四方源太郎日記(京都府議会議員・綾部市選挙区)

これからの綾部のために、さらなる「挑戦」を!

綾部市文化協会の新年互礼会

2025年01月19日 | アート・文化

19日㈰朝9時筆頭総代を務める正暦寺へ。凍てつくような大変寒い朝だったが、日が昇ると暖かくなってきた。

 正暦寺の檀信徒の皆様にお世話になって、来週1月26日に開催する正暦寺最大の行事である「不動明王大祭」の準備作業を行った。

 那智山正暦寺・不動明王大祭では高野山真言宗丹波支所のご寺院様方と丹波綾真会の行者の皆様によって、護摩焚き(火)と水行(水)で境内を祓っていただきます。「火」(か)と「水」(み)で「かみ(神)」ということです。

 「祓い」によって清浄になった空間にできるだけ長くいていただくことによって、自らの心と体が清浄となります。「清められる」ということです。

 また護摩を奉納いただくとご寺院様、行者の皆様が念じて火に投じられます。それによって、今年一年の除災と開運につながります。

 遠方のご家族の分も奉納いただくことによって、離れていてもその方の開運除災をお祈りすることができます。奉納金は小300円、大1000円(大は交通安全の御守付き)です。

 名物の「大根炊き」由良川の大いなるエネルギーを受けて綾部高校農業科の皆さんが育てられた丸大根を住職が祈祷した後、住職の出身地である長崎県平戸市から取り寄せたアゴ(トビウオ)のダシで数日かけて炊き上げたものです。

 これも「火」と「水」で炊き上げるため、「神」のご加護やパワーを体内に取り入れ、一年の心身健康につながります。

 ぜひ1月26日㈰は綾部市寺町の那智山正暦寺にご参拝下さい!

 護摩木は四方源太郎事務所でも預かっておりますし、ご希望の方にはお届けいたします(代書も可能です)ので、参拝できない方は事前に護摩木を奉納いただくこともできます。

 

 大旗を建てる作業をお手伝いして、次の予定のために失礼した。

 綾部高校カヌー部の皆さんが冷たい川の上で練習しておられた。

 

 11時から綾部市文化協会(鹿子木旦夫会長)新年互礼会に出席した。

 挨拶では今年9月7日に綾部公演を実施すべく準備中であ劇団ふぁんハウス演劇「ふたりのゆめ」のことをお話した。

参考:2024年7月21日付blog「劇団ふぁんハウス【ふたりのゆめ】を観劇しました!」

 文化協会の皆さんはすごく興味を持って下さって、懇親会の際にテーブルを回ったら、「ぜひ観たい!」「手伝えることがあったら言って下さい!」と多くの方におっしゃっていただいた。

 感触として、これはうまくいく!と確信を深めた。


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随筆集「くりっぷ」100号記念の会

2024年12月08日 | アート・文化

日㈰今朝は電車で大阪へ。伯父の阿部淳六が平成12年(2000年)から世話人として続けてきた随筆集「くりっぷ」の「100号記念の会」がリーガロイヤル大阪で開催されたので、当初から事務局を務めてきた立場で参加した。

 集まったのは10数人の同人や関係者の皆さん。初めてお出会いする方、数十年ぶりの方が多かったが、文章を通じての関係がここまで続いてきたことに敬服する。伯父は住友金属に長く勤めたので、その仕事関係の方が多かっただろうか。

 また、すでに亡くなったもう一人の伯父、四方洋が主宰していた日比谷一水会という異業種交流会のメンバーも当初の同人には多かった。私は大学を出て東京の洋伯父の下で働いていた時に日比谷一水会の事務局を務めており、会員の皆さんには大変かわいがっていただいた。わずか2年弱の東京生活だったが、その内容は濃密で、今でも当時のことをいろいろと思い出す。

 今日もお話をしていると思い出してきて、あの人、この人、とお世話になった方々が今は亡くなられたり、音信が途絶えていることに寂しくなって、涙が出てきそうになった。

 第1号は私の手元にはなぜかないのだが、伯父のところには残っていたので、今日見せてもらった。11名の同人のうち、6名は残念ながら鬼籍に入られた。

 途中からほとんど書かなくなったが、最初のうちは毎回投稿していた。第1号には「源太郎という名前の力」という文章を載せていたようだ。

 今回の100号にも久しぶりに投稿した。随筆集「くりっぷ」はこの100号をもって、区切りをつけることになった。始めた頃は淳六伯父も60代半ばだった。私は20代だった。同人の皆さんもそれぞれ高齢になられ、100号が良いタイミングなのだと思う。

 しかし、無性に寂しい。こんな想いになることは滅多にないのだが、自分の若かった日々が終わってしまったようでもある。

 さようなら、くりっぷ!本当にありがとうございました。記録として、100号に載せた原稿をここに掲載しておきます。

『源点』くりっぷ100号に寄せて

四方 源太郎
 
 私の手元に「大正五年正月 冬休日誌」という古い冊子がある。「本科三年、四方きく枝」と署名があるので、それは伯父の洋、淳六、そして父八洲男の母である祖母が女学校時代に書いたものだろう。
 冬休みの毎日の様子が克明に記されており、「重要記事」「一般記事」「反省録」などと内容が仕分けしてある。
 たとえば、十二月二十八日火曜日の「反省録」には「祖母に『女が包丁で怪我をする程、恥なるはない』とつねづねより承りぬ。不注意なりしは明かなれど一つは俎の下に物のはさまりゐてガタガタ動くをも忙しさに忘れてそのままにしゐたるより起りき…」などと書いてある。
 祖母は女学校を卒業してすぐに祖父に嫁ぎ、戦前戦後の何もかもが欠乏していた時代に十人の子どもを産み育てた。伯父の洋が書いた作文を祖母が丁寧に添削した原稿用紙が昔、蔵から出てきたことがあったが、そこから見えてきたのは子どもの教育に熱を込め、厳しく育て上げようとする「教育ママ」の姿だった。
 祖母は子どもや孫から届く手紙や作文を読むのをとても楽しみにしていたと伯父や父から聞いている。子ども達は皆、「おかあちゃん」が喜ぶ顔を思い浮かべて近況をつづり、せっせと手紙を出していたことだろう。

