世の中の見える世界から見えない世界まで思いっきり。特に、子供、教育、不登校、自閉症等 情緒に関心あり
天まで届け
平和ボケ
日本は戦後60年新たに戦争することもなくある意味で経済的に繁栄してきた。人によっては社会に蔓延る甘え?を見て「平和ボケ」だと指摘する。果たしてそうだろうか?
戦争より怖いことが起きているにもかかわらずそれに向かって進んでいると私は考えている。
最たるものは地球の温暖化だが資源、水、食料、疫病など60年前では日本も世界も想像もしなかったことが、至る所で頻発している。
バーナンキ?議長(アメリカの中央銀行)の「アメリカは戦後最大の経済危機」発言や、白川日銀総裁がG7に臨んで、日本の金融危機の成功経験(私的には、水増し、水ぶくれ策)を世界にアピールするとの談話こそ 「平和ボケ・欲ボケ」ではないか。
アメリカの戦後って何時のことか?日本の公的資金の注入はバーナンキ議長が「問題の先送り」だと断言したように、確かに現在の日本の経済状況や800兆からの国債は先送りされたものだ。(しかし、日本のやり方を断じたバーナンキ議長自身が言い方は違うが金融を水増し、アメリカ政府にもそれを求めている。)
両首脳が事実から離れておっぴらに話すことの先にあるものやチベットの人権問題の奥にあるものに無頓着なのが「平和ボケ」「欲ボケ」
サー、私もこれから修行(囲碁)じゃ!
ブッシュ(大統領)に共感
産業構造の転換
中国の人民元が1ドルが6元台と元高になったことで、中国政府は産業構造の転換に繋げる意向と報道されていた。地球上で人類が生き延びるには基本的に産業構造の←への転換以外にないと考えてきたので、中身を見ると案の定→(現在の発展方向)だった。「科学的発達観に基づく経済発展」と打ち出していたから、今は当然かもしれないが「科学的」の意味が目先の計算のことだったと改めて確認させられた。ヒトの進歩がジグザグするのは当たり前だがそれにしても世界経済の中で元気の良い新興国のトップ的な中国の舵の切り方が相変わらず反対であることを思い知らされた。出来れ現在のスピードを落とすぐらいのことが出来ればと期待しないでもないが、まだ難しいいのだろう。
チベットの問題が人権の問題だと当事者も世界も指摘しているが本質的には非文化的な産業構造にあるのではないか。だから、暴力化の様相を見せる自治区の人たちの訴えや、取り締まる中国政府、国際世論も今一しっくり来ない。人権問題のレベルで捉えると、大声で糾弾できる国がどこにあるのかと疑問に思う。少数民族への抑圧、弱者への抑圧や人権無視は歴史的にも現在もどの国も抱えているのではないだろうか?だからと言って、中国政府の対応が正当化されるものではないが、もし本当に解決しようとするなら、各々が、もう一歩踏み込んで世界の生産構造が文化的にどんな意味を持つかを検証してから方が生産的である。どの立場も地球をぶっ壊すような生産構造を放置しあるいは進めながら、出てきた矛盾をワイワイ言っても、あまり意味がない。
ここでもヒトビトののマッチポンプの姿をを思い浮かべてしまう。
ツケ②
「本手」とか、「手を戻す」といって、ツケを放置しない。
囲碁の盤面は19×19だがその変化は、大宇宙にも小宇宙(人間一人の内面)にも匹敵する。
前に人がツケを覚えた不幸?のことを書いたが、囲碁では問題外になる。
は分っていても、いざになるとやっぱりやってしまう。失敗し反省を繰り返してしほんの僅か上達する。
地球上の人類のやっているツケ(借り貸し)も同じだろう。
株(貸し)も勢力(投資)を働かせる囲碁もツケ(貸し借り)は癖になりやすい。
と言いながら、今日もこれから修行じゃ!
