情報の氾濫と不足

今、「情報不足だ」と感じている人はあまりいないのではないだろうか。むしろ「情報が溢れていて、処理するが難しい」が実感かもしれない。
 確かに「情報が溢れてる」と言えば溢れてる。しかし、社会や個人に本当に必要な情報は提供されているだろうか?
 長く関わってきた教育や、今関心を持っている経済で言えば、(差別用語を含む言いかただが)「つんぼ桟敷」の状態だとつくづく思う。
 為政者やメディア情報と現実の開きがあまりに大きい
。教育の実態やそれを表す統計と語られる情報の開きが大きすぎたり、方向が逆の場合も珍しくない。
 政府や日銀の景気予測がことごとく外れるように、これも実態や統計と、語られる情報の開きは常識を超えて大きい。
 だから、教育と経済に関しては今後かなり長い期間にわたって
、公に語られるところとは違った予想外な展開が続くだろうと思う
 恐らく世界的に突出した学校不適応児・生徒数(不登校)や発達障害児の急激な増加、子供の努力と反比例的に進行する学力低下は誰が予測しただろう?
 経済の景気の指標となっている株式の下落がこの1年で、世界第2位となることは誰が予想し語っていただろうか?
 定年後の暇人である私もこれらのことはただの一度も耳にした事が無い。
 さっきも、NHKニュースで株価の下落原因を「日本の企業の魅力がなくなってきたのではないか」と解説していたが、この解説自身、端的に(今日の情報の貧しさと不足を伝える情報)だった。
 過去1年の株の下降率が「企業の魅力」と直結するとは普通は考えられない。この分析は【特殊】だと思う。
 
 我々は特殊な≪情報の真空地帯≫にいるのではないだろうか?

(こんな話は突拍子も無く、馬鹿らしい、相手にされないような話かもしれないとは思っている。) 

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子供にどんな力をつけるか

今まで教育は、求められる学力を子供の発達原理に即して育てるもの、と考えてきた。
今日の教育が発達原理を無視し、その結果、多くの問題を露呈してるのは当然だと考えてきた。今日は、新しくもう一つのことに気が付いた。
それは、どんな力をつけるか?その学力の中身である。
 これまでもとかく、学校で学んでも実社会では役に立たないと言われてきたし確かにそういう一面もあった。しかしこれまでは、社会が学歴や学力に依存していた面もないとは言えない。それはある意味で教育が、産業基盤の変化に対応していた。
 ところで、今後も産業基盤は同じ方向で、変化するだろうかろうか?
 地球環境、自然災害、資源等、かつてなかった環境の変化に産業が(仕事)対応せざるを得ない状況はかなり迫っている。そうすると産業(仕事)は変わるはずである。
 今日、子供達につけている力は、今までにもまして役立つだろうかと疑問になる。例えば、地球の温暖化は、確実にやってくると考えられているが、今日のカリキュラムにそれはない。実際には子供達はその環境下で産業(仕事)に従事するはずである。将来への準備が全くなされていない。結局子供達は将来を目指して必要な力を発達原理に即して、育てなければいけないのだが、現在は目標や内容そして方法も科学性を欠き状況にあっていない。生きていくのは子供達だから、大人がどれだけ恣意的に教育しても子供とのズレは大きくなるだけで、教育上の問題が噴出し止まらない当然である。今後さらに、問題は大きく深刻化するのは必然。
 今日、映画を見に行く電車の中で、教育が将来を見ていないことに改めて気が付いた。
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「大きな政府」と「小さな政府」の意味は?

娘がインターネットで政治的ポジションの検査のようなのをやっていた。10個の質問に答えると、結果が縦軸に保守ーリベラル横軸に大きな政府ー小さな政府になったグラフの中に交点で位置を示してくれる。ところで、政治的ポジションがこれで現せるかとこの検査自身が疑問だったがよく耳にする、【小さな政府ー大きな政府】の所でで立ち止まってしまった。確かに、政府が行政改革で「官から民へ、民に出来ることは民へ」等の言い方で郵政改革を始め、行政サービスを民へ移行していることは知っってはいた。しかし、このグラフのように横軸の方向性で表されると、何か疑問を感じてしまった。何故なら国家予算の規模は大きくなっているし、国民の持ち出しも増えている。減少してるところと増加してるところの配分が違ってるだけなのに。

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