四方源太郎日記(京都府議会議員・綾部市選挙区)

これからの綾部のために、さらなる「挑戦」を!

「今日、人類が初めて、綾部に降りたよ」

2025年02月07日 | 歴史の探求

日㈮今朝も寒いが雪は積もらなかった。しかし、今夜未明から明日は夜まで降雪の予報。さすがに明日は積もると思う。

 先日、金沢で購入した七尾市の和ろうそくを使ってみた。細いろうそくなので、数日、仏壇で使うとなくなってしまうが、炎は大きいように思う。

 

 午前中綾部市木材同業組合の上原久明組合長らと国交省福知山河川国道事務所へ。本田太郎事務所の西地秘書の手配で副所長らと面会し、組合としての要望を伝えるのに同席した。

 午後事務所に本田太郎事務所の小谷秘書が来られて近況の意見交換。

 その後は綾部市教委の大槻伸一教育部長らが来られて意見交換。

 久しぶりにNEXT(今川信吾代表)の例会に出席する。

 

 現在の「げんたろう新聞」は、最初の府議選で落選した後、2007年6月13日に発行を始めて、最初は月刊、今は3ヵ月に1度の発行で最新の2025年2月3日付で第162号となっているが、実はその前身の「源太郎新聞」というものがあった。それは2004年2月4日に第1号を発行し、月刊で2006年12月4日付の第45号まで、主に知り合いへのメール添付という形で発行していた。

 

 その第44号(2006年11月2日付)「今日、人類が初めて、綾部に降りたよ」というタイトルで発行している。今から約18年前、32才の時に書いた文章です。

◆国の成り立ち

 最近、『誰も知らなかった皇帝たちの中国』(岡田英弘著、ワック発行)という本を送っていただいた。中国は漢民族の国だと思っていたが、秦の始皇帝から清の宣統帝溥儀までの2132年間のうち、漢人の治世は秦、前漢、後漢、三国、晋、北宋、南宋、明など、4分の1ほどしかないそうだ。

 「国家」「国民」「国土」という概念もそんなに古くからあるものではない。西洋でもナポレオン以後のものらしい。それまでは皇帝の私領が「国」と呼ばれていた。

 「国」の旧字は「國」である。口の中に「或」という字がある。「或」は土偏をつけると「域」という字になる。國は城壁の中の範囲という意味で、城郭都市のことを指した。

 国は独立した存在だったが、皇帝が誕生してそれが変わる。皇帝制度の下では、国は「県」となった。県は本来、「縣」である。縣の下に心をつけると「懸」となる。鉄棒の「懸垂」はぶらさがることだが、県という漢字には「ぶらさがる、つらなる」という意味があり、皇帝の下に「ぶらさがる都市」が「県」であった。

 皇帝はいくつかの「県」をまとめる「郡」を置いた。これは「軍」であり軍管区のことである。皇帝が派遣した太守(軍管区長官)が軍事力でその地域を押さえた。秦の始皇帝は天下に36の郡を置いた。この「郡」が日本語の「くに」の語源となっている。

 

◆聖徳太子以前の「創史」

 秦の始皇帝が即位したのは、紀元前231年。その頃、日本はどうなっていたのか、いまだによく分かっていない。邪馬台国の卑弥呼が、魏の皇帝に使いを送ったのが紀元後239年。始皇帝即位から500年ほど後のことだ。

 最初の天皇である神武天皇の即位は紀元前660年、76年の在位とある。6代孝安天皇は紀元前392年から291年まで102年在位している。102年というのは、疑問が残る。16代仁徳天皇も87年在位、110歳まで生きた。この時代の歴史はまだまだ分からないことが多い。

 『皇帝たちの中国』では、有名な「日出ずる国の天子から、日没する国の天子へ」という国書を送り隋の煬帝を激怒させたのは、聖徳太子ではないとする。『隋書』の「倭人伝」には、国書を送ったのは「阿毎・多利思比狐・阿輩鶏彌」(天足彦大王)という男王で、鶏彌(きみ)という妻と利歌彌多弗利という息子がいたとある。

 聖徳太子が国書を送ったというのは、『日本書紀』の記述であるが、「日本書紀が使った史料は唐の時代になってからでっちあげた信用のならない史料ではないか」と書かれている。

 日本の歴史書はどこをひっくり返しても、国書を送った608年の天皇は女帝・推古天皇だ。聖徳太子以前の歴史は、書き換えられたという生易しいものではなく、「創史」に近いのではないだろうか。

 

◆人類は綾部に降り立った

 僕は綾部には二度、「都」があった時があると考えている。

 一度目は最初に人類が地球に降り立った時、二度目はその人類が日本を発し、ギリシア・ローマを経て、ブーメランのように日本に戻ってきた時。日本の古代神話とギリシア神話の共通点が多いのは、それが同じ出来事だからだ。

 ブーメランは還ってきて、二度目の都を滅ぼし、その歴史を封印した。

 聖徳太子や蘇我氏と争って敗れた物部氏の祖先といわれる饒速日命(ニギハヤヒノミコト)の降臨伝承が、『先代旧事本紀』という書物に描かれている。

 ー 日神、月神、星神、その他大勢の神々を従えて、五部および二十五部の天津物部の兵を従え、呪能のある十種の天津瑞宝を携え、天磐船に乗って威風堂々と河内の「イカルガノ峰」に天下った ー。

 この『先代旧事本紀』という書物は、長い間『日本書紀』と並んで日本最古の歴史書として重要視されてきたが、近世になって、作成年代は平安時代ではないかとされ、信憑性が疑われている。この際、「河内」という地名も後に書き換えられたものだとしよう。

 綾部に住む者として、まず、信じることから始めたい。(了)


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スサノオノミコト

2024年12月26日 | 歴史の探求

26日㈭今朝8時前に事務所を出て京都へ。10時から定例の監査委員会議に出席。

 終了後、綾部に戻って、事務所近くの挨拶回りに。その後は来客2件。夕方は歯医者へ。事務所に帰るとさらに来客あり。

 

 息子さんのおられる姫路市へ転居された綾部商工会議所の元専務理事の梅原陽介さんが来年の干支にちなんで、「絵馬」(絵蛇)を送って下さった。

 「悪縁を切り、利を招く」ようにとキャンプ用のカットプレートに描いてある。地元の八代大歳神社の奉納絵馬も描いておられるそうだ。

 八代大歳神社の御祭神は大年神と大山咋神で、大年神はスサノオノミコトの子どもにあたる穀物の神様だとのこと。

 