ツケ①
ヒトはツケの味をしめた。(私も49年前、ローンで家を建てたが)昔と違いどこもかしこも(ゴテゴテと言うより)ツケで物事を処理し問題を先送りするするのが普通になった。
私が育った家は、両親がもともと農家だったこともあってか、父親が勤め人になってからも、ツケや借金を恥ずべき事のようにしていた。しかし当時は我が家ばかりでなく周囲の空気もそんなで、子供心にも、ツケで売り買いする人はどこか調子の良いずるさを感じたものだ。
今見ると、(自分自身も、)世界も日本もツケの思想と行動様式が蔓延している。
地球の温暖化や、日本の膨大な赤字、年金問題、少子高齢化などのツケが子供や孫達に残すと言われている。
しかし考えるとツケ(問題を先送りし利子がつく)の行動はもっと世界的に根を深く下ろしているのではないか。
先日、アメリカの中央銀行総裁はサブプライムの焦げ付きに公的資金の投入は日本のように、問題の先送りなっていしまうと否定的に述べていた。
昨日はアメリカの影響下のIMFの代表は、世界の国々に公的資金の投入を呼びかけていた。
アメリカのツケの焦げ付きの支払いを世界に求めるようなものと言えなくもないが、確かに現在の経済はグローバル化しているから、借金も支払いも国境がないとも言える。
ただ、どこがやってもいろんな名目でお金の(価値)の水増しで,タンクを溢れさすのを待っているだけ。その水ぶくれの経済を子孫に残すことに違いはない。暫くは地球の産業経済が痛み社会が疲弊していくだろうが、一方出口を探し出口に近づいているとも言えなくもない。
日本では昨日党首討論をしていたが、両党首があんなことでカッカとやり合っているのは、日本や世界の現状=鍋ガエルと過冷却水状態(暑さボケと緊張の同居)をビジュアルに見せてくれたのだと思う。
「ツケるヒトビト」と題すれば、そん所そこらの舞台よりはるかにリアリティがある、と毒づこう。
無くて七癖
最近はあまり聞かないが、5~60年前お袋さんたちがよく言っていた。 当時、それほど気にも留めず、「古い」 と言う感じで聞いていた。自分が何十年も人間をやってきて古くなった今、自分自身も周囲の人たちも、大袈裟だが社会や集団や組織もあの諺は旨いこと言い当ててると思う。
初めて自分の癖に気が付いたのは、小学校の後半、トイレに入るとき、中の電気をつける紐を引っ張ってしまう。当時、親から「昼間から電気をつけて!」と叱られていたのについ自然に紐を引っ張っていた。自分が大きくなっていくにつれ、3日続けると癖になるものが結構あることにも気がついたし、スキーや家族とのドライブなど割合プラスになることを意識的に初めて、そのパターンでやっているものもあった。
そう考えると、人は習慣と癖の塊で、(意識)が少し頭を出してどうのこうのとやっているのかもしれない。
そうは思うけど、多分そのちょっとした意識が自分も社会や集団や組織も変えていくのだろう。
「意識して自分や周囲を変えようとする意識があるかないかが、子供と大人の違いだ。」と言う専門家もいる。
「老人は、子供に返る。」というけれど、今は癖や習慣ともそこそこ付き合いたいと思う。
気が付かないでいるようだけど。
文科省が指導要領の改訂で全ての学年で「君が代を歌えるようにする」と指導目標や内容として付け加えたとの報道があった。
歌うことが望ましい→歌うものとする→歌えるようにする、の変化は君が代の問題とは全く別に教育や学習の本質的な変化を表している。
教育の結果は内容と方法の両者によって全く反対の結果を生むのは教育科学の基本である。
40年間の教師生活を通してこのような指導目標や内容の表現形態を行政的にも学校現場でもただの1度も見たことがない。
君が代、日の丸の是非の問題ではない。教育学・法律・行政上の問題の説明はここでは省き、上記のような形で外形的な結果を求める課題の設定の仕方が学習課題の如何を問わず、子供にとって最悪の学習結果を生じるという学習の科学性・法則性との関係を考えて見たい。
子供を勉強嫌いさせる手っ取り早い方法は、勉強を強いることだし、どんな好きな食べ物も嫌いにさせるには、求める以上に与え強制すればよい。
上記の指示をそのまま学校で実践すると、子供はうたっている姿とは全く逆の心情や行動を他の場面で見せる。それだけでなく、学校嫌いや不登校児童生徒はさらに増えるはずだ。
文科省の意図と指示の間に矛盾はないか?
ところが、 どこからも、どんな反応もない聞こえてこない。
世の中のあちこちで起こる困った出来事と同様、
子供達の育ちに関わる大きな変化が誰にも意識もされず
進んでいる。
ヒトの鍋ガエル状態(無感覚)と社会の過冷却水化(ある種の過剰な緊張状態)を思わずにはいられない。(その中で生きている自分も似たり寄ったりで、この2つの性質を併せ持ち、やっと言えてるだけだとは思う。)
リーダーの視界
どんな生物や集団でもリーダーの役割はその群れの安全保障だろう。群れの安全を守るためいち早く周囲の状況を察知し対応する。
宇宙船(地球号)や日本丸のリーダーの資質はどうだろう?
テレビなどで見る世界や日本のリダー、例えばブッシュさんや福田さんは、どの辺まで視界に入れてるか、視線の先が気になる。
最低、地球号や日本丸の進む方向や船内の状況は見ていてほしい。
世界や日本の経済を心配し、テロとの戦いに心を砕いているとは思う。
しかし、地球号や日本丸の安全はそんな教科書的なレベルで間に合うか?
