今日は旧町内から東部方面を年末の挨拶に回った。あちらこちらで様々なご意見や情報を聞かせていただきながら、夕方まで回った。
今年は、オリジナルカレンダーを作った。1枚で12ヵ月が見れるものです。たくさん作ったので、欲しい方がおられたら差し上げます。
年賀状にも、ようやく手をつけた。これからプリントや宛名書き、宛名貼りなど、年を越しても終わりそうにない。出すのは、新年に入ってからになりそうだ。すみません。
今朝は、小源太も涼子も復活して元気になっていた。しかし、大事をとって、小源太は今日から冬休みに入った。
あちこち年末の挨拶に歩いていると、「選挙の情勢は?」と訊ねられることが多い。三つ巴選挙は、なかなか情勢判断がつかない。
今日は、「“人事を尽くして、天命を待つ”という言葉があるが、“天命を信じて、人事を待つ”という言葉もある」と教えていただく方があった。
その方は、「まあ、真面目にやれば、いずれ目の前に“勝利の神”が見えてくるから」とおっしゃった。早く見えてほしい。
腸風邪がわが家で猛威をふるっている。涼子は治りかけだが、次は妻が発症し、今日は小源太に感染した。
今日は大志万さんに誘っていただき、「綾部フットサルフェスティバル」を見学に行った。
同級生の相根澄くんは、フットサル日本代表にもなった名選手だ。彼が“K9”というグループを結成して、全国をフットサルの普及に回っているそうだ。
新聞などで相根くんの活躍を目にしていたが、直接出会うのは、ずいぶん久しぶりだった。爽やかなアスリートに成長し、自信に満ちていて格好良かった。
200人ほどの子どもと保護者が集まって、試合や練習指導などのイベントがあった。
DJの方が司会をしておられて、質問にすばやく答えた子どもに、どんどんプレゼントをして、積極性を引き出そうとしたり、「どんどん話をして、コミュニケーションをとって下さい」という指導があったり、興味深かった。
フットサル人口は、日本ではサッカー人口の倍あるそうだ。相根くんはその第一人者として、尊敬を集めて頑張っているようだった。
あやべ市民新聞社、FMあやべの主催による立候補予定3氏の公開討論会が動画配信されています。
現在、市民新聞でも連載中ですが、質問ごとに分かれていて見やすくなっていますので、ぜひご覧下さい。
どうも涼子に腸風邪が感染してしまったようだ。あの元気な涼子が夜中に何度か吐き、朝からすぐ横になろうとする。
インフルエンザかとも疑われたが、それは陰性だったらしい。
夜22時、弟一家がドバイから帰国したので、京都駅まで迎えに行った。インフルエンザになるとドバイに戻れなくなるそうで、三人とも恐れてマスクをしていた。
いとこの優雲ちゃんに会うのを楽しみにしている小源太は、風邪をひかずにちゃんと会って遊べるだろうか?
1才5ヶ月の涼子はネクタイや鉢巻をタスキがけしては、僕に握手を求めてくる。たぶん、選挙の真似をしているのだろう。いつの間に覚えたのか。
そして、握手の後は両方の手で僕の頬を撫でる。これは自分がされているのを覚えてやっているのだろう。
さすがに最近、忙しいのと体調不良とで、日記を書いていなかったので、まとめて書いた。
夜中、風呂に入ろうとしたら、“ゆず湯”になっていた。もう冬至なのか…まだ全然年賀状には手もついていない。
朝から熱っぽい。お腹が痛い。腸風邪かもしれない。
苦しい状態ながらも、会議に出て、昼には戸村くんが京都から連れて来てくれた飲食店オーナーに卓ちゃんと出会ってもらった。
農家にとっても、飲食店にとっても、両者にとって喜びのあるビジネスモデルが立ち上がれば良いなと感じた。卓ちゃんもそう思ってくれたようで、今後、少しずつでもそういう方向に進んでいってもらえば嬉しいと思う。
午後、苦しさはさらに増すが、製作すべきものがあり、なんとかやりこなす。
夜は、ある企業のクリスマス会にご招待いただいたので参加した。輝くんと二人、一番上座に席をいただき、恐縮した。
80名ほどの取引先や従業員の方々に名刺を渡してご挨拶して回った。若い方も多く、ありがたい機会をいただいた。
朝から、明日の自民党綾部支部政治経済懇談会の準備に忙殺された。
午後は、あやべ市民新聞社とFMいかるの主催による「市長選立候補予定者討論会」に山崎ぜんや陣営の立会人五人のうちの一人として参加。
こういう機会を作っていただくことは、ありがたいことだと思う。政治への関心も高まるきっかけとなるのではないかと思う。
夜は、天理教綾ノ本分教会青年部の忘年会に参加した。
午前中、小源太と一緒に聖マリア音楽院のクリスマス会に行った。
音楽院に着くと、「保護者は二階に…」と案内され、京都府による“子どものほめ方教室”に参加した。他はみんなお母さんばかりで、男は僕一人だけだった。
一番前の真ん中で話を聞いていると、「寸劇をするから、協力者を募集します」ということになり、駄々をこねる子どもの役をすることになった。あのムードで芝居をするというのは、恥ずかしいこと、この上なかった。
