(四条畷ルート)は、きゅうなきつい木の階段で、それをまともに降りると、膝を痛めるので、かにさん横歩きで降りました。(9:09~12:07 約3時間)
この後、私にとっては、印象深い、インパクトあるところに行くことになるのですが、それは明日のお楽しみということで、本日は、ここまで。
特長:石垣の多さ、堀切、土塁の規模の大きさ、珍しい土橋、南北にのびた尾根伝いに主要な曲輪、河内平野を一望、京都、淡路島まで見える頂上での景観(314m)
築城:木沢長政、三好長慶が拡張
ハイキングコースであるが、上り(野崎観音ルート)の七曲り、下り(四条畷ルート)は、きゅうなきつい木の階段で、それをまともに降りると、膝を痛めるので、かにさん横歩きで降りました。(9:09~12:07 約3時間)
この後、私にとっては、印象深い、インパクトあるところに行くことになるのですが、それは明日のお楽しみということで、本日は、ここまで。
真冬のひと時の晴れ間を利用し、日本三大やまじろの一つの高取城を登ってきました。
他に見られない、多くのつくりを京田辺の山城研究家の「やまじろう」さんのご案内ご指導で見てきました。以下が、気づいた内容です。
・坂(七曲り坂…右に左にくねくね、一升坂・・・運搬報酬として一升追加)
・28基の櫓(国見・・・見晴らしが良い、多聞・・・細長い長屋のよう)
・石垣(多さ、見事な算木積、苔が生えその時代をほうふつ、修理した石垣)
・堀(水堀・・・珍しい、弥勒堀切・・・5m、両端は石垣を積む、強烈な竪堀)
・井戸の多さ・・・城内に居住屋敷が多数
・天守の広さ
・猿石、二上山、高見山、U宅長屋門
登る道も、天守も清掃され、さすがに、見るところが多く、比較的簡単に登れるところでしたが、結構疲れました。実は、昼からは、龍王山城に行くつもりで、天理ダムまでいきましたが、通行止めで、そこから徒歩、往復7km、山の登り下り30分では、ちょっとしんどいと思い帰宅しました。
他に見られない、多くのつくりを京田辺の山城研究家の「やまじろう」さんのご案内ご指導で見てきました。以下が、気づいた内容です。
・坂(七曲り坂…右に左にくねくね、一升坂・・・運搬報酬として一升追加)
・28基の櫓(国見・・・見晴らしが良い、多聞・・・細長い長屋のよう)
・石垣(多さ、見事な算木積、苔が生えその時代をほうふつ、修理した石垣)
・堀(水堀・・・珍しい、弥勒堀切・・・5m、両端は石垣を積む、強烈な竪堀)
・井戸の多さ・・・城内に居住屋敷が多数
・天守の広さ
・猿石、二上山、高見山、U宅長屋門
登る道も、天守も清掃され、さすがに、見るところが多く、比較的簡単に登れるところでしたが、結構疲れました。実は、昼からは、龍王山城に行くつもりで、天理ダムまでいきましたが、通行止めで、そこから徒歩、往復7km、山の登り下り30分では、ちょっとしんどいと思い帰宅しました。
宇陀松山城 南北朝時代、秋山氏築城、豊臣政権で近世城郭に、藩主信雄、江戸初期に廃城
松山地区 奥宇陀、吉野、伊勢、と 奈良盆地を結び、米・塩、日常物資、吉野葛、宇陀紙、 熊野の鯖などを運搬、
現在の町屋は、江戸後期から明治時代の建築物が残っている
春日神社、柿本人麻呂像、又兵衛桜 などを回りました。
冬とは思えない快晴で絶好の山城巡りの日。朝、7時に出発。途中、雲海とサル二匹に遭遇。津市美杉町 北畠氏城館跡に到着が、8:58。
北畠氏城館跡(320m)、北畠神社、城館跡庭園、詰城跡(400m)、霧山城跡(560m)、ふるさと資料館に行く。
南北朝時代から伊勢に入り、田丸、阿坂、多気(たげ)美杉に城を築き、北朝や室町幕府と戦ってきた、北畠氏も信長が侵攻して、併合される。阿坂城の白米流し、大河内城での籠城など、思い描いていた弱小武将としてのイメージもこの山城を見て払拭された。中世城館での日本最古の石垣、立派な書院庭園、本居宣長も詣でた神社、近くを通る伊勢本街道、ふるさと資料館の展示 等々、印象深い山城見学になった。
実は、中学1年の夏のクラブ合宿に訪れたところであるということを思い出した。しかし、その記憶は全くなく、あまり変わらないであろう自然も思い出せなかった。
北畠氏城館跡(320m)、北畠神社、城館跡庭園、詰城跡(400m)、霧山城跡(560m)、ふるさと資料館に行く。
南北朝時代から伊勢に入り、田丸、阿坂、多気(たげ)美杉に城を築き、北朝や室町幕府と戦ってきた、北畠氏も信長が侵攻して、併合される。阿坂城の白米流し、大河内城での籠城など、思い描いていた弱小武将としてのイメージもこの山城を見て払拭された。中世城館での日本最古の石垣、立派な書院庭園、本居宣長も詣でた神社、近くを通る伊勢本街道、ふるさと資料館の展示 等々、印象深い山城見学になった。
実は、中学1年の夏のクラブ合宿に訪れたところであるということを思い出した。しかし、その記憶は全くなく、あまり変わらないであろう自然も思い出せなかった。