 また最近、「縄文の世界を旅した初代スサノオ 九鬼文書と古代出雲王朝でわかる ハツクニシラス【裏/表】の仕組み」(表博耀著、ヒカルランド、2024年)という本を読んだ。

 今年10月に綾部藩主の末裔である熊野本宮大社の九鬼家隆宮司と会った際に「九鬼(くかみ)文書」の話になり、「九鬼文書」に興味が湧いて調べてみようと思ったことがきっかけだった。関係しそうな本を探してみたが、上記のものが一番読みやすそうだった。

参考:2024年10月19日付blog「田邊家中之会~九鬼家隆様を囲む集い~」

 

 表博耀さん11年前二之湯真士元府議が連れて来てくれて、綾部で出会ったこともある。

参考:2013年10月30日付blog「神楽と酒蔵」

 古典神道の神話では「世界の始まり」について、おおよそ次のように記されているそうだ。

創造神:宇志採羅根真(ウシトラコンジン)大神の命によって、アマテラス率いる一族は朝鮮半島に渡り、インドを経てパミール高原あたりを目指し、ツクヨミはユーラシア大陸に渡り、黒人根国(中央アジア)で栄えて月氏(げっし)族となり、スサノオは現在のポリネシアから北米大陸にかえての広い太平洋地域に天下ると共にユーラシア大陸をまたにかけて活躍した。

今から1万5000~6000年前の縄文人たちが当時の人類の霊的指導者、すなわち長老民族であり、その古代ヤマトの倭人たちが自然信仰に即った世界最古の調和文明を築いていた。その最古の地球文明を「初国(ハツクニ)」というのです。

初国の倭人たちは、海を移動する海洋民族でもあり、スサノオはその長でした。

 

 本の内容の一部は下記の通りです。関心があればご覧ください。

◎「表」の歴史とは別の「裏」の歴史を記している古史古伝とスサノオ

◎イスラエル人が日本にやって来たのは彼らの祖先であるスサノオの故郷だったから

◎力による支配や現代文明の闇を光に還すのが初国・縄文神道の役目

◎文明は海の向こうからやって来たのではなく、元々すべて縄文日本にあった

◎役行者の祈りに応え、末法の世を生きる人々を救うために出現した蔵王権現

◎スサの魂よ、内なるスサノオのエネルギーを解き放ち、弥勒の世の礎となれ!

◎人類の知恵だけでは立ちゆかなくなった時のための大神呪「アチマリカム」


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全国足利氏ゆかりの会

2024年10月30日 | 歴史の探求

30日㈬15時から北部産業創造センターにて、全国足利氏ゆかりの会(会長:早川尚秀足利市長)主催講演会で、帝塚山大学文学部花田卓司准教授から「足利尊氏をめぐる人々~父貞氏・母清子・弟直義」の講演を聴いた。

 足利氏平安時代河内源氏の3代目、源八幡太郎義家三男・源義国下野国足利荘(栃木県足利市)を領地として、その次男の源義康以降の子孫は「足利」を称するようになった。

 足利氏は源氏の名門であるが、鎌倉時代には執権北条氏の一族との縁組を重ねて、鎌倉幕府の要職に就いていたようだ。尊氏の妻の登子北条一門の赤橋家の出身である。尊氏の父・貞氏も最初は北条一門の金沢氏の娘である釈迦堂殿を妻として長男・高義ができたが、その高義が21才で亡くなったために尊氏が足利氏を継ぐことになったそうだ。本来、足利氏の嫡男は「三郎」を名乗るそうだが、尊氏は「又太郎」であった。

 尊氏から五代前の足利義氏の時代に特に勢力を広げ、義氏の父・義兼の弟である足利義清(仁木氏、細川氏の祖)が「八田判官代」として文書に出てくることから、この頃から足利氏は丹波国八田郷(今の綾部市の八田地区)を領有していたとされる。

 尊氏の母である上杉清子の祖父藤原勧修寺重房宗尊親王に従って鎌倉に下向した功績上杉荘を賜り、「上杉」と名乗るようになった「上杉系図」には記されているそうだが、上杉荘という荘園は存在しないようで定かではない。八田郷に「上杉」の地名はあり、今でも綾部市上杉町として残っている。

 尊氏の父である足利貞氏の時代の文書には八田郷、漢部郷が足利氏の所領と記されており、足利氏の被官(家来)として「上杉三郎入道(上杉頼重、上杉清子の父)」の名が出てくることから、上杉氏は足利氏に仕え、おそらく八田郷の上杉に拠点を置いていたとのこと。

 尊氏の母・清子は自ら、綾部市の安国寺(光福寺)を「産まれ育ったところ」と書いているため、清子の出生地が綾部市であることは明らかなようだ。

 尊氏も綾部で出生したと伝えられており、清子が安産を祈願したとされる地蔵菩薩像や産湯を使ったとされる井戸も残っているが、そのハッキリした証拠はない。

 また、清子と尊氏の文字はよく似ており、尊氏は清子によって直接養育されて親密な親子関係だったのではないかと推測されるとのこと。

 これまで足利氏の歴史をここまで深く学んだことはなかったので、良い機会となった。

 

 17時からは、あやテラスにて懇親会。オープニング綾部太鼓陳曼麗さんの二胡演奏で始まった。

 懇親会の冒頭には全国足利氏ゆかりの会会長である早川尚秀足利市長が挨拶された。お父さんが元足利市長で、栃木県議を五期務めて、3年前に現職を破って市長になられたそうだ。

 懇親会では徳島県阿南市神奈川県鎌倉市の副市長さんと席が隣りになった。鎌倉市の副市長さん菅義偉元総理の第一秘書を務めておられたそうだ。

 徳島県阿南市室町幕府11代将軍である足利義澄の次男である足利義維(後に義冬と改名)「阿波(平島)公方」として移った土地であり、義維の息子義栄は14代将軍となった。

 足利氏はさすが源氏の名門であって、全国にゆかりの地が数多くあり、来年は栃木県さくら市で総会が開催されるそうだ。


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田邊家中之会~九鬼家隆様を囲む集い~

2024年10月19日 | 歴史の探求

19日㈯「田邊家中之会 懇親会in綾部」は濃密な会だった。

 田邊(舞鶴)江戸時代には徳川譜代の牧野家が藩主として治めており、当時の家臣の子孫の方々を中心に、今でも田邊家中之会(水谷悦之会長)が組織されている。

 毎年、舞鶴市に大名家ゆかりの方を招いて講演会を開催しておられ、今年は綾部藩主九鬼氏の末裔である熊野本宮大社の九鬼家隆宮司が招かれ、わざわざ懇親会は九鬼家ゆかりの綾部で開催していただいた。

