28日㈮、午前中、綾部市自治会長総会に出席した。総会の後、綾部市の部長紹介や防犯推進委員の委嘱、山崎善也市長の市政講演会などが行われた。
夕方から京都に向かい、医療系の意見交換と会食。夜は京都泊。
29日㈯、昼に京都から戻り、午後、涼子が出演する天理教綾ノ本鼓笛隊の演奏を聴きにアスパへ行った。
涼子は午前中は綾部中学校吹奏楽部員として由良川花壇展でトロンボーンを演奏し、午後は鼓笛隊で肩から担ぐオルガンのような楽器を演奏していた。
鼓笛隊で太鼓を叩いていた府立高校吹奏楽部「マンボウジャズバンド」のシュンメイ部長から、この後の自分たちの演奏を聴いてほしいと要請があり、藤岡康治市議のレジェンド・オブ・ホクトショーと綾部高校吹奏楽部の演奏を鑑賞して、最後の「マンボウジャズバンド」の演奏まで聴いて帰った。
藤岡市議は病み上がりの身体でヒーローショーの黒子に徹しておられた。
綾部高校吹奏楽部は顧問の三宅先生の指導力があるのだろう、安定して表現力のある演奏ができるようになってきていた。
府立工業高校の「マンボウジャズバンド」は男子生徒も多く、音に安定感と迫力があった。トロンボーンのソロ演奏は特に格好良かった。
府立工業高校の「マンボウジャズバンド」のように、それぞれの学校には様々な特徴がある。そういった特徴を総合的に判断して、受験生は進学先を決めているのであって、先日のブログ「綾部高校の2022年度の進学実績」で指摘したように、あやべ市民新聞による中丹地区の高校比較が進学・就職実績だけで終わりだというのなら企画が浅すぎる。
綾部高校からあやべ市民新聞に指摘された、新聞に掲載された綾部高校の進学実績の数字が不公平であったことについては、それに対する謝罪と訂正があやべ市民新聞に掲載されていたが、まず、感じたのは記者の個人的な雑感を綴る「記者の雑記帳」というコラムで扱うのは非常に失礼だということ。
また、他校との比較で紛らわしかった「進学実数」を再びカッコ書きで入れてあるが、そこに文字数を割くのなら、国公立大学だけでも、あと5人の進学先を書いてあげて欲しかったと思う。合格した生徒と保護者の努力を考えると、字数に余裕があるのに割愛する意図がよく分からなかった。
地元紙であるなら、数字で競争心を煽るのではなく、数字の背景にある一人一人の姿を想像できる記事を書いてほしい。
またコラム中では、今回のことを一人の記者の個人的なミス(であり、綾部高校にも依頼していない資料を自発的に出した責任がある)だとしているが、編集部の責任とせずに、一人の記者の個人的責任にするのは問題を矮小化することだ。これは個人的な問題ではなく、組織として訂正、謝罪すべきことだ。
映像や文章というのは、やろうと思えば意図的に受け手の意識を変化させ、一定方向に向けることができる。最初から「フィクション」を前提にしている小説や映画ならまだしも、テレビや新聞という報道で「事実に基づいたフィクション」が当たり前になると危険だ。かつ、それを指摘されても個人的ミスだと逃げるのは、問題から目をそむけているだけだ。
「報道の自由」は発信者の責任が裏打ちされていてこそ成り立っている。ペンは剣よりも強く、報道は時に権力を糾す「正義」にもなるが、時には人を殺す「暴力」にもなりうる。
「新聞報道」は民主主義の根幹につながるもので、「雑記帳」とは違うはずだ。