四方源太郎日記(京都府議会議員・綾部市選挙区)

これからの綾部のために、さらなる「挑戦」を!

ラピタ土器研究の権威、サマーヘイズ教授が来綾

2023年12月01日 | 歴史の探求

 121日㈮早くも師走に入った。

 9時から綾部中学校(小林治校長)学校運営協議会(会長:四方源太郎)出席。授業参観をしてから、約1時間、委員の皆さんと学校との意見交換が行われた。

 私から先日の北海道の学校視察で感じたことこれからの教育について考えていることお話した。

 「まずは子ども達が何をしたいのか?」、それを出してもらって、我々はその子どものやりたいことを応援するという姿勢で臨み、現在の公民館活動などの既存の仕組みに子どもを当てはめようとするのは難しいのではないかとも述べた。

 今年の綾部中学校は先生方も生き生きとしているように思うので、生徒や保護者の満足度も上がっているという学校アンケートの結果も出ていた。

 

 12時半には綾部市資料館へ。昨日から綾部旅行に来ておられたニュージーランド・オタゴ大学のサマーヘイズ教授(考古学)と大学生の娘さんのキョウカさん、その友人のミアさんをご案内した。サマーヘイズ教授は1月末まで日本におられ、娘さんとその友人は1ヶ月ほど、日本旅行に来たとのことだった。

 昨日黒谷和紙づくりの体験をされて奥上林の農家民泊に泊まり、今朝は味噌づくり体験の後、光明寺二王門を観て来られたそうだ。

 サマーヘイズ教授は先日、丹後の古代の歴史を調べる旅をされ、今日は綾部に来られた。当初、私市円山古墳に行くとおっしゃっていたが、まずは資料館の展示で全体像を把握されたらどうでしょうか?と提案した。

 資料館の方「説明できる者を呼びましょうか?」と親切に言ってくださったので、ここにおられるのかと思ってお願いすると、岡坂敬子館長と技師さんがわざわざ市役所から来られた。

 サマーヘイズ教授は説明にうなずき、館内を興味深く観て回られて様々な質問をしておられた。

 教授はラピタ土器研究の世界的権威であり、ラピタ土器とは台湾にルーツがあり、人類史上初めて遠洋航海をして太平洋の島々に住み着いたラピタ人が使っていた土器のこと。1952年、ニューカレドニアで発見された。ラピタ文化は3600年ほど前にメラネシアで発生したものらしい。

 資料館に展示されていた石斧を観て、教授は「これは2万年前の石斧と形状がよく似ているのでそうかもしれない」とおっしゃっていた。本当にそんなものがあるとすれば凄いことだ。

【追記】サマーヘイズ教授から、改めて教えていただきました。

 縄文時代は約12000年前から10000年くらいまでの間で氷河期が終わる頃から始まっている。2万年前はまだ旧石器時代なので、綾部でも旧石器時代の痕跡があり、綾部市史にも旧石器時代の石器が昭和40年代後半に綾部で発見されたことが記されている。

 沖縄県の石垣島でも人類の歴史は4千年程度と考えられていたが、サマーヘイズ教授らが西表島で見つけた石器が旧石器時代に似ていると論文を書いたところ、沖縄の考古学者から袋叩きにされた。

 その後、石垣島での空港開発で2万7千年前の人骨が発見され、サマーヘイズ教授の推論が正しかったことが証明されたそうだ。

日本経済新聞2017年5月19日付「石垣島で国内最古の全身人骨 2万7千年前と推定」

 

 資料館見学後昼食「ひと粒」にて。娘さん達はカレーうどんが大好きだそうだ。ニュージーランドにはカレーうどんはないそうで、「それならニュージーランドでカレーうどん店を開いたら儲かるのではないか?」と勧めた。

 日本の食べ物で何が一番好きか?と聞くと、和牛のステーキだと答えてくれた。

 昼食後に記念撮影して別れ、教授一行は綾部特産館に向かわれた。綾部の抹茶などを買われるそうだ。

 

 15時、先日着任された新しい綾部警察署の中田勝康署長が事務所に挨拶に来られた。

 前署長がご家庭の事情で転勤された後任で、綾部市内の治安情勢のことなど、いろいろとお話をさせていただいた。

 