 水谷会長がまず平伏され、厳かな開会の辞から懇親会が始まった。

 田邊藩3万5000石最初は京極家が治めていた但馬国豊岡に国替えとなり、代わりに河内・摂津に領地を持っていた京都所司代の牧野親成公が藩主を引き継ぎ、幕末まで続いた。牧野家は徳川家康に早くから仕えた譜代大名であり、幕府での勢力は強かったものと拝察される。

 綾部藩主であった九鬼家古くは熊野三社の別当を務め、戦国時代には織田信長、豊臣秀吉に仕える「九鬼水軍」として活躍した。三重県の鳥羽藩主だった九鬼守隆五男久隆に家督を譲ろうとしたが、家臣団は三男隆季を推し、お家騒動の末、久隆は本家として摂津三田藩3万6000石に、隆季は丹波綾部藩2万石にそれぞれ封ぜられた。

 私の先祖もその時に九鬼隆季公に従って鳥羽から綾部にやって来たと伝えられている。「四方」という姓もその時に名乗ることを許され、「鍛治屋」という屋号や家紋をいただいたという。

 九鬼家には「九鬼文書」という文書が伝わっている。記号のような文字で書かれていて、意味を判読することは難しいそうだが、「九鬼家の遠祖で天児屋根命(アルアメノコヤネノミコト)の時代に記録された神代文字の原文を、藤原不比等が漢字に書き改めたもので、九鬼氏が保管したとされる」とウィキペディアには書かれている。

 大本では艮(うしとら)の金神が主神とされているが、九鬼文書でもその神を宇志採羅根真(うしとらこんじん)大神としている。

 「艮(丑寅)」は「鬼門」の方角で、大本では節分大祭が最大の祭礼であり、「鬼は内、福も内」と豆まきをする。綾部から見て「鬼門」の方角に舞鶴があり、冠島・沓島は大本の開祖ゆかりの重要な意味のある島でもある。

 「九鬼文書」に関しては、これからもっと研究してみたいと思っている。

 大本開祖の出口家と私の家は親戚同様に助け合う関係にあった。九鬼の殿様の屋敷は今の長生殿の場所にあって、私の先祖や出口家は今のみろく殿のあたりに住んでいたので、お城の裏門からすぐ出たあたりにいたことになる。

 出口なお開祖は九鬼家にあった、ある神社を篤く信仰し、その周りの掃除をさせてほしいと殿様に申し出ておられたと九鬼家隆宮司がおっしゃっていた。

 開祖のお筆先では「九鬼大隅守(九鬼の殿様は代々大隅守を名乗った)との因縁が判り来たら、どえらいことになるぞよ」という予言があるそうで、綾部での大本の発祥も九鬼家が綾部に転封されたのも偶然ではなく、必然なのだろうと感じた。

 合気道の完成もそれに関係あるようなことを九鬼宮司はおっしゃっていた。合気道創始者の植芝盛平翁は熊野本宮大社のある和歌山県田辺市の出身であり、いろんなことが重なり過ぎて、よく分からくなってしまった。

 九鬼家隆宮司には歴史の扉を開けるために、これから頻繁に綾部にお越しいただきたいものだ。良い機会を作っていただいた田邊家中之会の水谷会長、事務局の門中雄一郎さん、ありがとうございました。


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お盆に入る

2024年08月13日 | 歴史の探求

13日㈫お盆休み事務所も15日まで休みにしているが、昼前から事務所で書類整理やブログ書きなど。役所や病院は休みではないので、事務所にいると電話もかかってくる。

 夕方綾部市立病院へ。

 18時家に帰り、夕食後妻と涼子とお墓参りに行った。一人っ子ならこんな感じなのかな?と言いながら…。

 大学生や専門学校生を下宿させるとなると3人、4人…と子どもを育てるのは経済的に大変だと身に沁みて感じている。少子化対策をするのなら、多子世帯への支援が欠かせないと思う。せめて、保育料や学費は第3子以降は無償にして、通学定期の費用なども第4子以降は無償化したら良いと思う。

 お墓で伸びすぎていた植栽は、道に出て迷惑をかけないようにある程度カットした。

 


 

 最近、小説「暗殺」(柴田哲孝著、幻冬舎、2024年6月)を読んだ。6月20日に第1刷が発行されて、7月26日には第7刷ハイペースで売れているようだ。

 この小説では、2年前の安倍晋三元総理の暗殺事件がフィクションで描かれているが、実際にこうだったのではないかと思うくらい、生々しい。

 逮捕されている山上徹也容疑者単独で、手製の散弾銃で、あれだけの群衆がいる中で、安倍元総理一人だけに致命傷を負わせるというのはマジックに近い。単独犯行ではないのは直感で分かる。誰かが別の場所から狙撃したのだろうと当初から思っていた。

 

 この小説には安倍元総理を暗殺したヒットマンが朝日新聞阪神支局の襲撃にも絡んでいると仄めかしてあり、そんなところにも繋がるのか?と驚いた。「旧統一教会 大江益夫・元広報部長懺悔録」(樋田毅著、光文社、2024年8月)を現在、予約注文しているが、ここにも「赤報隊事件」として朝日新聞阪神支局の襲撃に関する告白があるのではないかと思っている。

 

 小説「暗殺」に登場する元総理は「安倍」ではなく、姓を「田布施」としてあるが、「田布施」というのは明治維新の秘密に関わる地名であり、何かもっと他のことを言いたいようにも思う。

 

 日航機123便の墜落事故のことも最近、ネットで様々な情報が出ているが、これらを全て「陰謀論」と決めつける訳にもいかない、何か影に隠れている部分があるように感じている。

 

 ウクライナとロシアの戦争が長期化し、西側諸国が支援しているはずのウクライナが苦しくなっている。ハマスの最高指導者がイランで暗殺され、アラブのイスラム教国とイスラエル・アメリカが戦争になりそうだ。

