今年もあと数時間で終わる。長くて、短い一年だった。
今年は「選挙」がすべてだった。
28歳の時の市議選に出ようと考えて、大学を出てから、東京で雑誌編集や政治関係の仕事をしていたが、卒業後2年目の暮れに、府議であった父が市長選に出馬することになった。
Uターンして4年目の、28歳で市議選に出馬しようとしたが、「親子で市議会で議論するのはおかしい」という声が多く、「もし出れば、市政に悪影響を及ぼし、綾部のためにならん」と周囲から止められた。
たしかにそれもそうだと考えて、それなら舞台の違う府議会を目指そうと方針転換した。
そこから4年後の今春、自民党公認を得て、府議選に立候補したが、1794票届かず落選した。
選挙前から妻の実家に預けられていた息子は、負けたと聞いて、ビックリするほどの大きな声で「ワーン!」と泣き出したそうだ。2歳の子どもでも、なんか分かったんだろう。
家に帰ってきた時には、「ゲンチャンが負けた、ゲンチャンが負けた」と言いながら笑っていた。そして、久しぶりの親子三人の夜に安心したのか、すぐに寝てしまった。
その寝顔を見ながら、「自分が落ちるよりも、自分の子どもが落ちる方が辛いなあ」と思った。そう考えると、自分が落ちたのは、まだ救われると思った。
同時に、明日からも普通に市長をしなければならない父の方がもっと苦しいだろうなと思った。大学3年の冬、「政治家になりたい」と言った時に、なぜ父が賛成してくれなかったのか、そういう気持ちも少し分かった。僕でも「自分はいいけど、息子にはこんな気持ちを味あわせたくない」と思う。
次の日の朝、両親に「すみませんでした」と挨拶して、選挙事務所の撤収に行った。若いみんなも仕事を休んで、手伝いに来てくれていた。
翌々日、とてつもない空虚感に襲われ、「しばらく何もしない」と妻に宣言して、寝込むことにした。
妻は、炊き出しや電話当番、うぐいすなどでお世話になった女性の方々に、お礼の電話をかけ始めた。そして、「電話したら、みんな次も応援するで頑張んなよと言ってくれてや。わたしが仕事して、次の選挙資金も稼いであげるから、お金のことは心配せんと、動き出しな!」と言って泣いた。
「そうやな…」と思って、立ち上がろうとした時に、輝くんと卓ちゃんが引っ張り出しにやって来てくれた。
落選後2日目の午後、手紙を書いて、後援会役員のお宅にお礼とお詫びに回った。輝くんも一緒についてきてくれた。回るうちに元気がでてきた。
その日の夜、東京の出張先から父が電話してきた。2日目には動き出したことを知り、「わしも1週間は外に出れんかったけど、41歳で落選するんと33歳で落選するんの違いやな」と喜んでいた。
落選4日後には、選挙を応援してくれた若いメンバー20人ほどで集まって、激励会を開いてもらった。
並松町を全戸回ることから始めて、約1ヶ月で800人ほどの後援会役員のお宅を回った。
それが終わると、後援会本部役員会を開いた。役員さんに向けて、「げんたろう新聞」を毎月出したいので、その配布へのご協力をお願いして、引き受けていただいた。
自民党綾部支部も新体制に代わり、副幹事長兼総務部長に就任した。
夏は参議院選挙があり、秋はいつものようにバタバタと忙しく過ぎた。
年末の挨拶回りを終え、年賀状もだいたい目途がついた。
他人事では、政治や社会は絶対に良くならない。みんなが参加して、自分の手で良い政治を作り上げようとする気持ちを持てるような環境を整えることが大切だと思う。
みんなが参加する、参加できる政治を目指す。志はさらに強く、決して曲げない。
「呪い」ではなく「祈り」を大切にして、来年も明るく元気に頑張っていきたい。
今年のような年は二度と繰り返したくないけど、人生の節目に本当に大切な一年だったと改めて思う。
今、そういう心境になれて、前向きに進めているのは、回りで支えていただいているたくさんの皆さんのおかげだと思います。
ありがとうございました。来年もどうぞよろしくお願いします。