クリスマス会では、ユニセフ京都綾部友の会の皆さんの紙芝居なども見せていただいた。
11時半頃になり、うちの母が代わりに来てくれたので、バトンタッチして、次の用事に向かった。
午後は、奥上林のふきのとうで京都遊技業連盟からの車両の贈呈式に出席した。理事として、テープカットもした。
夜はNEXTの例会と忘年会だった。
先日から、小源太が「お弁当はブールのパンがいい」と言っていたので、今日はその望みを叶えてあげた。
今度の日曜日、20日に谷垣総裁を招き、自民党綾部支部主催の『政治経済懇談会』を開催する。
チケットがほぼ目標としていた販売数に達したので、今度は出席者の確認と席決め、当日までの最終準備などで忙しい。
午後は阪田恵一さんの葬儀に参列。久保田建設の社長を引退された後、フロンティアの運転ボランティアとして活動された。中上林支部長も務めていただき、僕も大変お世話になった。
フロンティアが新事業を始めるとき、阪田さんはいつもまず慎重論を唱えられた。「わしゃぁー、フロンティアがそんなことは、せんでも良いと思う」と。
なぜ、フロンティアがそれに取り組むのか、時間をかけて説明をすると、「ほうか。分かった。それなら頑張れ!」と一転、力強く応援していただけた。
「お前らがあれこれ手を出して、大変になるんやないかと、わしは心配しとんや」といつも、気遣って下さっていた。
僕の選挙も、熱心に応援して下さった。
選挙後、本当に数日後、病気で倒れられた。あまりにも熱心に応援して下さっていたので、落選のショックが病気につながったのではないかと申し訳なく思った。
しばらくして、舞鶴の病院にお見舞いに行った。僕を見るなり、顔をクシャクシャにして、感情を昂ぶらせ、何かを語りかけながら涙を流された。
身体が不自由になられたものの、家では動くことができ、言葉も話せるまでに快復された時は、本当に嬉しかった。
最近はご無沙汰していたところに、突然の訃報が入ってきた。
棺の中の阪田さんは、きれいな顔をされていた。今にも話し出されそうな、眠っておられるようなお顔だった。
心よりご冥福をお祈り申し上げます。
今週から、妻と子らが帰ってきた。
妻は下の二人にかまう時間が多くなり、小源太は少し淋しそうだ。朝起きると僕の布団に入ってきて、しばらく一緒に寝る。
朝、音楽院に行く時の話題は“ドラゴンボール”で、「パパー、スーパー神龍知っとる?」と聞いてきて、「ナメック星のなんやらかんやら…」と教えてくれる。
涼子はいっぺんに“お姉ちゃん”になり、温二郎が泣くと「バッバーイ、バッバーイ」と意味不明なことを言いながら、お腹をポンポンなでてあやしている。
一日、十回以上、温二郎にキスをするなど、とても可愛がっている。
民主党が『新しい陳情ルール』という滑稽なものを主張している。「全ての陳情は民主党を通せ」というもので、メチャクチャなルールだ。
市民の代表である首長が、特定の政党を通さなければ国に話ができないというのは、独裁国家の在り様だ。ナチスとか、中国共産党とか、イラクのバース党とか、朝鮮労働党とか、民主党が目指す国家像は本当に危うい。
綾部市長選でも、民主推薦候補はそういう“独裁制度”をご丁寧に説明し、支持を集めようとしておられるようだが、民主党の何が衆院選で支持されたのかを読み誤ると、大敗した自民党の二の舞となることだろう。
年末から年初にかけて、政界に何かが起こる予感がする。
昼過ぎに、天理教綾ノ本分教会の月例祭の後の直会にお邪魔した。皆さんと一緒に鍋を食べさせていただいた。あたたかくて美味しい鍋だった。
夕方、久しぶりに、山崎ぜんやさんと共に街頭に立った。
少しずつ感じが出てきているが、まだまだ大きな流れにはなっていない。
夜にNHK教育で、囲碁の藤沢秀行名誉棋聖の特集を放送していた。
もちろん直接お会いしたことはないが、僕もお出会いしたことがある方々、息子の一就さんや晩年の弟子だった高尾紳路さんらが、藤沢先生について語っておられた。
一就さんとは、東京にいる頃、テイケイの高花会長にご紹介いただいた。今日のテレビにも、しっかりテイケイの新宿支社が映っていた。
高尾さんは奥さんが綾部に住んでおられたことがある縁で、以前に夫婦で綾部に来られて、昔の住まいがあった神宮寺あたりをご案内したことがある。
藤沢先生は良くも悪くも昔の日本人、二度と戻ってこない囲碁界の“宝”だったんだなあと思う。“宝”は近づくと恐いので、直接会うことがなく、遠くから拝見させていただけて良かったと思った。ご家族は本当に大変だったと回顧しておられた。
藤沢先生が晩年、『迷走』という字を書かれていた。
人生、迷いながら走り続ける、「いつまで経っても、碁のことが分からない。一生勉強だ」とおっしゃっておられたそうだ。
なんでもすぐに分かったような気になってしまう今の時代、ある意味、とことん真面目に生き抜かれたんだと思う。