 4年前から続くアメリカ大統領選の混迷を見ていると、世界を支配してきたアメリカの国力が減退し、世界の岩盤に亀裂が入りつつあるように感じている。

 何か、ありそうな。空気が止まったように感じる妙な雰囲気だ。


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胎内記憶

2024年08月03日 | 歴史の探求

日㈯13時から奥上林在住栗山和久くん中心となって企画された「美しい意識の新しい惑星の創造」に参加するために中丹文化会館へ。

 チケットはS席8800円とかA席6600円という値段なので、正直、人が集まっているのだろうか?と心配してあげていたが、要らぬ心配だったようだ。

 行ってみると駐車場はほぼ埋まっていて、会場内には500人ほどはおられただろうか。思ったよりもたくさんの方が、綾部からというよりも、関西一円、さらには全国各地から来ておられたようだった。会場でスーツ姿は私一人、知っている人は数人しかいなかった。

 出口春日さん大潔斎神事の時の歌屋久島から来られたクリスタルボウル奏者、京都府内のディジュリデュー奏者、宮古島から来られた舞踊家と一緒に歌われた。

 春日さんは会話すると普通の人なのだが、歌われると急に神様が降りたようになられるので不思議だ。

 

 続いて、京丹波町の旧瑞穂町出身SHOGENくん講演。地元ということもあってか、生い立ちからの詳しい話を聴かせてもらった。須知高校出身だそうだ。

 昨日、舞鶴市で学校関係の集まりがあったそうだが、そこに綾部市の教育関係者も行っておられたようで、「今度、綾部中学校でもワークショップさせてもらえるかもしれません」と嬉しそうに話され、会場から拍手が上がっていた。

 ティンガティンガというアフリカ・タンザニアペンキ画を学ぶために滞在したブンジュ村の村長は縄文時代の日本人と意識の中で会話ができるようで、その日本人から「今日、誰のために生きる?」という言葉を教わったという。これは今でも日本人が使う「今日は(こんにちは)」という挨拶につながっているのかもしれない。

 他人を幸せにするには、まずは自分の器を幸せで一杯にして、こぼれた余力で他人が幸せにできるのだというお話だった。

 今回の企画の実行委員長である栗山和久くん要所要所に出てきて、場を和ませたり、次への進行をしたりとうまくやっていた。

 SHOGENくんの進行で、医学博士の池川明先生、ジュエリーアドバイザーの岡本敬人さんとの鼎談が行われた。この進行役をSHOGENくんにやらせてしまうところが栗山くんの凄いところだろう。

 医学博士の池川明先生は「胎内記憶」の分野の第一人者で、今回のお話では一番興味深く聴かせてもらった。

 「意識」というのは生まれるずっと前、受精するよりも前からあって、赤ちゃんは母親を選んで生まれてくるし、お腹の中でも全部会話を理解している。中にはその記憶を持ったまま、話せる年齢になる子がいて、その領域のことが少しずつ明らかになっているというのだ。

 池川明先生「池川明 胎内記憶」でネット検索すると、致知出版社の月刊致知2013年4月号に掲載された「人はなぜ生まれてくるのか——胎内記憶研究の第一人者・池川明氏が語る生きる意味」と題した対談がヒットする。

 この対談の相手筑波大学教授などを務められた村上和雄先生で、村上先生は研究で「サムシンググレート(偉大なる何者か)」を追い求められ、2009年11月29日に中丹文化会館で開催した綾部政経懇話会30周年において、「笑って、祈って、健康長寿」と題した記念講演をしていただいたこともある。

2009年11月29日付blog「綾部政経懇話会30周年」

 私も月刊致知を購読していた時期があるので、もしかしたら、この村上和雄先生と池川明先生の対談を読んでいたかもしれない。「胎内記憶」というのは、そんなふうに知らず知らず脳の中に封印されていて、これが何かの弾みで復元されてくる、そんなものなのかもしれない。

 

 岡本敬人さん今回のスペシャルナビゲーターで、どうやら栗山くんとSHOGENくんを繋げたのがこの方ではないかと思う。岡本さんギンザベルエトワールという宝石商を営み、宝石のアドバイザーをしておられるそうだ。

 また、若い頃にはロックバンド「La’cryma Christi(ラクリマ クリスティ)」のボーカルとして活躍されていたそうで、この「ラクリマ クリスティ」というバンド名も薄っすら記憶の中にあった。

 当時、MALICE MIZER(マリス ミゼル)、FANATIC◇CRISIS(ファナティック クライシス)、SHAZNA(シャズナ)と共に「ビジュアル四天王」と呼ばれていたようで、私が大学生の頃にそういえばビジュアル系バンドが流行っていた。

 この記憶も「胎内記憶」のようなものかもしれないと思った。

 岡本さんアカペラで当時のヒット曲を歌われたが、歌い方や声のトーンはさすがにプロの歌手だと思った。

 今回のイベントを通して、改めて「綾部は媒介地で、人と人を繋ぐところ」という意を強くした。一人だけスーツ姿の私の役割は、この人たちの波動を調整して俗世に伝える「変電所」なのかもしれない。

 後藤光くんも来ていたので「結局、あやべMBTミーティングが一番大事なんかもしれんな」と話をした。

 

 後藤光くんに運転してもらって、井倉町自治会(上柿耕作会長)主催の「井倉町 夏まつり」に顔を出した。

 井倉町商工繁栄会(福多弘祐会長)には日東精工㈱(荒賀誠社長)も所属しておられるので、日東精工の社員の方々によって毎年、生ビールが提供され、大勢の住民が参加されている。

 「げんたろう新聞」を井倉町で配っていただいている榊原五十六さん自治会副会長を務めておられて、今日もお祭りに誘っていただいた。


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講演会「美しい意識の新しい惑星の創造」

2024年07月30日 | 歴史の探求

30日㈫午前午後来客。

 午後戸村聡里くん京都府中丹広域振興局企画・連携推進課福井あゆみ課長農商工連携・推進課志多野洋子参事引き合わせて、TRIP HUT(トリップハット)、山家駅からあやべ温泉をつなぐ地域づくりや観光振興の構想について説明してもらった。

 今後、京都府ともコラボしてもらえることがあればと思っている。

 

 先月の「あやべMBTミーティング」に参加してくれた栗山和久くん今度の日曜日、8月3日綾部市里町京都府中丹文化会館での講演会「美しい意識の新しい惑星の創造」を企画しており、私も先日、チケットを購入した。

 どんな講演会になるのか、全く見当もつかないのだが、そういう訳の分からなさが結構好きだ。自分の頭で理解できない、自分の器を壊すようなことが起こる時、自分の器が新しく生まれ変わる。

