20日㈭、春分の日。午前中は事務所で午後の公開討論会に向けての原稿づくり。時折、来客があり、多くの方が決起集会の参加リストや選挙ハガキを持って来ていただいた。
午後は綾部青年会議所、あやべ市民新聞、FMいかる主催の「京都府議会議員選挙 公開討論会」に出席した。今回は「青空討論会」と銘打たれ、屋外で開催されるという初めての試みであった。会場に来る人だけでなく、通りすがりの人にも聞いてもらおうという青年会議所の皆さんのアイデアでこういう形をとっていただいた。
雨が降ったらどうなるのかな?と思っていたが、なんとか空も持ち、やってみると開放感があって素晴らしい雰囲気での討論会となった。会場に来ていただいていた方だけでも100名以上はおられたようだ。
また、最後のテーマはその時まで明かされないとか、コーディネーターからの問いかけにその場で答えるというアドリブを要求される討論会だったが、それも面白いなと思った。
討論会の詳細はあやべ市民新聞等でいずれ掲載されるので、詳細はそちらをご覧いただければと思うが、福知山公立大学の杉岡秀紀准教授のコーディネートにより「産業振興」「少子化対策」「子育て支援」「移住定住」「防災」などのテーマについて語り合った。
共産党の候補予定者の堀口さんが「京都府の道路整備率、河川整備率は低く、全国ワースト3だ」と得意げに何度も言われたので、あえて討論を盛り上げる意味も込めて「たしかに京都の基盤整備は遅れているが、それは共産党が支持した蜷川虎三知事の時代(昭和25年~53年)の基盤整備の遅れが原因であり、それが林田知事以降の知事のせいだと言われるのはおかしい。蜷川時代に何もしなかったから、いまだに山陰線複線化もできていない、高速道路もこれほど遅れてやっとできた」と反論した。
すると堀口さんは「蜷川知事の時代は、もう40年前のことですよ。いつまで言うんですか!」とおっしゃったので、さらに反論しようとしたが時間がないとのことで止められた。「討論会」としては、あそこからが面白かったのだが…。
ただ、青年会議所の皆さんの「民主主義を健全に維持するために投票率を上げたい」という思いがうまく体現できた意義深い取り組みだったと思う。
討論会で時間がないと打ち切られたので反論できなかった反論をすると「基盤整備には時間がかかる。40年前のこととおっしゃるが、高速道路の完成には構想から40年以上かかっているし、山陰線の複線化は40年以上かかってもまだできていない。あの暗黒の蜷川府政28年は全国的には高度経済成長の真っただ中で、国からのお金も潤沢な時期であった。当時、蜷川知事になびかず、谷垣専一代議士のおひざ元であった福知山市は(綾部市も含め)蜷川派の市町村が基盤整備をやらなかった時に公共下水道、駅の連続立体高架事業と駅周辺の区画整理事業、長田野工業団地の開発などをやり、結果的には北近畿で最もにぎわいのある都市になっている。その反省なしに道路整備率や河川整備率が低いと現府政を批判するのは何事か」ということ。
蜷川知事の後継者を倒して知事となった林田知事は遅れた基盤整備を取り戻すための苦労をされ、JR山陰線の複線電化にも着手された。
当時の鉄道の電化率は全国平均37.3%であったが、蜷川府政下で京都府は6.9%とずいぶん遅れていた。林田府政、荒巻府政へと継承され、昭和62年にはこれが28.4%に伸び、平成8年には80%となった。全国平均の55.8%を大きく引き離すような数字になっている。今は81.89%だ。
その後の山田府政も道路、河川、鉄道、水洗化等の基盤整備を熱心に進めたが、山田府政、西脇府政となると景気も後退し、思うように予算が組めない時代になっている。
それでも遅れた基盤整備を実現すべく、西脇知事や理事者に対して、私たちは激しい要求や様々な説明、議論をして、予算が本会議に上程されるまでに修正してもらうべきは修正してもらっている。それゆえ、本会議ではこの予算をしっかりと通して、基盤整備の促進や府民福祉の向上を図っていくという意味で、納得して2月府議会の第1号議案「一般会計予算案」に賛成したが、共産党は反対であった。対案も出さずに。
こういう討論をする時間がもっとあれば良かったなとは感じたが、様々なチャレンジのあった「青空討論会」で楽しかったです。良い機会をありがとうございました。杉岡准教授の進行ぶりが一番評価が高かったようにも思います。
蜷川時代が悪かったのは、基盤整備の遅れだけではない。旧ソ連などの共産主義国のような「密告、監視」の体制を築いて自らの政治基盤を安定させた7期28年であった。
「志高く山河清し~政治家・林田悠紀夫の歩んだ道」(四方洋著、両丹経済新聞社刊、1999年)には当時の様子を示すエピソードが書かれている。
「…林田(悠紀夫)は参議院議員である。綾部出身だから綾部の人たちは保革を問わず特別の思いがある。心から支援する人が多くいる。ときに隠れ支持者が表に出る。建設業者の一人が、林田の演説会に出て熱心にきいていた。よしっと拍手をしたかもしれない。つぎの朝、府庁の知人から電話がかかってきた。『あんた、きのうの夜は林田はんの演説会に出てたそうやな。あんまり熱心に応援したら指名から外されまっせ』。この人はイレブン(蜷川知事の最側近である稲田元出納長のこと)の影を感じたという。東欧の社会主義国と見まがうようなエピソードである…」
他にこういうことも書いてある。
「…(蜷川知事は)三期目に入ってからは共産党との関係はますます緊密となり、やがて『共産党を骨まで愛する』と公言するのだが、いっぽうでは天皇のことを『天子様』と呼び、皇室の人たちが京都にお見えになるとお迎えを欠かさないなど、臣・虎三の一面も公言してはばからなかった。学生運動が盛んなときは、京都府警の機動隊の増強に熱心で、学生たちのことを虫けら呼ばわりして平気であった。その矛盾を認めつつ、ぴったりと蜷川に身を寄せる共産党の魂胆は次第にゆるぎない基盤を築いていく…」
今さら過去の話をしても仕方ないとは思うが、京都府の「道路・河川の整備率」のことを今の西脇府政のせいにするのはお門違いであり、それを進めたいのなら、一般会計予算に賛成されるべきではないのか?と思う。
蜷川知事は「自らの選挙基盤の整備」には熱心であり、公務員人件費は大幅に増やされたが、府民の生活基盤整備には取り組まなかった。それは歴史の事実である。
もう一点、原発に関する「歴史的事実」を紹介するとすれば、蜷川府政は昭和25年から昭和53年まで続いたが、高浜原発はこの時代に計画、建設されており、1号機は昭和49年、2号機は昭和50年に稼働を始めている。大飯発電所の原発1、2号機は昭和53年に稼働を始めている。計画や建設がなされたのは蜷川時代であった。
また、蜷川知事は昭和23年に初代中小企業庁長官に就任しており、辞任した25年から京都府知事を務めている。中小企業庁は原発政策を推進する経済産業省の外局である。
過去のことは過去のこと、で済ませて良いのか、その反省なしに「流行」を追いかけるような政治では、これからの政治はあってはならないと思っている。甘い話には必ず裏がある。その「笑顔」の裏には、どんな顔があるのか?しっかり見極めなければならない。