カラダで考える

「カラダで考える」は朝日新聞(4月1日)に掲載された天野祐吉さん(コラムニスト)の1文の見出しである。
 パルコのCMで使われてる「さあ、カラダを使って考えよう。」のコピーが気に入ったようだ。近頃さっぱりカラダで考えるということをしなくなってしまった。「脳化社会」と言うのは 、そういうものらしいとボヤき、 カラダで考える事を忘れた人間は、カラダのない人間になってしまう。市民マラソンンに集まる何千何万の人々の姿も「カラダを返せ!」と叫んで行進するデモの群集のようにも見えたりして。   と文を結んでいた。
 このコピーがわざわざ「カラダ」とカタカナを使っていることにわが意を得たりとばかりに、共感し嬉しくなった。
 私は多分同じような意味で「身体感覚」の言葉を使っているが、どんな言葉を使えば良いのか未だに分らない。不眠症の学生時代から40年以上、一時も手放なすまいと体の中で執着しまくってきたこの言葉が少しでも日の目を見てくれたようで、嬉しかった。
  つい傍にいた妻に「ほれ」とその記事を差し出したが、やっぱり分ったような分らないような(いつもの)曖昧な顔をしている。自分でも言葉が見つからないのだから仕方ないし、そういうところはどんな人間関係にも付いて回るのだろう。
 私の出会いを求めている「身体感覚」の言葉が勝手に「カラダ」に好意を持ったのかもしれない。
    それでもやっぱり嬉しい。

「カラダ」でも「身体感覚」でもかまわないが、この【マイ・テーマ】を

誰でも良いから(関心を持ってくれる人がいれば良いなー。)と、密かに思っている自分がいる。 

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「実現可能な温暖化対策」

(実現可能な温暖化対策)はアメリカの温暖化対策の基本的立場である。 洞爺湖サミットの主催国である日本も同様の立場である。実現可能=出来ることをする =出来ないことはしない   だから、当たり前といえば当たり前ではある。

 しかし、どこかおかしく感じる。何故だろう?
 
  変な例だが、アル中患者にお医者さんが「出来る事をしなさい。」と助言したらどうだろう? どの患者さんもアルコールから抜け出したいと思いながら止められないでいるのだから結果は想像がつく。
 地球の温暖化も同じで人類の行動様式の結果ではあるが温暖化を望んでいるわけではない。危機感を持って何とかしたいと誰もが願いながらも温暖化が進行している。人類の所作によって起きている地球の破壊的な変化である。

  地球の変化を見ながら人類がどうするかを決めなければ、危機は免れない。アル中患者が体に相談して行動しないと体がボロボロになるのをとめられないのと同じだろう。
 
   世界の経済大国で世界を牽引しなければならない立場のアメリカや日本が出来るだけなどといってるのは情けない。

  子供が夏休みの学習計画を立てるのとは違う。

   温暖化は地球よりヒトの都合を優先させても意味がなく、ヒトが地球の実態に合わせない限り解決しない。

  今は、自分中心のヒトが(周囲の状況を鑑みて行動する。)という理に合った行動が人類全体に求められている。

ヒトから人への、人格的な成長の到達点としての理念(例えば現憲法)だけでなく温暖化に具体的な行動が、日本もアメリカも世界にも求められている。

ここで言いたい人格的な成長を簡単に言うと、

他の都合より自分の都合を優先させることから、自分の都合以前に他の立場や都合のあることを認識出来る人格的発達段階のこと。

 

 

 

かつてない機会(チャンス)を無駄にしたくないものだ。

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