 メインゲストであるペンキ画家SHOGENくん今年の3月に、たまたま「今日誰のために生きる?」を読んで知っていた。隣りの京丹波町出身だと知っていたが、栗山くんから彼のお母さんは綾部市出身だと聞いた。

 そのSHOGENくんが昨年11月に、綾部の奥上林に住む栗山くんを突然訪ねて来た時、栗山くんは「綾部」のことを3時間くらい、ぶわーっと語ったという。それを聴いて「綾部のためにボクが協力出来る事あれば、力にならせて下さい!」となり、その時点で「2024年のスケジュールは8月3日と4日しか空いてないです」ということで、8月3日の綾部での講演会が決まったそうだ。

 他の講師の方々栗山くんの縁で来られることになり、どういう話になるのか全く分からないのだが、綾部が重要な交錯点になる予感がしてワクワクしている。

 

 今日はさらに栗山くん「玉鉾神社_世界再生会議 Part 2」という昨日公開されたYouTube番組を紹介してくれた。そこでSHOGENくんのことや綾部のことが語られている。(動画5分~)

 これは観光庁エンタメ観光マイスターなどをしておられる博耀さんのチャンネルで、さんとは、二之湯真士府議(当時)の紹介2013年10月に綾部でお出会いしたことがある。

参考:2013年10月30日付blog「神楽と酒蔵」

 全ての存在はつながっていて、その重要な媒介地として「綾部」の役割があるのだろうと思う。ぜひ、8月3日、中丹文化会館でお出会いしましょう!


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無になる。とらわれない。

2024年05月20日 | 歴史の探求

20日㈪朝7時半から綾部公民館の挨拶運動のため、綾部大橋西詰へ。

 つがいのカラスが仲良く並んで、ずっと由良川を眺めていた。

 11時から大本長生殿白梅殿において、綾部大本協賛会(川端勇夫会長)総会に出席した。

 来賓挨拶では「大本弾圧の負の歴史を綾部大本協賛会はプラスに替えてきたと思う。今、NHK朝ドラで放送されている『寅に翼』の時代が大本弾圧の時代と重なるが、あれだけすでに法制度や裁判制度ができていた近代国家で、近代以降の世界で例のないレベルの国家による宗教弾圧が実施された。綾部市民は直接この弾圧に関与したわけではないが、二度とああいう時代に戻してはならないという気持ちを胸に刻み、人権侵害に対して世界一敏感でなければならないと思っている」と述べた。

 あわせて、弾圧の痕跡が残る熊野新宮神社にある出口王仁三郎聖師の歌碑のことも紹介した。

ご参考 2021年5月9日blog「大本開祖の白藤」

 

 夕方には亀岡から張本昌義くんが来てくれて、福祉政策のことに関して意見交換。

 大義の会(四方八洲男会長)例会に出席した。20名ほどの方が参加された。

 今日のゲスト逗子市長福知山公立大学副学長富野暉一郎先生。10数年前からの知り合いではあるが、政治家時代のお話を聴かせていただいたのは初めてのことだった。

 最初は天文学者を目指す大学院生、中小企業の経営者、米軍住宅反対運動家、逗子市長、大学教授を経て、現在は地域公共政策士を養成する地域公共人材開発機構の理事を務めておられるそうだ。

 大学教授の鎧を脱いだ人間「富野暉一郎」としての率直なお話で、大変興味を持って聴けた。話の随所に、昔の活動家の雰囲気が出てくるのも面白かった。

 「正しいからといって物は売れない」「学者は正しいと思い込んで、それを主張する」「売り込みをやめて、相手の話を真摯に聴くことによって自社製品を買ってもらえた」「後戻りはしない。常に新しいことをする」「無になる。とらわれないことが重要」

 良いお話だった。

 次回うまく日程の調整ができれば、富野先生が「この人物は凄い!」と感じている人を招いて対談していただくことになった。

 何人かの若手の皆さんと二次会に行き、あれこれ話をした。


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真言宗檀信徒協議会、農工連携、山家歴史の会

2024年04月26日 | 歴史の探求

26日㈮10時正暦寺の筆頭総代として、玉川弘信住職と共に星原町の栄宝寺(木原法道住職)へ。栄宝寺は集落を見下ろす高台にあり、美しい新緑に包まれた入り口には綾部市銘木100選にも選ばれているラカンマキの巨木が立っている。

 高野山真言宗の令和6年度綾部地区檀信徒協議会(加藤節郎会長)の総会に出席した。真言宗の寺院は綾部市内に15ヶ寺ある。

 木原住職による挨拶や寺歴紹介、般若心経等の読経、そして中村孝行副会長(天王寺筆頭総代)の開会挨拶総会が始まった。

 丹波宗務支所長の来賓挨拶の後、議事は異議なく承認された。法話は志賀郷町の興隆寺の松本満裕住職が学生時代からやっておられる「弓道」について、お話をされた。

 実際に弓や矢を見せていただきながら、ほとんど知らないことばかりで興味深く聴かせていただいた。

 最後栄宝寺岡田邦久筆頭総代から寺院護持などのお話があり、蔵の移転修繕のことや境内のお地蔵さん、蚕の慰霊碑のことなどが説明された。

 

 午後東八田地区施福寺へ。㈱足立製作所の足立弘社長渡辺雄亮取締役、同社と連携している村松健くん農家の方々CKD㈱(本社:小牧市)京都営業所の方々からビニールハウスの給水や換気の自動化のことについて説明を受けられ、それに種清喜之市議と共に同席した。

 CKD㈱空気圧制御機器などを製造する大手企業で、足立製作所㈱とは以前からお付き合いがあるそうだ。CKD㈱が農業に関する機器に進出されたのはここ数年のようだが、ゴルフ場等の自動水やり機などでの実績があり、機能を絞ることで他社よりずいぶん安くシステムが提供できるというお話だった。

 まさに、これがこれから必要となる「農工連携」なのだろう。足立製作所㈱が施福寺で村松くんと連携してくれたことによって、綾部の農家と様々な工業メーカーをつなげていただけることは嬉しいことだ。

 

 ふしみやにて、山家歴史の会(有道大作会長)の総会に出席した。以前から山家地区の様々な歴史について研究され、多くの出版物にまとめておられる。私は山家住民ではないが、昨年から会員に入れていただいた。