 18時半から、あやテラスにて、綾部市スポーツ協会(小寺哲朗会長)納会に出席した。久しぶりに人数制限のない納会となった。

 終了後綾部市空手道連盟の皆さんと二次会へ。消防団の方々との飲み会後に綾部まで一緒に来られた片山誠治府議とも合流した。


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スイダニ氏、タリフィル氏に綾部を案内

2023年10月08日 | 歴史の探求

 日㈰朝9時奥上林の鳥垣にある「和宿オリジン」へ。昨日、ソロモン諸島からお越しになったダニエル・スイダニ前マライタ州知事一行をお迎えに行った。

 まずは君尾山の光明寺二王門にご案内した。森の寺」事業で英語の案内板もあって、説明ができて良かった。

 下山後、「二王の栖」でコーヒーを飲んで休憩。その後は里山ゲストハウス「クチュール」を経営する工忠照幸さん企画された「もち米の稲刈りイベント」に参加した。

 今回の宿探し「英語が通じる農家民泊ありませんか?」とお二人を受け入れた早川理恵子さんから質問があり、工忠さんを紹介したが、工忠さんの宿が満室だったのでオリジンさんを紹介していただいた。

 ついでに「稲刈り体験はどうですか?」と勧めていただいたので、鳥垣の集落内での稲刈りイベントに半日参加させてもらった。

 鳥垣集落の皆さんが有機無農薬で育てられたもち米を収穫体験するイベントだった。稲木で干すという本格的な稲刈りで、このもち米を使って年末には餅つき大会が行われるそうだ。体験には大阪、兵庫などからお子さん連れなど、20名ほどの方が参加されていた。

 綾部市遺族会の熊内輝夫会長も鳥垣にお住まいで、今日は稲刈り指導をしてもらった。スイダニ氏は稲刈りは初めてで、タリフィル氏は高校生の時に体験したことがあるそうだ。

 途中で手刈りの機械に興味が湧いたようだった。熊内さんは「50年前の機械で、もう日本では売ってへん」とおっしゃっていた。志摩機械の山下くんの指導で機械の体験もさせてもらった。

 彼らは貸してもらった「長靴」も気に入ったようで、僕が履いていた柔らかい素材の「長靴」にも興味が湧いたらしい。「これで水にも入れるのか?」「いくらで買えるのか?」と興味深々だった。

 次の予定があったので、早めに昼の弁当を食べ、先に失礼した。スイダニ氏「政権を取り返して、必ず良い国にしますから、皆さん、ソロモン諸島にお越しください!」と挨拶し、拍手喝采を浴びておられた。

 

 午後はまずグンゼスクウェアに行き、グンゼ博物苑を見学。ここにも英語表記があれば、もっと理解してもらえるのになと感じた。

 グンゼ集蔵で開催されていた「あやべ写真サロン展」を見学した。綾部の四季の風景を観ることができて、「美しい」と喜んでおられた。綾部には雪がたくさん降ることも見せてあげることができた。

 続いて、あやべ特産館へ。スイダニ氏は昨日飲んだ抹茶が気に入られたそうなので、綾部抹茶を買って差し上げた。

 タリフィル氏が「どうしても買いたい」と言っていた「長靴」を求めてストックへ。28センチまでのサイズしかなく、タリフィル氏には小さいようにも思ったが、彼は「これでいい」と言う。

 次の選挙では「泥のぬかるみの中を歩いて選挙運動しなくてはならないから」と言うので、「これで選挙に必ず勝ってね!」と二人に長靴をプレゼントすると大変喜ばれた。ストックの「長靴」で必ずや勝利してほしい。ワークマンの方が良かっただろうか?