 この祖母の影響もあったのだろうか、洋伯父は新聞記者となり、生涯「書く」ことを仕事とした。私は大学卒業後、洋伯父に東京での仕事を用意してもらい、その下で2年弱働いた。自分が書いた文章を添削してもらったり、伯父の文章をテキスト入力したりすることもあった。
 伯父が私の文章の語尾や順番を少し変えるだけで、急にのびのびとした文章に変わっていくのはマジックのようだった。新聞記者独特の漢字使いで、我々が漢字にするところもひらがなで書いていたが、あれほど柔らかく、速く、洒脱な文章を書く人に私は出会ったことがない。私にとっては「文章の神様」だった。
 東京時代には文章だけでなく、人との付き合い方など、様々な勉強をさせてもらったことを思い返して感謝している。

 一方、淳六伯父には「書く」イメージがなかった。その淳六伯父が現役を退いてしばらくした頃、随筆集「くりっぷ」をやりたいと相談があった。
 「原稿用紙をコピーしてクリップで止めたくらいの簡単なもので、印刷というようなものでなくても良い」と言われたが、当時、印刷デザインの会社を始めた頃だった私は、編集ソフトを使ってそれらしい冊子を作り、伯父に喜んでもらった。
 失礼を承知でいうと、淳六さんの文章力は「くりっぷ」によってどんどん上がり、洋さんとは違った意味で味のある面白い文章を書かれるようになったと思う。
 淳六さんは洋さんと逆で、我々がひらがなで書くところも漢字にされる。漢字になると意味や語源がはっきりしてくるし、文章の裏付けとなる知識の豊富さとしつこいほどの調査力には感心させられる。
 山が好きで山に登る人に様々なルートや登り方があるように、洋さんと淳六さんは違った手法ながら、結局は同じように「読むことも書くことも大好きな人」だった。そしてその二人の根っこには同じく「読むことも書くことも大好き」だった祖母がいるのだと思う。
 「くりっぷ」100号の記念に何か書こうかと考えた時、「くりっぷ」「淳風」、読み切れないほどのたくさんの文章を渡す淳六さんと「淳六が書いてくれた!」とそれを嬉々として受け取る祖母の姿が思い浮かんだ。
 淳六さんは「おかあちゃん」に喜んでもらおうと、たくさんの文章を書いた、「くりっぷ」への愛情、熱情はそこから来ていたのかもしれないな、とその時に思った。

 私は「くりっぷ」のことは事務所の田中久美さんに全てお任せで長らく投稿もしていませんでしたが、時々、校正をすることで、同人の皆さんのこれまでの経験やお考え、様々なエピソードを楽しく読ませていただいていました。
 久しくお出会いしていない方、出会ったことがない方もほとんどですが、皆さんが本当に「読むことも書くことも大好き」なことは、その文章やいただくお便り等から強く伝わってきていました。
 「くりっぷ」100号、おめでとうございます!皆さんとの良い思い出、文章を通したつながりができたことに心から感謝いたします!そして、本当にありがとうございました。


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綾部市太鼓競技大会

2024年11月17日 | アート・文化

17日㈰午前中事務所書類整理など。

 午後、綾部市中央公民館で開催された第60回綾部市太鼓協議会の開会式に出席し、挨拶をさせていただいた。

 私は今、府議会で文化力と価値創造に関する特別委員会の副委員長を務め、今年度の委員会のテーマは「次世代にどうつなげるか?」として、9月には宇治茶や京料理の若手をお招きして話を聴いたこと、12月には祭の後継者育成を調査研究することにしていることなどをお話した。

 この大会綾部市太鼓連合会(安達弥一会長)が毎年開催されており、小学生から大人までの幅広い方々が出場されている。

 

 13時半からは清山荘にて、NPO法人あやべ福祉フロンティア(玉川弘信理事長)の理事会顧問として出席。

 12月15日に予定されている25周年記念式典および懇親会のことに関して、進行や案内する来賓等について協議した。

 フロンティアはなぜか5周年、15周年と「5」の年にしか記念事業ができていない。設立時からお世話になってきた方々に感謝し、次につながる25周年になればと思っている。

 

 終了後事務所で再び書類整理など。月曜日から水曜日まで常任委員会の管外視察で新潟に行くことになっており、それまでにやっておくべきことの整理など。

 管外視察の報告はまた改めて。


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第72回綾部市総合文化祭の開会

2024年11月01日 | アート・文化

1031日㈭朝8時半綾部を出て京都へ。五条通が渋滞していて、迂回してギリギリ10時半からの月例監査委員会議に間に合った。

 10月は9月末の決算状況を聴取するため、会計管理者以下、各部局から直接、報告を聴くことになっている。

 唯一の府立病院である洛南病院の病院管理会計の説明の際には健康福祉部長以下が来られたので「救急対応は府民ニーズが高く、また病院経営をプラスにもしているが、その代わりに当直が必要であるなど、医師の負担は大きい。医師確保の課題への対応は?」と質問した。

 

 明日、本番が迫ったPTA合唱のリハーサルのために綾部中学校へ。入退場の段取りや譜面を開くタイミング、最後の掛け声の練習などを行い、何度か通し練習をした。

 最初はどうなることかと思っていたが、3回の練習で何とか自信を持って歌えるようになった。

 練習の終わりに今日の最後の合唱を録画した映像を観て、声を半分ぐらいの音量で歌う方が良いかと感じた。妻が「輝くんとあんたの声ばかり聞こえる」と言っていたので。

 終了後は事務所に戻って、楽譜にいろいろ書きこんで明日の準備。

 

11日㈮9時からあやべ日東精工アリーナにて、綾部市文化協会(鹿子木旦夫会長)主催第72回綾部市総合文化祭の開会式に出席した。

 今年もたくさんの団体等から作品が出品されている。

 11月1日~3日まで、あやべ日東精工アリーナ(綾部市民センター)で開催されています。9時~18時(最終日は16時まで)。

 11月4日には中丹文化会館にて、12時55分から「芸能発表会」も開催されます。入場無料です。ぜひ「文化の秋」をお楽しみください!