 戦国末期から山家を領有し、江戸時代に山家藩主を務めた谷氏は、元は美濃国(岐阜県)の豪族であり、斎藤道三に仕えた後、織田信長、羽柴秀吉の家臣として、その天下統一に貢献した。

 室町幕府の管領家で、舞鶴城(田辺城)を築いた細川家と親しく、細川幽斎の歌道の弟子でもあった山家藩の初代藩主・谷衛友は文武両道の武将だと伝えられている。

 衛友は1628年、65才で病没した。長男・衛成、三男・衛勝はすでに没しており、次男・吉長も結城家に仕える三千石の旗本になっていたため、跡継ぎには六男の衛冬を望み、細川忠興・忠利親子が幕府にそれを働きかけた。しかし、幕府はこれを許さず、四男・衛政が二代藩主を継いだ。五男・衛長は細川家の家臣となった。

 衛政は山家藩一万六千石のうち、一万石のみを相続し、長男・衛成の子、衛之に二千五百石を与えて上杉谷家、三男・衛勝の子、衛清に二千石で十倉谷家、六男・衛冬にも千五百石を与えて梅迫谷家として、それぞれ旗本として分家させた。

 上杉谷家は三代で断絶し、その領地は他家に移されたが、当初の谷家一万六千石は今の山家地区、口上林地区(十倉)、中上林地区(五泉)、奥上林地区(小仲、光野、老富)、東八田地区西八田地区吉美地区志賀郷地区豊里地区(位田の一部)など、綾部市全域に広がっている。

 現在の綾部市は江戸時代にはおおよそ、綾部藩の九鬼氏、山家藩および分家旗本の谷氏、旗本の藤懸氏によって治められていた。

 その中でも、この谷氏については、もっと綾部市民の認識が高まっても良いとずっと考えている。それが山家城を国指定史跡にすることにもつながるのではないだろうか。


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綾部八幡宮と山家城址

2024年04月07日 | 歴史の探求

日㈰10時から綾部八幡宮(大志万宣也宮司)春季大祭へ。よく晴れて、良いお祭り日和だった。

 綾部八幡宮平安時代平清盛の長男の重盛が創建したと伝わっている。重盛は現在は大本の御神体山となっている本宮山に熊野本宮、熊野新宮、熊野那智の三社を建立したとも伝わっている。

 綾部八幡宮では毎年、春季大祭に合わせて「お田植式」という昔の稲づくりの様子を寸劇にしたものが披露される。

 次の予定のために祭礼のみ出席し、「お田植式」は失礼して帰りかけたら、神社の役員の方に呼び止められた。「息子のところに孫ができて、名前を送ってきたんやけど、それが《四方源太郎》で、ワシ、ひっくり返ったわ~」とおっしゃっていた。知る限り、四人目の《四方源太郎》くん。ずいぶん若い跡継ぎができて嬉しい。

 

 11時過ぎに、山家城址で行われていた山家さくら祭へ行った。桜が満開大勢の人で賑わっていた。

 来賓紹介の後、餅まきをして、地元の産物を買い物した。最近流行りの「御城印」(黒谷和紙製、700円)も購入した。

 山家城戦国時代には豪族和久氏の居城であり、和久氏現在の場所からさらに山の上に上がった場所甲ヶ峯城(旧山家城)を築いて周辺を治めていた。

※2009年4月19日付blog「山家の城、釜輪の神事」

 

 現在の山家城戦国時代末期豊臣氏から当地を与えられた谷氏が築いたもので、江戸時代には山家藩1万石の拠点となった城である。綾部市では唯一の石垣を残る城でもあり、国指定史跡の登録を目指した活動に綾部市と地元で取り組んでおられる。

 谷氏は関ケ原の戦いで西軍に与し、田辺城(舞鶴城)の細川氏を攻めたが、「谷の空鉄砲」という逸話が残されているように東軍に通じていたのか、関ケ原後も山家1万石を安堵され、幕末まで続いた。

 綾部市内の十倉(口上林)、梅迫(東八田)、上杉(東八田)に分家があり、江戸時代には本家・分家を合わせると綾部の全域に多くの所領を有していた。現在の地でいうと、山家、口上林(十倉)、吉美、西八田、東八田、志賀郷、豊里(位田)が谷氏の領地である。


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節分

2024年02月03日 | 歴史の探求

 日㈯節分。10時から立正佼成会福知山教会(中野惠津子教会長)「節分会」参拝した。立正佼成会の「節分会」に参加するのは初めてだった。

 立正佼成会福知山教会を最初に訪ねたのは、初めて選挙に出た17年前。谷垣禎一事務所の村上影次秘書(当時)に案内していただいて、当時の江上教会長に挨拶に伺った。その時に「決して、初心を忘れず、活動していかなければダメですよ」とおっしゃられた言葉は今でも強く心に残っている。

 しかし、その選挙には落選してしまい、4年後の雪辱を期するために谷垣事務所の秘書になり、迎えた2009年9月の衆議院議員選挙、自民党は大敗して政権を失った。

 自分の次の府議選のことを考えると、民主党政権下で、民主系現職を何の実績もない新人が破るのは相当難しくなると暗澹たる思いになった。たった15年前のことだ。今の「裏金」問題を見ていると、喉元過ぎるのは早すぎるだろうと感じる。

 この時、ほとんどの支援団体にそっぽを向かれた中で、立正佼成会と遺族会の方々だけは綾部の事務所での電話作戦に来ていただいた。その恩義は決して忘れてはいけないと思っている。

 お経を上げ、教会長のお話があり、その後、コントが行われた。鬼とも仲良くしようというお話だった。鬼は「反主流派」の象徴であり、決して「悪」なのではない。

 そして、我々来賓も参加する「豆まき」。豆(落花生)だけでなく、飴やお菓子などを信者の方々に投げた。

 最後は「福引き」。150人ほどの人に全員当たる「福引き」だったので、時間が相当かかったが、皆さんいろいろなものが当たって喜んでおられた。

 

 午後事務所書類整理など。

 

 19時半から大本の節分大祭に参拝するため、長生殿へ。人型が投げ込まれる和知川(由良川)の綾部大橋の準備も整っていた。

 みろく殿の前にも火が焚かれ、大勢の方がおられた。露店商や大本のうどん店、綾部の商店のお土産店も出されていた。

 大本では「五六七」と書いて「みろく」と読む。「コロナ」も数字にすると「五六七」になる。

 私は「コロナ」を単に悪く思うのではなく、大いなるものからの「メッセージ」だと考えている。自己中心的に考えて「忌む」のではなく、他者意識を持って自分の頭で考えることのきっかけなのだと思っている。

