世の中の見える世界から見えない世界まで思いっきり。特に、子供、教育、不登校、自閉症等 情緒に関心あり
天まで届け
言葉
40数年一緒に暮らしてきた妻でさえマイ・テーマ?の「身体感覚(カラダ)」の意味はうまく伝わらない。
それは、当たり前といえば当たり前で、もともと、妻はノイローゼをやっていない。経験が異なるのだから仕方のないこと。
だから、言葉を含めたコミュニケーションは意味と限界を併せ持つ。
目を転じて、言葉を社会的機能として見た場合、どうだろう? 言葉の(意味と限界)の役割を逸脱して用いられていることが意外に多いのではないか。
例えば、政府や日銀は 日本の経済状況を「底堅い好景気」「目指すはデフレデフレからの脱却」と数年前から今も公式見解として発表している。新聞やテレビのメディアはそれを元に経済状況を報道している。
「好景気」や「不景気」は、昔から広く井戸端会議に至るまで誰でもが使う言葉だ。この言葉も限界があるにせよ、それなりに通じる言葉だった。
現在、公に使われてる「好景気は」通じる言葉になっているだろうか?
ここ何年も家庭の所得は減り、物価上がり、余儀なくされる支出は増え続けている。働く人の大半を抱える中小企業の倒産や経済的理由による自殺や家庭崩壊は統計上も増加の一途をたどっている。
それでも「好景気」の言葉は権威を持って白昼堂々と使われ新聞の見出しに踊っている。「デフレ脱却」も同じ。
これは、「言葉の意味と限界」あるいは言葉のズレや解釈の枠を超えていないだろうか。
事実に照らした時、むしろ虚言(ウソ)に近い感じだ。
「好景気」や「不景気」の言葉を使う大半の国民にとって「不景気」の方が、実態との距離は、はっきり近いはずである。
アメリカでは、大統領にしろ、FRB議長(日本の日銀総裁に当たる)にしろ経済状況に対する公式な表明は、日本とはニューアンスが大きく違う。
アメリカのリーダー達の経済認識や政策が良いとは思わないが、それでも日本よりはるかに率直で事実に近い認識を表明する。
別に欧米が進んでいるとか、民度が云々とかでなく、「日本の好景気」には潔くない(大本営発表)的なものを感じてしまう。
「 好景気」とためらわず使う人たちは、専門家的に用語を操っているつもりかも知れないが、言葉は社会的機能の低下どころでなくなってしまう。
「GDP」と「景気」の意味が違うことは誰でも知っているのだから
公的に取り違えてはいけない。
政府や与野党を超えた国民の「文化や言葉」の問題として何とかならないのだろうか。