 綾部市菊花展も日東精工アリーナで同時開催中です。

 

 この後は綾部中学校の「ライブオリンピック」へ。その様子は別に書きます。


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鵬雲斎大宗匠による献茶の儀に参列

2024年10月06日 | アート・文化

日㈰午前中舞鶴での事務所びらきと選対会議を終えて綾部に戻り、13時から大本長生殿での「献茶式」に出席した。

 献茶の儀を執行されたのは茶道裏千家の鵬雲斎、千玄室大宗匠であった。

 濃茶と薄茶二椀のお点前を目の前で拝見できたので、これは一生自慢しようと思った。

 御年101才とは思えない、きりっとした所作を息を呑んで見つめた。

 献茶の儀の後「祈りと一盌のお茶」と題して、鵬雲斎大宗匠が平和祈念講演をされた。「神様に背を向けるのは忍びない」とおっしゃり、演題を正面から少し右にずらされたので、ちょうど私の目の前でお話された。こんなに間近で拝見するのは初めてだった。

 ご自身の戦争体験を語られた上で、戦争がいかに間違っているか、アメリカが無差別空襲と原爆で戦闘員でない一般市民を多く虐殺されたことを憤ってお話され、「私はアメリカに行って、大統領にもこれを話している」とおっしゃっていた。

 バチカンに行かれた際にはローマ法王から「日本教会史を読んだことがありますか?」と訊ねられ、たまたま日本語訳を読んでおられて話が通じたおっしゃっていた。「日本教会史」は安土桃山時代に日本に来た宣教師、ジョアン・ロドリゲスが書いた本で、そこには織田信長の時代にお茶がどのように飲まれていたかが描写されているそうだ。

 当時は武士も商人も分け隔てなく、「いかがですか?」「お先にどうぞ」と一盌のお茶を介して仲睦まじくお茶を楽しむ姿があり、「これこそが日本の生活文化である」と記されているとのことだった。

 聖徳太子の17条憲法にも第一条に「和を以て貴しとなす」とあり、「和」を重んじることが平和への道だ。茶碗は円く、中には緑がある。美しい自然を大切にして調和を重んじることが大事だとおっしゃった。

 舒明天皇が詠まれた万葉集に収められている歌も紹介された。

大和には 群山(むらやま)あれど
とりよろふ 天の香具山(あめのかぐやま)
登り立ち 国見をすれば
国原は 煙(けぶり)立ち立つ
海原は かまめ立ち立つ
うまし国そ 秋津島 大和の国は

 

 日本にしかない独特の感性が詠まれている良い歌だと感じた。

 また、「最近は自分の好き放題が民主主義だと勘違いしている人が多いが、冗談じゃない。人間社会にはルールがある」とおっしゃり、その言葉では、最近、X上でやり取りしている「PTA反対派」の人達のことを思い出した。

 大変良い、心に沁みるお話を約30分、立ったままで滔々とお話される姿を目の前で見せていただいた光栄はいつまでも忘れることがないだろう。

 終了後に名刺を差し出して山崎善也市長に挨拶に来られ、隣りに座っていた私も立ち上がって名刺を渡した。それをご覧になり、「綾部というと四方だな。そうか、孫か?」と聞かれた。父のことをおっしゃっているのかと思い、「孫ではなく、息子です」と答えたら、少し怪訝な顔をされた。

 後のお茶席で再度お話したところ、43年前に亡くなった祖父・源太郎のことをおっしゃっていたのだと分かった。

 私は祖父と名前が同じなので、子どもの頃から祖父のことを話してこられることがよくあったが、最近はさすがに憶えていただいている方も少なくなっていたので、驚くと同時に嬉しかった。大本の神様のお引き合わせだろう。

 お帰りの際には、廊下に並んで見送る淡交会の会員さんらに一人一人声をかけ、挨拶しながら帰って行かれた。

 歴史上の人物を観たようなフワーッとした気分で事務所に戻り、夕方はブログ書きなどをした。


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劇団ふぁんハウスの皆さんが綾部に

2024年09月23日 | アート・文化

23日㈪秋分の日祝日。一昨日まで35度あったのに、一気に秋の気候に変わった。

 10時半綾部駅にて、劇団ふぁんハウス平野恒雄代表中心メンバーますだゆみさん鈴木千秋さんお迎えした。ますださん、鈴木さんお二人は主役を演じつつ、業者との交渉や会計の責任者でもあるそうだ。

 綾部側7月に一緒に東京の板橋公演を観劇した後藤光市議万事屋山さん山下哲也社長花形文化劇場小嶋匠さん来てもらった。

 まずは中丹文化会館に行き、職員の井田康史さんと大ざっぱな予算やスケジュール、課題点等の打ち合わせ。舞台や楽屋も見せていただいた。

 劇団ふぁんハウスの最新作東京近郊の老人ホームと綾部市の架空の居酒屋と中丹文化会館を舞台にした【ふたりのゆめ】という作品で、これをぜひ綾部で上演したいと考えている。

 7月頃から水面下での打ち合わせを始めており、今日は舞台や会場のこと、予算のこと、大道具や小道具のこと、宿泊のことなどの相談を顔を合わせてするために東京からお越しいただいた。