 アスパアイスクリームを食べて休憩。彼らはシューズベルでサンダルを買っていた。

 15時からは綾部中学校吹奏楽部全国大会出場記念コンサートに行った。(コンサートの詳細は別途書きます)

 最後今日明日の食べ物の買い出しスーパーマーケットへ。アテンド役の早川さんは大変お疲れで、明日は一日動かずに家でお休みされるとのこと。明後日からは静岡県の焼津市に行かれるそうだ。

 最後は綾部駅へお送りしてお別れした。選挙に勝って、また会いましょう!と激励した。

 タリフィル氏からは後で「Good evening my friend. Thank you for every help you have done for us and especially the two shoes. Celsus」というメッセージ送られてきた。「長靴」をずいぶん喜んでいただいたようだ。

 昨夕「我々が綾部に来て、皆さんにとって何か意味があったのだろうか?」と問いかけていた。高橋輝くんと相根一雄さんは即座に「意味があった!」と応え、タリフィル氏はホッとした表情を浮かべていた。

 彼らは「何のために綾部に来たのか?」。大本、上林、君尾山、稲刈り、水源の里、グンゼ、綾部茶…。彼らは原点のパワーを得るために綾部に引き寄せられたのだと思う。だから、「オリジン」という名の宿にも泊まることになったのだろう。

 エディ・マーフィー主演の映画「星の王子 ニューヨークへ行く」のような二日間のお付き合いだったが、私にとっても目を開かされたような二日間だった。

 「首相を目指す」という彼らの夢が実現してほしいと願っている。


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山家歴史の会の鮎茶屋懇話会

2023年09月16日 | 歴史の探求

 16日㈯12時から、山家歴史の会(有道大作会長)の主催による「鮎茶屋懇話会」に出席した。私は子どもの頃から歴史が好きで、特に綾部の郷土史には関心が深いので、2ヶ月ほど前有道会長のお誘い山家歴史の会に入会した。

 山家地区上林川と由良川の合流点に位置しており、ここで獲れる鮎は美食家、北大路魯山人が「日本一の鮎」と絶賛したとして知られている。

 毎年、やな漁も行われてきたが、災害とコロナの影響で今年もやな漁は行われていないが、この三連休に鮎茶屋がオープンし、鮎の塩焼きなどが販売されている。

 山家歴史の会では山家城址が国指定史跡になるように働きかけや取り組みを進めておられ、今日そのための学術的な支援をしていただいている亀岡生涯学習市民大学黒川孝宏学長(元亀岡市文化資料館長)龍谷大学大学院文学研究科長である國下多美樹文学部教授にもお越しいただいた。

 綾部市山崎善也市長、綾部市教育委員会村上元良教育長らもお越しになっていた。

 山家城江戸時代初期山家藩1万石の初代藩主、谷衛友公が築いた城幕末まで谷氏の居城であった。近年、石垣や井戸が発掘されて整備されるなど研究が進んでいる。

 城がハードなら、城主はソフト。「谷の殿様」はもっと綾部市民が知って広める価値のある大名であると思う。なぜなら、綾部市域の多くは谷氏の領地だったからだ。

 そういった話を黒川先生や國下教授と話している時、隣りに村上教育長がおられ、「教育長の出身地の志賀郷の内久井は山家谷氏の分家である十倉谷氏の領地だったと思いますよ」と話した。内久井、金河内、坊口、仁和などの方々で守っておられる阿須須伎神社毎年2月3日の茗荷祭で占った稲の吉凶を十倉谷氏に報告していた。坊口や仁和は兵庫県柏原の織田藩領だったようなので、それはどうだったのか分からないが…。

 2019年12月11日に発行した「げんたろう新聞」135号コラム由良川にも、山家の谷氏について下記のように書いていた。

山家城址での「もみじ見物」を兼ねて「山家郷土歴史資料館」を見学した▼案内いただいた有道大作さんから「山家藩領の村々と石高について」という資料をいただいて気がついた。現在の綾部市域の半分以上は山家藩主・谷氏が領有していた▼九鬼氏の綾部藩は「綾部」を名乗っているので、綾部市のほとんどは綾部藩だと考えがちだが、実は分家も含めた山家藩の支配は、現在の山家地区だけでなく、口上林(十倉)、西八田、東八田、吉美、志賀郷、豊里(位田)、中上林(五泉)、奥上林(光野、老富、小仲)と実に市域の半分以上に及んでいる▼山家藩の初代藩主・谷衛友は美濃国(岐阜県)の生まれ。信長、秀吉、家康に仕え、天正10年(1582年)に山家に移封された。数々の武功を上げ、秀吉の九州征伐では味方の草履を引っ張り、倒してまで一番乗りの功名を立て、秀吉に勇敢さを称賛された▼関ヶ原では西軍につき、田辺(舞鶴)城の細川幽斎を攻めたが、攻撃では空砲(谷の空鉄砲)を撃ち、家康に所領を安堵された▼加藤清正に「バカ」と罵られたと勘違いし、清正の膝を足で押さえて、その脇差に手をかけ、清正を恫喝したという豪快な逸話も残されている▼来年のNHK大河ドラマには「谷の殿様」が登場しないかも注視したい。

