12月31日㈫、今年も今日で最後。
漱石が来て 虚子が来て 大三十日
大晦日になると正岡子規のこの句を思い出す。夏目漱石、高浜虚子と正岡子規の親しく楽し気な交友を簡潔に表している。
朝、涼子と温二郎にこの句のことを話したら二人とも知らなかった。涼子は虚子のことを「きょこ?」と言っていた。
同時に思い出すのが、河東碧梧桐。
「俳句は伝統的な五七五調で詠まれるべき」という高浜虚子と自由律俳句を多く詠んだ河東碧梧桐は中学の同級生。
対照的な俳人であるが、共に子規に師事し、仲良く交流したことがよく知られている。
小源太は一昨日帰ってきて、昨日は昼間ほぼ寝ていて、夜は小学生時代のドッジボール仲間と飲みに行き、真夜中に帰ってきて今朝も寝ていた。
我が家は例年、
小源太が寝て 涼子が寝て 温二郎がゲームして 大三十日
だが、今年は、
小源太が寝て 涼子は勉強して 温二郎も勉強して 大三十日
になっている。温二郎も高校受験を控えている。
今年は50才になり、思い返せば相当に濃密な一年だった。漢字で表すと「闘」の一年だろうか。
自分の人生は「闘」だと、腹を決めることになった年でもあった。
コロナは「5・6・7」で令和5年に「5類」になり、令和6年は「ろくでもなく」、令和7年には「7不思議」が起こるのだろう。
来年の干支は「乙巳」(きのとみ)。「伸び切った枝葉を糧にして、業火が起こる年」になるそうだ。
60年前、1965年にはベトナム戦争でアメリカによる「北爆」が始まったり、チリ大地震、第二次印パ戦争勃発、中国で文化大革命が起こるなど、動乱、事故、事件の多そうな年回りではある。隠されていたものが晒され、最後の審判が下る年になるのではないだろうか。649年の大化の改新も「乙巳」だそうだ。
来年は戦後80年、普通選挙法制定100年という日本政治にとっても節目の年を迎える。
当時は政治への熱が高かっただろうが、今、政治への関心が下がっているのは政治が「予定調和」し過ぎなのだと思う。
少し前には武雄市の樋渡市長、最近では安芸高田市の石丸市長、明石市の泉市長などには「予定調和」を許さない「挑戦する姿勢」があって、市民や国民はその動向に注目するようになった。
私は今年最後の12月議会で「児童相談所の誤認保護」について質問したが、答弁に納得いかず、初めて「再質問」をした。「与党会派である自民党府議は再質問しない」という不文律が何となくあったが、「それでいいのか?」とはずっと思っていた。
徹底して議論するためには「再質問」も必要だし、「予定調和」に走り過ぎる現代の議会のあり方が国民の政治への関心を冷めさせてしまったと思っている。
「冷めさせる」のではなく、「覚めさせる」ためには「醒める」ような、ある意味、どういう結果になるのか分からない、心配されるようなことに挑戦することも必要なのだと思う。
今年は有名なサミュエル・ウルマンの詩「青春」(作山宗久訳)で一年を締めくくり、来年への決意とします。
青春とは人生のある期間ではなく心の持ち方を云う。
薔薇の面差し、紅の唇、しなやかな手足ではなく、たくましい意志、ゆたかな想像力、燃える情熱をさす。
青春とは人生の深い泉の清新さをいう。
青春とは臆病さを退ける勇気、安きにつく気持を振り捨てる冒険心を意味する。
ときには20歳の青年よりも60歳の人に青春がある。
年を重ねただけで人は老いない。理想を失うとき初めて老いる。
歳月は皮膚にしわを増すが、熱情は失えば心はしぼむ。
苦悩・恐怖・失望により気力は地に這い精神は芥にある。
60歳であろうと16歳であろうと人の胸には、驚異に惹かれる心、おさなごのような未知への探求心、人生への興味の歓喜がある。
君にも吾にも見えざる駅逓が心にある。
人から神から美・希望・喜び・勇気・力の霊感をうける限り君は若い。
霊感が絶え、精神が皮肉の雪に覆われ悲嘆の氷に閉ざされるとき、20歳であろうと人は老いる。
頭を高く上げ希望の波をとらえる限り、80歳であろうと人は青春にして已む。
これからも納得できるまで徹底して調べ、考え、正しいと思うことを守るためには徹底して闘います。
来年もどうぞよろしくお願い申し上げます。