 劇団ふぁんハウスの皆さんにとっては「憧れの舞台・中丹文化会館」で、それはこの作品を観ていただければ、なぜか分かるはずだ。

 誰一人、綾部出身者がいるわけでもなく、綾部に来たことのある人はもちろん、地名を知っていた人もほとんどいなかった劇団ふぁんハウスの皆さんがなぜ?綾部を舞台にした演劇を作られたのか?不思議な縁が創り出した作品だ。

 私はたまたま劇団員の方々が昨年11月23日に「綾部視察旅行」に来られていたのをX(旧Twitter)で見て、それをリポストした縁で昨年の大晦日竹本和弘さんという劇団俳優さんからXのDM(ダイレクトメール)でそういう演劇があることを教えてもらった。

 手帳を見ると麻布公演の日が偶然にも東京に行く予定と合致したので、運命的なものを感じて1月に麻布区民ホールで【ふたりのゆめ】を観劇した。

 これを観て、この劇団ふぁんハウスの皆さんから「綾部愛」を感じ、綾部人として大きな衝撃を受けた。「これは綾部の中丹文化会館で演じてもらわないといけない」と強く感じた。

 その後、劇団の方々と連絡を取り合い、7月の板橋公演は東京在住の綾部出身者などにも呼びかけて、多くの綾部関係者にもご覧いただいた。弟・耕治も「ぜひ、綾部でやるべきだ!」とお盆に帰省した際に強く言っていた。

 最近、綾部で演劇の公演がほとんどないので、劇団の皆さんには公演本番だけでなく、通年で演劇や脚本、大道具制作などのワークショップを綾部で開催してもらえないか?と思っている。

 演劇や俳優、声優、裏方などに興味のある方、公演をボランティアで手伝っていただける方があれば、一緒に企画しませんか?ご連絡お待ちしております。

 

 中丹文化会館での打ち合わせの後は、昼ご飯をゆらり由良川店で食べながら、綾部の協力者の方々と劇団の方々とで打ち合わせ。

 大道具は東京で制作して綾部で運ぶと高いので、綾部で何とか制作できないかと匠さんに相談している。東京の大道具責任者の方は30代の女性だそうだが、技術を持った方と綾部の業者が連携することで、今後、こういった舞台セットの仕事を大工さんなどの副業として地元制作できるようにならないかとも考えている。

 今の予算だと交通費や宿泊費が劇団の皆さんの自腹となるのだが、「それでも構わない。私たちは綾部の中丹文化会館で、ぜひ【ふたりのゆめ】を演じたい」とおっしゃっていただいている。

 我々はその綾部に対する熱い想いに応えなければならないので、チケットを最低目標を超えて販売することと、宿泊費をできるだけ安くするために、寺泊をしている正暦寺の玉川弘信住職に相談している。

 昼食後正暦寺をご案内した。

 劇団の方々は御朱印用の黒谷和紙を見つけられ、「実はお客さんで『これは綾部の紙だ』と銀座で買ってくださった方があり、板橋公演の小道具には黒谷和紙を使っていたんです」と。

 正暦寺の後は大本本部をご案内した。長生殿の前あたりで、急に強い雨が降ってきたので、慌てて神殿に入り、長生殿と老松殿をお参りした。

 お参りを終えると青空が広がっており、大本の神様も劇団ふぁんハウスの皆さんに挨拶に来るようにと呼んでおられたのかもしれない。

 続いて綾部市の市街地が一望できる紫水ヶ丘公園へ。

 【ふたりのゆめ】のチラシのイラスト東京のイラストレーターが綾部の資料を観ながら書かれたそうだが、綾部市民ならそれが紫水ヶ丘公園からの風景だと分かる。

 大本の御神体である本宮山(鶴山)に神々しい光が降りていた。寺山(藤山)、四ツ尾山もよく見えた。

 最後グンゼスクウェアへご案内し、閉館時間が迫っていたので創業蔵だけを足早に説明した。グンゼ創業者の波多野鶴吉翁の足跡グンゼ創業期のエピソードなどをお話した。

 創業蔵の説明の後は、あやべ特産館お茶を飲んで休憩。宇治茶と綾部茶の関係なども説明した。

 帰りの17時の電車までわずかしか時間がなかったが、「良かったらお土産でも」とお勧めし、綾部のお菓子などを買っておられた。私からは綾部紡績のハンドタオルをプレゼントした。

 たまたま綾部観光協会の平野正明会長がおられたのでご紹介した。5月の観光協会の総会の来賓挨拶では、この演劇のことを話していた。

 劇団ふぁんハウスの方々はプロの俳優さんではなく、仕事を持ちながら演劇に取り組んでおられる。時には映画に出演したり、演技指導で協力もされているそうだが、演劇で食べているという訳ではないのに、休みの日と交通費を使って、わざわざ綾部まで来て下さった。

 これからも交流を深めながら、約1年後の【ふたりのゆめ】綾部公演を成功させたい。詳しい日程などが発表できるのは年明けになると思いますが、おいおい情報は出していきますし、演劇の実行委員会にご協力いただける方は、ぜひお声がけください。

 もちろん観に来ていただくだけでも結構です。よろしくお願いします。


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源氏の小径~花びき源氏物語~

2024年09月01日 | アート・文化

日㈰今回は綾部市には台風の影響がなくて、ホッとした。週末の予定は全てキャンセルになったが、賢明な判断だっただろう。

 午後事務所書類整理読書など。

 京都府で企画理事、政策企画部長等を歴任された本田一泰さんこのほど発刊された「源氏の小径~花びき源氏物語~」(本田一泰著、大垣書店、2024年)を先日、購入した。

 源氏物語に出てくる草花のことが詳しく紹介されている。私にはこういった分野の素養がないのだが、府立植物園が100周年を迎える今年は少しは草花のことも勉強してみようと、この本を買ったことをきっかけに考えている。