 令和5年5月にコロナは5類となった。令和6年は大きな地震や政界の大きな不祥事から始まった。令和5、6、7年が過ぎる頃には次の時代に向けて見えてくるものがあるのではないかと信じる。

 祝詞にも読まれていたように「綾部は末で都といたすぞよ」と。

 22時前に大潔斎神事が終わる来賓は退出し、亀甲家での直会へ。大本の小林龍雄本部長の挨拶、山崎善也市長の挨拶の後、乾杯の発声をさせていただいた。


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綾部の神秘をご案内する

2024年01月30日 | 歴史の探求

 30日㈫午前中「げんたろう新聞」を配りに、グランブルー西町団地などへ。

 昼前綾部駅に二人のお客さんをお迎え「ひと粒」で昼ご飯を食べながら、綾部のことや私のこれまでの経験などを話し、先方の話も伺った。

 そのお二人は、昨秋、神戸での会合で知り合った愛知県議会議員(春日井市選挙区)の末永けい君、地域政党「兵庫むすびの会」本部長の鵜丹谷清和さんで、綾部の神秘性に興味を持って、今日は綾部に足を運んで下さった。

 そういう方が来られるとお話したら興味を持たれた綾部在住の藤元雅司さんに車を出していただいて、半日、4人で綾部を回った。

 最初下八田町上谷厄神神社へ。

 ここに参拝するのは私もまだ二度目。以前は2013年4月13日に世界救世教いづのめ教団鎌倉教会の松田妙子教会長ら御一行と共に出口三平さんにご案内いただいた。

※2013年4月13日blog「綾部の責任」

 その際にお聞きした上谷厄神神社の説明は下記の通り。

 出口王仁三郎聖師が大本に入信し、最初に山家の鷹栖町や西原町で修行をしたが、神がかると大きな声を出し、暴れて床などを壊すので、次から次へと追い出された。

 この上谷の厄神神社にたどり着いて、祭られている武内宿禰(審神者の神)に神様を下ろしたら、良い神も悪い神もすべて出てきてしまった。

 それを浄めるために王仁三郎聖師の次の修行が始まっていく、という大本の最初に関わる重要な場所だそうだ。

 戦後、出口王仁三郎、すみ夫妻が久しぶりに上谷を訪問したのが、4月8日だったので、今でも4月8日には大本の信者さん達がお参りをされるそうだ。

 境内には出口王仁三郎聖師の歌碑が建立されていた。

 続いては、上杉町の上杉姓氏発祥の地の石碑へ案内した。

 綾部市上杉謙信で有名な上杉氏の発祥の地である。鎌倉時代に親王を鎌倉にお連れし、将軍に就かせた功績で上杉庄を賜った藤原勧修寺重房最初に「上杉」を名乗った。重房の孫が室町幕府を開いた足利尊氏の母である清子である。

 続いて、足利尊氏が生まれたとされる安国寺町景徳山安国寺へ。臨済宗東福寺派の名刹である。かやぶきの本堂がある。

 文化庁「森の寺」事業のことも説明。「森の寺」はコロナの間に生まれた事業だ。コロナだったからこそ、生まれたのかもしれない。

 

 高倉町高倉神社へ。平清盛を倒すために挙兵した高倉宮以仁王を祀る。

 以仁王は宇治川の戦いで平氏に敗れ、源頼政と共に奈良に逃げる途中に戦死したと教科書には書いてあるが、綾部に残る伝説では頼政の領地である丹波に逃げ、綾部市里町で矢傷が悪化して亡くなった後、高倉神社に祀られたと伝わっている。亀岡市には頼政塚という頼政の墓が残っている。

 渡辺氏、大槻氏、河北氏など、以仁王の十二人の従者は高倉神社を守るために神社から少し離れた綾部の各地に暮らし、今でもその子孫が神社のお祭りには集まって参拝されている。

 

 続いて、星原町の星宮神社へ。ここは多くを語るまい。

 そして、大本「梅松苑」へ。長生殿での参拝にご案内した。

 大本、合気道、世界連邦、君の名は。、グンゼなどのことを説明した。

 最後グンゼスクウェアでグンゼ創業者・波多野鶴吉のことを説明しようと思ったが、火曜日はあやべ特産館が休業日だと思い出し、喫茶「日々」で今日の振り返りの話をした。

 お二人には「まだまだ話がありますから、次は泊まりで来てください!」とお誘いしたら「ぜひ!」とおっしゃっていた。


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綾部は「龍の目」

2024年01月21日 | 歴史の探求

 20日㈯11時から部落解放同盟綾部地区協議会(岸本良平議長)荊冠旗びらき出席した。

 これまでは綾部会館で開催されてきたが、今年から「あやテラス」に会場が変わった。

 挨拶では昨年の府議選でご推薦いただいたことの御礼当選後、監査委員に就任し、現地監査に出かけて感じていることなどをお話した。

 来賓挨拶の後山家太鼓の演奏があった。山崎善也市長と種清喜之市議会議長による太鼓演奏もサプライズで行われた。

 午後事務所事務作業やブログ書きなど。一人で事務所にいると「灯りが点いていたから」と寄って下さる方もあった。

 

 21日㈰明け方、相当強い雨が降っていたが、9時前町の正暦寺(玉川弘信住職)行った。来週28日㈰の不動明王大祭の準備檀信徒の方々に集まっていただいて、冒頭、筆頭総代として挨拶した。

 来週10時から護摩焚き、お砂踏み、大根炊き無料接待、福引き、水行などがありますので、ぜひ正暦寺にご参拝ください。

 10時からは田野町愛宕山頂にある坂本神社(四方義規宮司)参拝ここは「火の神様」なので消防長、消防団長、綾部分団長などの消防関係者がお参りされている。

 私も火事や災害がないようお願いした。

 

 11時からは、あやテラスにて綾部市文化協会(鹿子木旦夫会長)新年互礼会出席し、会長挨拶、表彰式の後、来賓として挨拶させていただいた。

 昭和27年の正月世界救世教の岡田茂吉開祖が「日本の国は龍体をしている。中国地方が上あごで四国が下あご、瀬戸内海が口で九州は玉であり、龍が玉を飲もうとしている姿を表している。樺太が尾でソ連がそれを取ったが、今に放さなくてはならなくなる。腰は越の国というように新潟のあたりで、子宮は東京、へそが富士山で鼻は出雲にある」という内容の講話をされ、その中で「…そこで大本教の綾部というところは龍の目になるわけです。ですから、あれは非常に重大なところで、いまにあそこに経綸が始まりますが、神秘ですからまだ言うわけにはいきません」とおっしゃっている。

