世の中の見える世界から見えない世界まで思いっきり。特に、子供、教育、不登校、自閉症等 情緒に関心あり
天まで届け
希望の真偽
自然災害やパンデミックの類はかなり市民の中に浸透した感があるが 世界経済の縮小は認知度は低い。
世界経済の縮小は バブルや金融緩和 右肩上がりの債務残高に至って久しいが 情報操作もあって認識し難いが 時間の問題だろう。
我々の置かれてる環境や現状から目を逸らし続けないから 次第に明らかになり 対策は時間がかかっても避けられない。
マスコミのプロパガンダ報道によって 逆流や動きの鈍さが目立つが 気付きと対策は静かに確実に拡がるべくして拡がっている。
おとぎの国
予算委員会の質問と答弁を聞いていると、結局 答弁は政府は成果を野党は否定することを前提に論じており 双方は実際を検証する精密さを欠いた議論に終始している。
こんな議論を何十年と繰り返してきた結果が現在の日本の現状 世界1の借金と小高齢化 ではないか と考えている。
どうして こんな借金を抱えたのか? どうして少子高齢化したのか?の議論が 国会でしたのを見たことが無い。自然現象であるかのようだ。
人為的な政策の結果を自然減であるかのような認識で どうしてこの行き詰まりから抜け出せるか?この非論理性は 子どもでも不思議がるだろう。30年もしたら 子どもたちが「当時の大人はそんなことも気づかなかったのか?」と首をかしげるだろう。
非論理が闊歩する赤じゅうたん
予算委員会の質問と答弁を聞いていると、結局 答弁は政府は成果を野党は否定することを前提に論じており 双方は実際を検証する精密さを欠いた議論に終始している。
こんな議論を何十年と繰り返してきた結果が現在の日本の現状 世界1の借金と小高齢化 ではないか と考えている。
どうして こんな借金を抱えたのか? どうして少子高齢化したのか?の議論が 国会でしたのを見たことが無い。自然現象であるかのようだ。
人為的な政策の結果を自然現象であるかのような認識で どうしてこの行き詰まりから抜け出せるか?この非論理性は 子どもでも不思議がると思う。
常識外れの無謬主義が常識
政府は間違いを犯かさず全て正しくしっかりやっている。
権力の無謬主義は世界に共通しているかもしれないが 個人であれ どんな組織であれ そんなことは有り得ない。
こんな有り得ないことが絶対視されて権力が行使されてる現実は何故なのか?
自然と人の関係をとり違えてるのと 通じてる。
権力者だけでなく 私たち庶民も 事実でないことを常識としているものが 結構多いかもしれない。
「常識を疑う」」を常識にしたら良い。
白ける国会
国会のテレビ放映は ウイルス対策の質疑応答が為されてる。
リアルな討論だが 同時に「先手」は言葉だけで後手後手のやり取り感が強い。
与党も野党もマスコミも こんな事態を予測してやることをやって来ただろうか? そのことを棚に上げて正論を戦わせても 白けるだけ。
ウイルス対策は与野党が不明に気付く良いチャンスだが 双方そうなっていない。権力の無謬主義がなせる業か。
ICT教育
科学技術を活用した教育は いかなる時代であっても重要である。
今政府が進めようとしているICT教育の推進は 上記の文脈に合致するだろうか?
今 視界は人類が自然と どう向き合うかが課題であり 教育を構成する自然と人為のバランスが問われている。
単なるICT教育は人為の強化であり カリキュラムは 児童の全活動 中でも自然活動とのバランスでい位置づけられなければならない。
国会の論議を見ていても全くその気配はない。 これでは今後さらに 不登校や発達障害の増加するだろう と考えている。
経済ばっかりで ほとんど子供と関わっていない権力を持った大人たちが 子どものカリキュラムや指導内容に土足で立ち入ってるようで
恐ろしさを感じる。ここでも 子どもや市井の人たちの生の声 それを解釈できる人の声が必要だろう。
元々ICT教育の推進は 経済政策再生対策から生まれた経緯もある。
昔話のようだ
安全保障と軍備が 同義語であるかのように使われることが多いが こんどの新型コロナウイルスの世界的騒動は 従来の「安全保障」の概念を変えざるを得なくしていないか。
軍備は安全保障の一部であって矮小化して使われていることを ウイルスや温暖化や世界経済の縮小と合わせて 世界は見せてくれているのではないか。そんなん事を他所に政治は 「桜だ 憲法だ」「ウクライナだ 弾劾だ」と 安全保障を協議する席にも就けない国がある。