 綾部にも多くの草花が自生し、そういった花を観に来られる方も多い道を歩いていて花の名前が分かる人のことは凄いなといつも尊敬している。

 本田さん政策企画部長の頃、まだ1期目の私が何かのことでゴネていた時、わざわざ、うちの家まで話に来られたことがあった。たとえ1期の議員といえども、足を運び、意見に耳を傾け、不満の落としどころを作ろうと配慮していただいたことは驚いたし、納得せざるを得ないという気持ちになったことを覚えている。

 また京都三重県人会の会長を務めておられて、三重大学出身の私も会員であり、なかなか会には参加できていないがお世話になっている。

 府庁あやべ会の会長であった藤岡栄さん本田さんと親しく、この本の発刊にも協力されたそうだ。二人の仲を取り持とうとした藤岡さんの誘いで三人で飲みに行って、二次会でカラオケを歌ったのも良い思い出だ。


 

 先週末に発表があり、京都府の補助事業であるLPガス・特別高圧電力利用事業者経営改善支援事業費補助金が期限延長されることになりました。

https://www.pref.kyoto.jp/sanroso/news/20240209lptokkou.html

 8月30日〆切であったものが11月29日まで延長されますので、期限を気にして諦めておられた方はお考えください。

 また、質問がありましたら、私の方からも担当課に問い合わせしますので、遠慮なくご連絡ください。

 


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没後40年・有道佐一回顧展を鑑賞する会

2024年08月12日 | アート・文化

12日㈪11日の山の日の振り替えで祝日。

 綾瀬駅前のバーガーキングで遅めの朝食を食べながら、小源太と小一時間あれこれと話。その後、東京駅に向かい、11時54分発の新幹線で京都に戻った。

 先日から南海トラフ地震の警戒で三島駅から安城駅の間はスピードを落とすため、若干、京都駅への到着は遅れた。

 

 京都に戻って、市営バスで京都市京セラ美術館に。15時半から京都あやべ会(村上晨一郎会長)「没後40年・有道佐一回顧展を鑑賞する会」に出席した。

 村上会長の挨拶で開会。約50名の綾部関係者が出席されていた。

 戦後の美術関係者の中で、最も早くから有道佐一画伯の絵を見出しておられた星野画廊の星野桂三オーナーがどうやって有道画伯の絵と出会い、絵についての研究を深められていったか、また有道画伯やその周りの方々との交流等についてお話された。大変興味深いお話だった。

 有道画伯綾部市志賀郷地区の篠田町に生まれて、山家地区の東山町で育ち、18才で鹿子木孟郎画伯に弟子入りした。30才からは鹿子木画伯の助手を務めて鹿子木画塾等での指導をしていたという。

 39才から1年間、鹿子木画伯の援助でフランスのパリで絵を学んだ。その際には著名な彫刻家ジャコメッティに見出され、サロン・デ・チュイルリーの客員に推されて同サロンに絵画の出展を許されたという。

 帰国後中央画壇からの誘いには乗らず、昭和58年に87才で没するまで東山町の実家で故郷山家の風景画を中心に一心に描き続けた。晩年には日本画の作品も多く残している。

 星野オーナーは「有道画伯の絵はパリで描いたものがスタートで、20代から40才頃までの作品が見つかっていない。それが出てくると貴重だ」とおっしゃっておられた。その頃は画家として最初に油が乗ってきた良い時期だそうだが、助手時代でもあり、鹿子木画伯の作品の手伝いや画塾での指導等で忙しく、ご自身の作品は残せなかったのかもしれない。

 有道画伯は細かい点描で絵を描かれるが、これは鹿子木画伯の画風とは異なり、太田喜二郎画伯の影響ではないか?ということだった。太田喜二郎画伯も鹿子木画伯の影響か、何度も山家へ足を運ばれ、奥様は東山町から嫁いでおられるそうだ。「山家」という作品もあり、それは府立鴨沂高校に飾ってあるとのことだった。

 

 星野オーナーに続いて、有道画伯の長男の有道大作さんがお父さんとの思い出やお父さんからお聴きになっている話を語られた。

 私の父有道画伯との思い出を語った。38才で綾部に帰り、市会議員になった頃「新生時報」という「あやべ市民新聞」の前身の地方紙で有道佐一さんを取材したこと、綾部での個展の開催に至った時のエピソードなどだった。

 読売新聞の大西さんという記者囲碁友達で、その大西記者に有道画伯のことを「綾部には凄い画家がおるぞ」と教えてもらったとのことだった。

 

 懇談の時間は早退し、「没後40年・有道佐一回顧展」を鑑賞した。大変大きな会場で、今までに観たことがないくらいのたくさんの絵が出展されていた。

 「幻の画家・有道佐一回顧展」8月18日㈰まで、京都市京セラ美術館で開催されています。ぜひ、お運びください。

 

 夜は久しぶりに綾部に戻った。

 温二郎はオーストラリアでの研修生活を楽しく送っているようだ。毎日、妻のところには電話がかかっていたそうだが、「今日はかかってこない」と言っていた。


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すごい画家がいた!自適の人・有道佐一

2024年07月29日 | アート・文化

29日㈪蒲田正樹さんから著書「自適の人・有道佐一」を送っていただいた。綾部が生んだ孤高の天才画家、有道佐一画伯の作品がカラーでたくさん掲載されており、大変読みやすく、有道画伯の生涯やエピソードがうまく説明されている。

 帯にはこう書かれている。

すごい画家がいた! 

巨匠ジャコメッティを一瞬にして虜にし、マティスが属したサロン・デ・チュイルリーに客員として初めて招待された画家、有道佐一。

帰国後は画壇から離れ故郷、綾部市でひたすら風景を描き続けた、まさに自適の人の作品と人生。

 

 京都市京セラ美術館では8月6日~18日まで「没後40年有道佐一回顧展」が開催されます。「幻の画家~孤高の魂が描いた果てしなく美しいふるさとの山河」という副題そのままの展示会になると思います。

 ぜひ、会場に足を運んでいただきますようお願いすると共に、その前後には「自適の人・有道佐一」をご覧いただくと、より楽しめるものと思います。

 さらには綾部市東山町の東山公園で上林川沿いを散策していただくと有道画伯の作品と同じ風景を見ることもできます。


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劇団ふぁんハウス「ふたりのゆめ」を観劇しました!

