曽根豊さんの「豊君のこと」発刊記念式が、山下信幸刊行委員長によって、ホテル綾部で行われた。
豊さんは、高校1年のとき、大会で首から下が麻痺してしまう事故に遭われ、以後、約35年間、寝たきりの生活を余儀なくされながら、口に筆をくわえて素晴らしい絵を描かれた。
ご家族や同級生、友人の支えで、数々の個展を開催され、多くの人に感動を与えられた。
僕は豊さんの実兄である庸行さんとは、一緒にあやべ福祉フロンティアを立ち上げた同志であり、刊行委員の一人に名を列ねさせていただいた。
綾部にUターンし、両丹経済新聞記者としての最初の取材相手が、曽根豊さんだった。「これからの夢は?」との問いに、「自宅を喫茶店にして、毎日個展を開催すること」と明るく語っておられたのが印象に残っている。
死の間際、「あと数日…」と宣告された庸行さんは、施設から自宅に豊さんを引き取られた。「最後に、念願の自宅での個展をやってやりたい」とおっしゃり、様々な方々のご協力を得て、自宅での個展が開催できた。
豊さんはニコニコ笑っておられた。訪ねてくる人ごとにお礼を言い、笑顔で絵の説明をしておられた。
「僕は、世界一の幸せ者だ」と庸行さんにおっしゃったと言う。
クラブ活動の大会中の事故であり、「学校や教育委員会には責任がないのか?」「弟の人生への償いをしてもらわなければ、弟があまりにも報われないではないか」と思い続けてこられた庸行さんの肩の荷が、すっと降りるような言葉だったという。
数日と宣告された豊さんの命は、20日間ゆっくりと燃え続けた。神様が、最後に、最高に幸せな時を与えてくれたのかもしれない。
豊さんのことを思い出すたびに、人は何のために生きるのだろう、ということを考えさせられる。目先のことで、言い合いをすることの愚かさ、いろんなことを考える。
「豊君のこと」は500冊が綾部市教育委員会に寄贈され、副読本として、学校で活用されることになった。
豊さんの“幸せな気持ち”が、いつまでも綾部の子ども達を励まし、心の中で生き続けてくれることは、本当に嬉しいことだと思う。
あやべ福祉フロンティアは、平成11年に設立、12年から本格活動に入り、翌13年に豊さんは亡くなられた。
自由に動けなかった豊さんのひたむきさと忍耐力が、フロンティア創設の基盤となっている。この基盤はそう簡単に揺らぐものではないと思っている。