アフリカの飢餓やエイズなどの疫病、日本の孤老死や自殺は船体の底に穴が開き被害を出している。
アフリカや難民への国際的な「援助や救済」と言われているが、そんな人道的、思いやり的な性質のものだろうか。
船底に穴を開けたのは彼らではないかもしれないし、そうでなくても船底の穴はやがて我々の安全を脅かす。
地球号や日本丸の安全のため、アフリカの飢餓や日本の自殺などは何はさておき解決しなくては安全保障にはならない。
それを棚上げして、「テロだ、財源云々」しても、本当?と思ってしまう。
ガソリン税や道路財源の話は賛成も反対も、どっちにしても暢気な話しに聞こえる。
今、世界や日本で緊急に必要なことは今やっているようなことか?優先順位はどうなっている?
家族に病人がいたら、それを最優先して何とかしようとする。
年末に、尊敬する先輩(74歳)が孤独死した。5日後に発見された。
言葉
40数年一緒に暮らしてきた妻でさえマイ・テーマ?の「身体感覚(カラダ)」の意味はうまく伝わらない。
それは、当たり前といえば当たり前で、もともと、妻はノイローゼをやっていない。経験が異なるのだから仕方のないこと。
だから、言葉を含めたコミュニケーションは意味と限界を併せ持つ。
目を転じて、言葉を社会的機能として見た場合、どうだろう? 言葉の(意味と限界)の役割を逸脱して用いられていることが意外に多いのではないか。
例えば、政府や日銀は 日本の経済状況を「底堅い好景気」「目指すはデフレデフレからの脱却」と数年前から今も公式見解として発表している。新聞やテレビのメディアはそれを元に経済状況を報道している。
「好景気」や「不景気」は、昔から広く井戸端会議に至るまで誰でもが使う言葉だ。この言葉も限界があるにせよ、それなりに通じる言葉だった。
現在、公に使われてる「好景気は」通じる言葉になっているだろうか?
ここ何年も家庭の所得は減り、物価上がり、余儀なくされる支出は増え続けている。働く人の大半を抱える中小企業の倒産や経済的理由による自殺や家庭崩壊は統計上も増加の一途をたどっている。
それでも「好景気」の言葉は権威を持って白昼堂々と使われ新聞の見出しに踊っている。「デフレ脱却」も同じ。
これは、「言葉の意味と限界」あるいは言葉のズレや解釈の枠を超えていないだろうか。
事実に照らした時、むしろ虚言(ウソ)に近い感じだ。
「好景気」や「不景気」の言葉を使う大半の国民にとって「不景気」の方が、実態との距離は、はっきり近いはずである。
アメリカでは、大統領にしろ、FRB議長(日本の日銀総裁に当たる)にしろ経済状況に対する公式な表明は、日本とはニューアンスが大きく違う。
アメリカのリーダー達の経済認識や政策が良いとは思わないが、それでも日本よりはるかに率直で事実に近い認識を表明する。
別に欧米が進んでいるとか、民度が云々とかでなく、「日本の好景気」には潔くない(大本営発表)的なものを感じてしまう。
「 好景気」とためらわず使う人たちは、専門家的に用語を操っているつもりかも知れないが、言葉は社会的機能の低下どころでなくなってしまう。
「GDP」と「景気」の意味が違うことは誰でも知っているのだから
公的に取り違えてはいけない。
政府や与野党を超えた国民の「文化や言葉」の問題として何とかならないのだろうか。
カラダで考えられた時代
昨日に続くが、私自身が良い時代だったのは、戦後10年ぐらい(昭和30年)までかなと思う。思い出してみると、食べるのがやっとだった日本が、焼け野原の跡に、にょきにょきビルが建ち、ネオンが光りだし、東京へ東京へと人が動き出した頃から、世の中がおかしくなり始めた。昭和35年、北海道を離れ大学へ行ってすぐノイローゼになり、カラダ(身体感覚)を喪失させた。それ以来カラダに拘り、やっとのことでカラダを取り戻すことができたと、感じられるようになった。やっと自分のカラダを取り戻して、周りを見ると、まわりの人たち、特に子供達のその感覚が希薄化しているようで気になる。
勿論、大人たちにカラダを育てる時間も空間も奪われたのだから子供のせいではない。
昔は、「国敗れて山河あり、時、春にして草木深し。」だった。
今は、「国(経済)勝っても山河なし、時、春にしてどどじょっこ
もフナっこも出てこない。」になってしまった。
シマッタ!
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