2024年07月21日 | アート・文化

21日㈰劇団ふぁんハウスふたりのゆめ」板橋公演観劇するために、綾部駅7時12分発の特急に乗って東京へ向かった。

 今回は「綾部公演」に向けての事前調査という意味もあり、「その時には手伝ってほしい」と頼んでいる後藤光市議と万事屋山さんの山下哲也くんにも同行してもらった。

 11時に品川駅に着き、山手線で池袋へ。さらに乗り換えて東武東上線の大山駅に。ここで長男・小源太と合流した。

 4人で昼食を食べ、近くのドトールで時間待ちにコーヒーを飲んでいたら、あやべ水源の里トレイルランのスタッフである松永淳さんに声をかけられた。

 この近くにお住まいで、私のブログを見て演劇を観に来て下さったそうだ。あやべ水源の里トレイルランのTシャツも着て「綾部感いっぱい」の姿だった。

 13時半には会場である板橋区立文化会館小ホールへ。

 会場には綾部関係者がちらほらと。弟の耕治も来てくれ、京都府東京事務所の嶋津誉子所長も来て下さった。客席に座ると光くんが「綾部市歌が流れてます!」と言うので耳を澄ますと、たしかに「緑濃き山脈遠く…」という聞き慣れた「綾部市歌」がBGMとして流されていた。

 劇の内容も最初に観た時よりも分かりやすく、脚本には「綾部度」をさらに増していただいていた。綾部のスーパーでパートをしているという設定の女性の役名は「大空照代」から「大槻照代」に変わっていた。

 上演後の出演者挨拶では主演ますだゆみさん平野恒雄団長に促されて「次は中丹文化会館で演じたい」とおっしゃっておられた。この演劇の舞台の半分は綾部市で、最も重要なクライマックスシーンは京都府中丹文化会館となっている。

 それを綾部に一度、仕事の都合で来ただけの平野団長と綾部のことをほぼ知らなかった劇団ふぁんハウスの俳優さん方に演じてもらっているという「綾部の奇跡」に大いに感動している。

 ピアノAmatiasさんヴァイオリン株竹大智さん共に盲学校出身のプロの演奏家で、「すごい上手い!」と光くんが驚いていた。クライマックスシーンでAmatiasさんは涙を拭いながら、想いのこもった演奏をされ、感動をさらに増幅させていた。

 終演後、平野恒雄代表に挨拶し、「綾部公演」の実現のために今後も連絡を取り合いましょうと話をした。

 平野代表からは翌日、さっそく下記のような御礼のメールをいただいた。

…お客様からも、「綾部に行ってみたい」との感想をあちらこちらでちょうだいし、微力ではありますが、綾部のすばらしさをお伝えする事が出来たかな?と思っております。

綾部公演が現実のモノとなった暁には、より「綾部愛」を全面に出した作品に致しますので、四方先生と多くの関係者の皆様のご意見を伺いながら、脚本も改定させていだだければと思っております。

綾部の皆様とのご縁を大切に、これからも劇団ふぁんハウスは活動を続けて参ります。

お越し下さいました綾部の皆様にも、よろしくお伝えください。

 

 公演の後新橋に移動し、弟・耕治が呼びかけて開催したAYAの会(綾部出身者の若手の会)に出席した。その様子は改めて。


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綾部を知らない人生は損?

2024年06月06日 | アート・文化

日㈭から京都へ。11時から事務局長を務める宇治茶振興議員連盟の役員会を開催した。

 13時半からは政策環境建設常任委員会の初回常任委員会に出席し、委員会で所管する総合政策環境部、建設交通部の事務事業概要等についての説明を受けた。

 

 朝、オーベルジュKIKUYA(喜久屋)の駒井靖社長Facebook「今日15時から、α-STATION FM京都に出演します!」と投稿されていた。「綾部に移住した近況を話します」というフレーズに興味を持った。

 ちょうど時間が重なったので、綾部への帰り、五条通を運転しながらFM89.4を聴いた。

 「綾部に移住して下さいとは思ってません。でも、綾部を知らない人生は損ですよ」と綾部人以上に「綾部愛」にあふれたコメントがあって、とても嬉しかった。

 

 綾部出身者が「綾部愛」が強いのは当たり前かもしれないが、綾部出身者でなくても、綾部に関わると「綾部愛」が強くなるのではないかと最近思うようになった。

 今年1月末に東京で上演された綾部を舞台にした演劇「ふたりのゆめ」(劇団ふぁんハウス)いつか綾部で上演できないかと、現在模索している。

 劇団ふぁんハウスの平野恒雄代表27年前にたった一度、二日ほど仕事で綾部に滞在された、その経験だけで出来上がった作品この「ふたりのゆめ」であり、物語の重要な舞台が綾部市の居酒屋「門出」(架空)京都府中丹文化会館(綾部市里町)となっている。

 平野代表や劇団の皆さんからは「これはお金の問題ではなく、自腹でも綾部公演をやりたい」という「綾部愛」がビンビン伝わってきている。

 この「綾部愛」に綾部人が応えずにどうするのか?という気持ちになっていて、7月20日、21日に東京都板橋区での再演があるので、7月21日㈰にもう一度、観に行ってみようと日程を調整している。

 これを一緒に観劇していただける方は大歓迎です。綾部から一緒に行くこともできますし、現地集合解散でも構いません。チケットはこちらからまとめて予約もいたします。

 また、首都圏在住の綾部出身者、綾部に興味のある方などにも、ぜひご覧いただければ嬉しいです。

 ぜひ一人でも多くの綾部関係者に「ふたりのゆめ」を鑑賞いただき、綾部公演につなげたいと思っています。どうぞ、よろしくお願いします。

 今後の宣伝のために、劇団ふぁんハウスの平野代表から1月の前回公演の写真をいただいた。前回公演を観に行っていた私の後ろ姿も写っていた。

2024年1月26日blog「劇団ふぁんハウス第44回公演【ふたりのゆめ】」

 