 清流の流れる音を聞きながら、炭火であぶられ、パリッと焼かれた美味しい鮎を食べながら、歴史談議に花を咲かせた楽しいひと時だった。


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山家駅から上林をつなぐ構想

2023年08月19日 | 歴史の探求

 19日㈯9時過ぎから1時間半ほど、綾部中学校と桃映中学校の野球部の練習試合見学に行った。新チームでの初めての練習試合だった。

 他のクラブでも、綾部中学校の生徒たちは近畿や全国の大会に数多く出場し、頑張っている。

 温二郎は新チームでは副キャプテンとなり、以前よりは少し動きが野球選手らしくなってきた。今日も定位置のセカンドの守備についていた。

 打つのは重心が後ろにあって打てそうにないので、ファーボールでも何でも出塁することを心がけてほしい。

 セフティスクイズのサインが出て、バントはできたが、転がした位置が悪く、三塁走者は突っ込めず、自分もボールの位置を確認して振り向いたこともあり、一塁でもアウトになった。

 

 11時からは建築デザイン事務所アトリエボンド代表の戸村聡里くんの依頼で、Trip Hut(トリップハット=旅する小屋)の共同事業者である志賀郷杜栄今西恵一社長西村工務店の西村昌代社長と、今回新たに綾部に来られた金融機関や税理士法人の関係者などを案内して、綾部市の東部地域を巡った。

 戸村くんは、山家駅を起点、あやべ温泉を終点として、府道小浜綾部線(府道1号線)の沿線にある飲食店や宿などを線で結び、「上林」の観光や農産物をブランド化して付加価値を高めよう考えてくれている。

 私には山家や上林の歴史や風土を説明してほしいと依頼があって、同行した。この企画を持続可能なものにする意味でも、コンセプト(志)をしっかり共有しながら、経費を賄う利益が出る事業でなければならないので、今回金融や会計、まちづくりの専門家に来てもらって、企画をブラッシュアップすることが目的だった。

 最初は起点である山家駅を訪ねた。山陰本線で綾部駅の手前にある無人駅で、普通列車しか停車しない。時々、寝台特急瑞風が停まる。(乗降はできない)

 京都府以前、山家駅の駅再生事業に取り組んだが、駅の外側に「道の駅」を創るのが事業の中心だったので、実際に駅のホームに立ったのは初めてだった。戸村くんここを「上林」への旅の起点にしたいと考えているが、駅の横断橋の目隠しで山家の美しい風景が見えないのが残念だと言う。

 目隠しがなければ、こういう絵になる風景が一望できる。

 駅を出ると目の前に開ける風景にも大きな魅力があると力説してくれた。

 京都市から1,000円ちょっとで来れるので、夏休みなどに幼いお孫さんを預かる時、おじいちゃん、おばあちゃんが孫を電車に乗せて山家駅に着くと、そこには様々な自然を活かしたアドベンチャーワールドで楽しめるようにしたい以前から私も考えている。

 

 その後は山家駅から歩いて5分ほど上原橋(吊り橋)へ。由良川の絶景を望む。

 東山町へ。ここは京街道(舞鶴から京都へ向かう田辺街道)と上林を経て若狭に通じる若狭街道の分岐点に位置し、江戸時代には旅籠や商店などが立ち並ぶ宿場町であった。また、山家藩の城下町でもあった。

 街道から川の方に下る上林川と由良川の合流点東山公園があり、散策路などが整備されている。下る途中の道には空家が多いが、戸村くんに言わせると昔の家や蔵の土壁の土はサスティナブルな家づくりの材料として、大変価値が高いそうだ。

 有道佐一画伯の自宅はちょうどこの上にあるが、ここの風景は有道画伯の絵そのもので感動した。この散策路は「サイチ有道」という道にしたらどうだろうか?