 岡田開祖の言われるように、綾部は神秘に満ちた非常に重大なところである私は信じている。

 綾部の先人達が昭和25年という食べる物や着る物に事欠いている終戦直後に「文化協会」を立ち上げた、その精神性は「神秘」に通ずるものであり、今の綾部のまちづくりの底流にもその精神が流れていると感じるとお話した。

 祝宴の前には詩歌吟詠景心流六映会の皆様による祝吟舞の披露。舞いは中学生と高校生の二人が艶やかに踊っておられた。

 久しぶりに大勢の人数での開催となり、祝宴ではテーブルを回って、会員の皆様にご挨拶した。写真は茶道裏千家淡交会両丹支部綾部分会の先生方と。

 会員の皆様の芸の披露もあった。

 14時過ぎに終了して、舞鶴に向かい、15時から舞鶴霊友会館での霊友会舞鶴集会所の新年交流会参加し、挨拶させていただいた。

 舞鶴霊友会館国道27号線の西舞鶴道路の工事により移転新築され、昨年暮れに竣工したので新しい会館に初めてお邪魔した。

 終了後事務所に戻り、ブログ書きなど。


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何鹿郡衙と綾中廃寺

2023年12月24日 | 歴史の探求

 24日㈰クリスマスイヴの日。さすがに誰からのプレゼントかはもう分かっている年頃だが、子ども達はいろいろなプレゼントをもらって楽しんでいた。

 午前中松本幸子市議と中筋地区の鳥ヶ坪、延町、岡町の挨拶回り。

 今日は他にも綾部地区を回った。井倉町、青野町、綾中町、味方町、紫水ヶ丘など。

 綾中町を回っていると「何鹿郡衙と綾中廃寺」という観光案内板があった。

 綾中町には奈良時代に何鹿郡衙(郡役所)が置かれ、綾中廃寺と言われている五重塔を持つ大きなお寺があったそうだ。参考:【ふるさと探訪】綾中廃寺(移住立国あやべHP)

 国鉄時代、舞鶴線拡張工事の際に「真如院」と書かれた自然石が発見され、綾中廃寺に関係があると言われている。今はアスパがあるあたりにお寺や郡役所が建てられていたのだろうか?

 綾中町は江戸時代から戦前までは「中村」と呼ばれていた。何鹿郡が合併して綾部市になった際、綾部、梅迫、小畑に3つの「中村」があったため、それぞれ「綾中町」「梅迫中町」「小畑中」と地名を変えた。

 戦国時代に綾部地区を支配した豪族梅原氏は江戸初期に綾部藩主として九鬼氏が来られた際に、川糸町の綾部高校由良川キャンパスのあたりにあった自らの屋敷を九鬼氏に譲り、自分たちは「中村」に移ったと伝わっており、それが今の綾中町のことである。

 綾部の地名を辿って「ブラタモリ」してみると面白いと思っている。

 夕方には散髪に行った。blogの写真を見ると髪の毛がボサボサだなと感じたので。

 ここのところ、昼は挨拶回り、夜は忘年会という日々だったが、今夜は予定がないので家でゆっくりします。


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日本人が知っておくべき この国根幹の重大な歴史

2023年12月08日 | 歴史の探求

 日㈭朝8時過ぎ事務所を出て、10時半から自民党府議団の文教部会出席。部会では意見書の取り扱いについて意見を述べた。

 12時半から議員団会議13時から府議会の代表質問出席した。

 17時前に終わったので、急いで綾部に戻り、18時半からITビルにて、綾部商工会議所(材木正己会頭)主催令和5年度商工優良従業員表彰式懇親会出席した。

 来賓や主催者が「お楽しみ抽選会」のくじを引く係をするが、当たった人、当たらなかった人、様々な展開があり、皆さんで盛り上がる。

 

 日㈮今朝8時過ぎ事務所を出て京都へ。

 11時から府道広野綾部線及び綾部環状道路改良促進協議会(平野正明会長)役員の皆さん、京丹波町側の片山誠治府議ら京都府建設交通部の林龍夫技監へ事業促進の要望活動を行った。

 本来は濱田禎部長に要望することになっていたが、京都府土地開発公社の汚職事件に絡んでの緊急会議が入ったそうで、技監および建設交通部幹部に要望することになった。

 先日の土木事務所長への要望に続き、今日は建設交通部に対して要望。綾部市が改定を進めている都市計画マスタープランの内容と綾部環状道路の整合性を説明し、まずは先行して進めていただく三俣綾部線、安場田野線の道路拡幅、歩道設置、バイパス化を進めていただくことと、野田町踏切から終点に向けての計画進捗を強く要望した。

 

 11時45分からは副委員長を務める新技術と社会づくりに関する特別委員会(森口亨委員長)正副委員長会出席した。

 12時からは昨日に引き続いて、自民党政調会の文教部会で意見書についての協議。

 ここ数日、何度話をしてもいっこうに決着しないため、「時間をかけて話し合うなら今議会での提出を諦めて今後じっくり話し合う、今議会で提出するなら内容はある程度で割り切って、まとめるべき人間がまとめていこうとしなければ、こんなものはまとまらない」と意見を述べた。

 12時半から議員団会議。13時から代表質問。終了後は綾部に戻った。


 以前購入していた「日本人が知っておくべき この国根幹の重大な歴史」(加治将一、出口汪著、ヒカルランド発行、2015年4月)を読み返している。

 この本を読み、今の国政を揺るがしている「裏金」問題を観ると、明治以降の日本のバランスをとってきた大きな力が働いて、岸信介系から吉田茂系に日本の支配を小転換しようとしているのかな感じる。

 薩長土肥の藩閥政治がこの現代にも続いているのかと信じられない気持ちであるが、綾部の歴史に関心を持って調べてきた身からすると「そうなのだろう」という気持ちもある。

 安倍派が混乱し、岸田政権が倒れると、次は安倍さんと関係が遠く、麻生さんが動かしやすい、鳩山一郎系ではないところから次の総理が出てくるのか?ただ、いったんは選挙に勝つために小泉進次郎や石破茂、財務大臣だけは鈴木俊一で押さえておく。そんな感じなのかなと考えている。


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