 夕方、事務所に戻ったら、障害者グループホームの経営など、障害者支援に取り組んでおられるNPO法人わいわいネット・なかま(前田道子理事長)の滝野千里副理事長、安村値恵子副理事長が先日の総会の報告に来られた。

 劇団ふぁんハウスは発足以来、障害者と健常者が共に舞台に立つという取り組みもされており、滝野さんや安村さんにはそのことを説明したいと思っていたところだった。資料を渡して説明したが、話が伝わったかは分からない。

参考:公益財団法人港区スポーツふれあい文化健康財団ふれあいコラム


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両丹支部の追悼茶会へ

2024年05月18日 | アート・文化

18日㈯10時中舞鶴雲門寺へ。茶道裏千家淡交会両丹支部(堀尾大直支部長)追悼茶会副支部長として出席した。

 堀尾支部長会場をお借りした神龍山雲門寺(臨済宗天龍寺派)住職を務めておられ、3年ほど前に亡くなられたお母様もお茶の先生今日の法要は弟さん、息子さんと3人でお勤めされた。お母様もさぞ喜んでおられたことだろう。

 追悼茶会は5年に1度開催されており、この5年間に亡くなられた支部の先生方の追悼法要が営まれる。5年前はまだコロナ前だった。

 追悼茶会には3回出席した覚えがあるので、もう10年以上、副支部長をやっていることになるが、作法は隣りの坂根功一副支部長に教えてもらいながらやっている。

2019年5月19日付「追悼茶会」https://blog.goo.ne.jp/gentarou-ayabe/e/3005a8dbcfcf5a4a87f9d742ca485f6a

 法要の後薄茶席と点心席があり、ご遺族の方々とご一緒にさせていただいた。薄茶席の床の間には「夢」という鵬雲斎大宗匠の軸が掛けられていた。

 

 同時刻に温二郎たち、綾部中学校野球部八田中学校にて綾部野球協会杯に出場し、八田中・豊里中合同チームに9対0で勝利したそうだ。

 まだ小さい背番号4番も副キャプテンとして、だんだん逞しくなってきた。野球を始めて6年ほど経って、やっと自分の意志で「素振りがしたい」と従兄弟の涼基や鴻央が使っていた重いバットを借りてきて前日に振っていたようだ。

 今日はヒットは打てなかったそうだが、あと数ヶ月の野球部生活を楽しんで良い結果が出るように頑張ってほしい。

 

 夕方から四方源太郎後援会(鹿子木旦夫会長)拡大役員会あやテラスで開催していただき、100名を超える方々にご参加いただいた。

 これは改めて、ブログでご報告します。


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斎神社(山家地区)が国の重要文化財に指定される!

2024年05月17日 | アート・文化

17日㈮16時半から綾部建設業協会(吉田博美会長)総会綾部市の岩本正信副市長、京都府中丹東土木事務所の細井浩一所長と共に出席して、挨拶した。

 挨拶では、昨夏の災害復旧で協会の皆様に大変お世話になった御礼、国の国土強靭化計画が臨時的計画を継続する形でなく、定期的に中期計画を作るよう法改正が昨夏になされたこと、今年度の綾部市内での京都府事業について説明した。

 18時からは現長にて、総会後の懇親会にも出席し、会員の皆様からいろいろとご意見を聴かせていただいた。

 

 夜には綾部にとって、良い知らせが入ってきた。

 山家地区の下原町にある斎神社国の重要文化財(建造物)に指定されたとのこと。室町時代中期に建造されたものと考えられるそうだ。

 数年前宮大工である匠工務店の吉崎典之社長から「国宝級のすごい建物です」と言われていたので期待していたが、ようやく国の審査が通ったようだ。


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三河内曳山祭りの宵宮に参加

2024年05月03日 | アート・文化

日㈮午後から丹後与謝野町三河内に向かった。三河内は旧野田川町の一地区「三河内」と書いて「みごち」と読む。毎年、三河内曳山祭が盛大に開催されている。

 なぜ?このお祭りに参加することになったのか?というと、昨秋、京丹後市峰山町の飲食店でたまたま席が隣りになった少し年上の50代の経営者と知り合い、意気投合した。

 その時に強い与謝訛りで「お前はワシよりちょっと年下やから四方クンと呼ぶけど、四方クン、ミゴチの祭を知らんのではアカンわ」「うちに泊めてやるから、今度来るか?」と言われた。

 初対面で、互いに結構飲んでいたこともあり、「そうは言っても、明日になったら覚えてないだろう」と思っていたが、それからも何度か「約束通り来てくださいね」とLINEをもらったのでお言葉に甘えることにした。

 その方の家も知らないので、「どこへ行ったらいいですか?」と数日前に聞いたところ、「梅林寺という寺の手前」だと言われて、梅林寺を目指して行った。梅林寺は臨済宗妙心寺派のお寺で城のような巨大な石垣があった。

 寺の近くから電話をかけたら「寺の下まで来て!」と言われたが、人はたくさんいるもののその人の顔が分からない。一度、会っただけなので、よく考えたら顔もよく覚えていなかった。

 寺の下に知り合いの与謝野町議がおられた。「げんたろう、お前、なんでこんなところにおるんだ?」と言われ、「この祭の意味も分からずに、〇〇さんに誘われて来たんですけど…」と答えた。「それなら、これから後藤神社に行くから、お前もついて来い」と言われて、よく分からないまま、出雲大社与謝分祠の後藤神社へついていくことになった。