 関西電力の水力発電所もある。橋上町から水を取って、水路で流し、ここで川に落としてタービンを回し発電する。

 続いて、口上林十倉中町にあるオーベルジュKIKUYAに案内し、店主駒井靖さん紹介した。駒井さん上林の活性化に協力したいと思っておられるので、この先、良い関係が構築できないか考えている。

 続いては奥上林の集落へ。Trip Hutのモデルハウスを建てる補助金を申請中で、申請が通れば、それを建てる場所をどこにできるかと検討中だ。

 上林谷にはもっと魅力があるのだが、移動距離もあり、4時間くらいでは全く時間が足りなかった。今回は「風景」に視点を置いた巡り方をしたが、他にも「歴史」「食」「宗教」「スポーツ」「生態系」「健康」「川」などいろんな巡り方が考えられると思う。

 最後橋上町の集落を抜けて、山家城へ。戦国末期には豪族和久氏が治め、豊臣政権下では谷氏が大名として入り、幕末まで谷氏の山家藩の中心として栄えた城である。

 山家城から東山集落を望む。左奥には東綾小・中学校の白い建物が見える。

 

 夕方には志賀郷杜栄の事務所にて、今後の事業展開や採算性、マーケティング、資金確保の方法などについて、今日の視察結果も踏まえて議論した。

 18時過ぎからはさらに志賀郷杜栄の作業場に場所を変えてBBQをしながら、議論は23時過ぎまで続いた。こうやって企画を叩き上げていくことで、良いものになっていくのではないかと感じた。

 Trip Hutは日本人に新しいライフスタイルを提案する商品として、綾部の森林整備、空家活用、移住定住などにつながるため、成功させるために私も協力したい。


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ルナウェアの岩本社長と

2023年05月09日 | 歴史の探求

 日㈫午前中「げんたろう新聞」を配りに、あやべ台団地多田町へ。田植えなど農作業に皆さんお忙しそうだった。

 

 午後京都府の今年度の事業箇所の説明に、中丹東土木事務所長中丹広域振興局の農林商工部長らがお越しになった。

 綾部市内でも事業は着々とは進めていただいているが、中丹東土木事務所管内では舞鶴市内で約30億の事業に対し、綾部市内では約10億と大きな開きがある。これが少なくともここ20年ほど続いており、そろそろ綾部に大きなお金を回していただく時期ではないかと思っている。

 農林事業に関してはそんなに差があるわけではなく、綾部市内でもほ場整備、治山事業、ため池改修、森林整備などを進めていただいている。

 

 同級生由良ノリエちゃんからの誘いで、コドモエナジー㈱(大阪市)岩本泰典社長を紹介してもらい、一緒に会食させてもらった。

 コドモエナジー㈱では「ルナウェア」という有田焼を加工して作る「光る石」を使った商品を販売しておられるそうだ。漫才師シャンプーハットてつじさん綾部で古民家を購入して活動していることから綾部との縁ができ、何度かお越しになっているそうだ。

 岩本社長第4回ものづくり日本大賞(経産省所管)内閣総理大臣賞を受賞されるなど、アイデアと行動力で様々な事業を展開しておられるとのこと。本社は大阪市だが、工場は福島県の川内村にあり、震災復興にも協力しておられるそうだ。

 なぜ綾部が人を惹きつけるのか、それはこの土地が持つ「力」なのだと思うが、「力」のあるところで生きていくには、その「力」に負けないだけのエネルギーは必要だ。だからある意味苦しいし、うまくいかないことが多い。マラソン選手が高地ではタイムが出ないように、綾部は精神的修養にはなるが、ここではなかなかうまくいかないという土地柄があると思っている。

