参加された方々へ
10/29、京都DMO主催「伊賀越え講演会」で感じたこと、異論について述べます。
今回のイベントは、南山城全体で、伊賀越えに取組み、歴史・文化・教育・観光資源や産業の発展に繫いでいくように、8年前から提案しても、一向に実施されないので、つつきはっけんで独自で取組んでいるもので、昨年から今一度強く、市や主催者側に訴えて、ようやく、イベント開催がされました。
1~4は、井上章一教授の意見に対して、・・・>以降は、私の見解
1.大阪湾からの逃走・・・>海は危険、船頭の調達は困難、信長の敵、和歌山雑賀衆に襲われる可能性あり
2.本能寺の変を知ったのは、枚方・・・>最も信頼される石川忠総留書では、飯盛山西麓(四條畷旧平田神社の可能性大)
3.木津川に出迎えに行ったが多数いるのはおかしい・・・>山口城の家来(新重左エ門、市辺出雲守、奥田仁義)、庄屋半兵衛、庄田家、城陽人夫、多数記録あり
4.明智討ちに向かうポーズをとった家康・・・>甲斐に行き武田領地を確保、その後明智討ちで深い意味がある
5.歴史小説を持ち出す・・・>小説は、都合の良いように作り話があることを頭に入れて見解を述べることが必要
6.井手町多賀の伝承
同じような話が城陽市市辺(いちのべ)にもある。宇治田原までの道案内のご褒美は、多賀庄田家がもらった『御所車の家紋』、市辺の庄屋半兵衛は苗字『市本』と寄合の最高役をもらった。草内の渡しの対岸は、多賀浜ではなく、川の流れに沿って渡る城陽十六の渡し場の方が妥当である。
7.尊延寺の通過・・・>重要な穂谷が忘れられ、当時広大な尊延寺地域との位置関係の掌握が不十分
8.穴山梅雪の行動・・・>最初から家康と別れたのではなく、徐々に意識的に遅れていったのである
9.木津岡田国神社の伝承・・・>尊延寺、草内を通過点と考えるならば、大きな迂回となり、影武者・おとりであろう
10.名前の読み方の間違い・・・>宇頭城(うつぎ)
まだまだ、あるのだが、このようなそれぞれの異なる意見を出しあり、大いにディスカッションをし、伊賀越えの謎に迫る場を盛り上げてほしかった。そうすれば、このイベントがより、関心度が高まり次につながることになる。ただ単に著名人に基調講演をしてもらい、土地の伝承モノを披露しあいウォーキングすれば、主催者としての役目は終わりなんていうものにしないことを願いたい。貴重な歴史文化観光資源となりうる、このテーマ・企画は、地方創生に繋がっていく価値あるモノであることに関係者含めて強く認識していただきたい。