すずめは来るよ

すずめが戻ってきたことを、1ヶ月ぐらい前に書いた。
その後も順調で、やってくる数も増えている。
面白いのは、すずめを襲ったと私に疑われてる猫が、時々庭にやってきて休んでいる。見るたびに、じたんだを踏んで追っ払うのだが、なかなか逃げない。こちらをジーと見て,ニヤーンと笑って、こちらの顔を伺いながら、おもむろに、去っていく。娘の時も同じだったらしい。

一方、すずめは来るには来るが用心深い。庭に数段の棚がある、そこを、えさ台とばかりに、お米をばら撒いておくと、下から2メートルぐらい高い上2段はすぐお米はなくなるが、上から3段目は来るには来るが、お米があまり減らない。横にある石油タンクの上やたたきのコンクリートの上には全くと言って良いほど来ないでお米はいつまでもそのままになっている。
 
すずめたちも良く考えている。(組織知に縛られないすずめはすごい‥?)

(人知ならぬ)ねこ知すずめ知新鮮でいいなー。

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続き

(昨日に引き続いて)個人的な人知が組織化され、社会的に意味を持つ【知】との距離は大きい。居酒屋での駄洒落や愚痴の中に、お百姓さんのぼやきの中に、学校で言えば保護者会が終わった後の下駄箱出の立ち話の中に、優れた人知が含まれていることは珍しくない。だからと言ってその人たちが代わってやれるわけではない。私の偉そうに言う気付きも、同じである。そういうものなんだ。ところで、個人的な人知が社会的な知に至るのに、やたら手間とひまかかるのは、社会そのものの仕組みによる。簡単に言うと、組織的知は法律によって政策にすることが出来るが、個人知を法律により組織的知(社会的知)にすることは出来ない。組織的知に至らない知が対策として講じられることはない。個人知から組織的知に至る行程が長い。しかし、全体として行き詰まったとき、この道を通らざるを得ない。全体の中で、自分のポジションが見えたようで、どこかほうとした気分になった。蛇足になるが、今求められる知を、組織知として公になっているのを(今のところ)はっきりした形で見たことはない。政治家で最も好きなタイプ福田首相にも、今必要な知は見出せない。ましてほかの政治家は与野党関係なく、必要な知に対し、生理的に受けつけないのではないだろうか。
私のシナリオは今、こんな図式になっている。大いにゆっくりドラマを楽しもう。
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