 それにはこの土地や人にまつわる歴史が深く関与していると考えており、そういうことの話をいろいろとさせていただいた。長い目でお付き合いいただければと思っています。


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故小渕元総理の奥様と娘さんが来綾

2022年11月28日 | 歴史の探求

 28日㈪朝から京都へ。12時半から議員団会議、13時半から府民環境・厚生常任委員会の正副委員長会に続いて、14時から委員会が開催された。

 大阪商業大学原田禎夫准教授参考人にお招きし、「京都府の廃プラスチック資源循環対策」について、説明をお聴きし、意見交換した。原田准教授亀岡市にお住まいで、NPO法人プロジェクト保津川の代表理事として、亀岡市のプラスチック袋の廃止を市民活動の側で推進してこられたそうだ。

 

 16時に終わり、急いで綾部に戻って、17時半過ぎに神宮寺町にあるオーガニックレストラン「綾部つむぎ」に行った。

 合気道吉照塾・綾部道場の責任者であり、福知山市㈱ホクシンリフトを経営しておられる川勝優さんから、故小渕恵三元総理の奥様長女小渕暁子さん綾部にお越しになっているとお聞きし、挨拶に伺った。川勝さんとは私が顧問を務める綾部市武道協会でご一緒して親しくさせていただいている。

 暁子さん小渕優子代議士の実姉イラストデザイナーで、同行しておられたご主人鈴木光知さん服飾デザイナーをしておられるそうだ。

 川勝さんと小渕さんは旧知の間柄で、小渕さんが今、京都で展示会を開催しておられて、そのついでに綾部まで足を運ばれたとのことだった。福知山出身の日本画家、佐藤太清先生と小渕家は家族ぐるみで懇意にされていて、の縁で福知山には何度かお越しになっているそうだ。

(写真は左から小渕元総理の奥様、長女の小渕暁子さん、私。後列は左から暁子さんのご主人の鈴木光知さん、川勝優さん)

 今回はずっと訪ねたいと思っておられた大本本部を参拝されたそうだ。綾部のことを紹介した本をいくつかお渡しし、綾部の歴史やスピリチュアルな話を少しさせてもらった。「今度は綾部のスピリチュアルポイントをご案内しますので、ゆっくりお越しください」とお誘いした。

 30分ほどお話して、記念撮影して失礼し、18時半からは親しい方々との忘年会。


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世界連邦・夫婦別姓の勉強会、Eバイクでホタル狩り

2022年06月25日 | 歴史の探求

 25日㈯、午前中は事務所にて、事務仕事来客

 午後は世界連邦市民学習会に参加した。「世界連邦運動の必要性~ウクライナ侵攻をふまえて」題して明治の元勲、木戸孝允の子孫で、昭和天皇に仕えた木戸幸一内大臣の曽孫である木戸寛孝氏(世界連邦協会 常務理事)講師を務められた。

 木戸さんのお話2014年3月16日にも世界連邦の学習会拝聴した。その日のblog 四方源太郎日記「時代は回転する」こんなことを書いている。

 市民センターで、綾部世界連邦運動協会(鹿子木旦夫会長)の《まちかど講演会》を聴講。明治の元勲、桂小五郎(木戸孝允)の子孫で、昭和天皇に仕えた最後の内大臣、木戸幸一氏の曾孫にあたる木戸寛孝さん(世界連邦運動協会 常務理事)が「展望! 2020―近未来のリスク社会を読み解く!」と題して講演された。

 「時代は回転する」というのは、僕もよく理解ができる。
 これをできる限り、受け止める方がニュートラルに受け取れるように話すのは難しいが、そういうテーマを初対面の様々な思想ジャンルの人たちを前に、オープンな場で説明するという難しいことに果敢にチャレンジされた講演だった。
 そこに大変意義深いものを感じた。

 ただ、どこで回転するかと考えるポイントをズラすことで、未来の見え方もずいぶん変わってくるので、そのポイントの位置は僕のポイントと40年の違いがあるなあと思いながら聞いた。

 

 今日も同様の感想を持ちながら、その未来を読む力に恐れ入った。時代のポイント位置の「40年の違い」と自分で書いておきながら、どういうことか忘れていたが、80年+40年=120年ということだったのだろう。