 後から分かったことでは、三河内には6つの町内会があり、それぞれに山車を出しているこの町議の町内会は「神楽山」で、僕が誘われたのは「倭文(しどり)山」、他にも「春日山」「浦嶋山」「大幟山」「八幡山」というのがあるそうだ。

 「倭文山」に行くべきところを間違えて「神楽山」についていってしまったようだ。

 

 後藤神社で少しビールを飲ませてもらい、三河内の区長さんや後藤重和分祠長らとご挨拶した後、ずいぶん歩いて戻ってようやく「倭文山」と合流することができた。

 「倭文山」は梅林寺の門前にある奥地町の方々が80軒弱で守っておられるそうだ。今年の「倭文山」の総責任者(総町主と呼ぶそうだ)が元京都府職員の方で「綾部の四方先生がなぜ?ここに?」と驚いておられた。

 「倭文山」と書かれた法被を貸してもらい、「山車の綱を引っ張ってくれ」と言われて列に加わった。山車は初めて見たが、小学生を乗せて坂道を登ったり下ったり、90度直角に細い路地へ入って行ったりする時に溝にはまったり、屋根にぶつかりそうで、「大丈夫かな?」と心配した。

 15時半頃子どもの山車が梅林寺下の倉庫に戻ると夜の巡行までしばらく中休みとなった。

 

 その間に三河内の町を歩き、祭のことを説明していただいた。家々の前には「献灯」と書かれた提灯が立てられ、町全体が祭一色になっている。あちこちからお囃子が聞こえ、フーテンの寅さんがひょっこり歩いて出てきそうな雰囲気がある。

 三河内曳山祭は5月2日から準備が始まり、3日が宵宮で青年屋台(10代、20代の若者が乗る)と子ども屋台(小学生が乗る)の巡行、4日は本祭礼で大きな山車と子ども屋台が昼から夜まで巡行するそうだ。

 街並みには、昭和の頃までは機屋が軒を連ね、「ガチャ万」で大儲けしていたなごりが感じられた。

 祭の中心である倭文神社にも参拝した。機織りの神様「綾部」と通じるところもあるように思った。

 「神楽山」とも再び遭遇した。この町内会では若者が神楽を舞い、三河内区全域を回るようだ。

 浦嶋山の「総町主」の方に祭を運営する組織の話を聴かせてもらった。各町内で「町主」と呼ばれる幹事役が選ばれて、その代表が「総町主」となるとのこと。だいたい60才前後の方がなられるそうだ。

 山車の組み立てや運行管理は「保管委員長」もしくは「保管係長」が責任者その下に20名ほどの委員がおられるそうだ。僕を招いてくれた方「倭文山」の「保管委員長」を務めておられた。通常は1年交代で、その方は次になる予定の方の都合が悪くなって2年連続で引き受けたとおっしゃっていた。

 巡行の出発点にある小さな祠。ここにも神社の幕には全て「丹後ちりめん」が使われている。

 17時45分頃からは、奥地町の公民館の前に青年屋台、子ども屋台が運ばれ、飾りつけの準備が始まっていく。

 町の人達によって、出発点まで移動し、各町から10基ほどの山車が集まってきた。順序は毎年、総町主による話し合いで決まり、間違えると大変だそうだ。

 出発点に着くと、提灯が灯される。昨年からLEDになったそうだが、以前は火をつけていたということだった。

 屋台に乗る青年や子ども18時から23時過ぎまで、交代で太鼓を叩き、笛を吹き、ドデッサッサーという掛け声を発し続ける。太鼓が腹に響き、若者が叫び、笛が甲高い音色を出し続ける。すごい熱気だ。

 倭文神社や梅林寺、町のあちこちでしばらく停まる場所や転回する場所などがある。

 また、祭りの法被を着ていると、この日はどの家でも酒や食べ物が振る舞われるそうだ。

 こんな祭を今でも継続できているところは京都府北部では三河内しかないだろう。何もかも祭に捧げて、老いも若きも狂喜する姿は、行ったことはないがスペインのカタルーニャ地方で独自の言語や文化を誇る「バルセロナの雰囲気」ではないかと思った。

 ドデッサッサーという掛け声は大人は言わず、若者や子ども達だけが言っていた。大人が大きな声で叫ぶと若者や子どもは呑まれて言えなくなるかもしれない。次につなげるための工夫ではないかとも感じた。

 最後は出発点に戻って、全員で万歳した後、各地に戻っていった。軽く考えていたので5時間も歩くことになるとは思わなかった。明日は明日で、本祭礼があり、さらに大きい山車が同じように夜まで巡行されるそうだ。


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綾部高校の吹奏楽部と軽音楽部

2024年04月28日 | アート・文化

28日㈰10時過ぎ青野町由良川花壇展の会場へ。涼子が綾部高校吹奏楽部に入って初めての演奏を聴きに行った。

 吹奏楽部は新入部員が8名、全体で20名。一方、軽音楽部は今年、同好会から部に昇格し、こちらは人気が高く、27名の新入生が入って50名の大所帯となった。吹奏楽部は人数が少ない分を技術でカバーし、今年も金賞を目指して頑張ってほしい。

 

 会場内の花壇を見て回った。綾部中学校の花壇は温二郎が数日前に制作に行っていた。「日本一」と書くことにこだわりすぎて、少し殺風景な感じが…。「日本一」の学校にしようという意気込みはいい。

 他の中学校や市内の各種団体、企業、市民グループ等で、工夫を凝らした様々な花壇を作っておられた。

 暑かったがシルバー人材センターできつねうどんを販売しておられたので協力し、12時からは綾部高校軽音楽部の2組の演奏を聴いた。

 軽音楽部の演奏はなかなか良かった。新入生を加えると10組くらいのバンドができるようだ。「綾高フェス」でもやってほしい!

 小源太は今朝、バスで東京から京都、そして京都から綾部に電車で帰ってきて、そのまま舞鶴での音楽フェスに行った。明日の朝には再び、東京に戻ってしまうそうだ。忙しいことだ。


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