 大本出口王仁三郎、すみ夫妻が結婚した「結び」の1900年から120年後の2020年何かがあると思って新年を迎えたら、コロナ(567)に襲われた。みろく(五六七)の世への胎動、再びの「結び」が始まったのだろう。

 

 15時半からは自民党綾部支部役員等に呼びかけての勉強会「選択的夫婦別姓について」を開催した。

 この勉強会を持ちかけてこられた選択的夫婦別姓・全国陳情アクションという団体通山潔くんは、先祖のルーツが綾部の奥上林にあり、今でもお墓と家があって、お父さんがその管理しておられるという。綾部とのご縁もある方なので、お引き受けした。

 今日の勉強会は賛成、反対と議論するものではなく、今後、そういった議論をする際の参考としていきたいと考えている。選択的夫婦別姓に反対の人たちの意見も聴いてみたいという声もあったので、そういう機会もできれば良いと思っている。

 自民党という政党は、政権政党として、様々な意見を包含できる度量がなければいけないと思っている。

 以前、共産党の中島祐子市議「ヨウ素剤の事前配布について、自分たちの想いを聴いてほしい」言って来られたので、与党市議と綾部市の担当職員に呼びかけて勉強会を開催したことがある。賛否双方の意見を聴いた上で、適正管理の点でヨウ素剤の事前配布はしない方が良いと思う中島市議には私の考えを伝えたが、様々な意見を聴くことで「真釣り」、すなわち、バランスがとれる。政治は「真釣り」事(まつりごと)と言われるように、バランスをとるために多くの意見を受け入れることが大切だ。

 山崎市長が最初の選挙に出る直前、旧知の京建労幹部と話をした際「京建労は共産党ではない。どこの政党の意見も聴く。綾部の事務所に〇〇という事務局長がいるから、役員会ででも話をさせて欲しいと行って頼んで来たらいい」とおっしゃるので、「そんなことないだろう」と思いながら、お願い状を持って頼んだら、やっぱり返事もなく、なしのつぶてだった。政権政党ではないから、その度量はなくても仕方がないだろう。

 

 18時半からは中上林にIターンして農家民泊を営んでおられる工忠照幸さん企画された「ナイトEバイクでホタル狩り モニターツアー」に参加した。毎回、MBTミーティングに参加してくださっている村上小百合さんからお誘いいただいた。参加者村上さんとその娘さん、同僚の方だけだったが、綾部に長年住んでいてもできない体験をさせてもらった。

 最初は奥上林二王公園にある拍屋さんで上林鶏と地元野菜の鉄板焼きを食べた。卵かけご飯も美味しかった。

 20時になり暗くなったので、中上林の市野瀬公会堂に移動し、そこから市志に向かっての約3キロをEバイクで走行した。

 Eバイクとは充電式の電動自転車普通の自転車よりもずいぶん楽に走ることができる。帰り道はほぼペダルをこがなかったので行きはずっと上り坂だったのだが、それに気がつかないくらい楽だった。

 途中、ホタルがたくさん出ていたが、スマホではホタルは撮影できない。生で観るしかないというのも良いのだろう。「綾鷹」で有名な宇治茶の上林家の菩提寺があったとされる「上林殿塚」まで来ると、市志集落まであと500m。

 集落に着き、後ろを振り返るとホタルの大群が山を覆っていた。

 最近、奥上林のあやべ温泉の近くにオープンした「二王の栖」を経営する舞鶴の志摩機械で、奥上林担当の従業員として最近、入社した昆虫博士の山下くん解説してくれて、ヒメホタルも初めて観た。光り方が全く違った。線香花火のようだった。

 自動車では通り過ぎてしまうのだろうが、田舎の魅力再発見ツールとしてEバイクにも可能性を感じた。


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草の乱~秩父事件

2022年04月14日 | 歴史の探求

 14日㈭、夕方から北近畿クリーンエネルギー㈱松崎浩憲取締役藤本宏和企画課長と会って、京都府舞鶴エネルギー供給事業の進捗について説明を受けた。京都北部でのLNGの供給に関して、コンソーシアムへの参画企業の名前を正式に出せるようになり、ようやく事業の輪郭を発表できる段階に近づきつつある。

 夜には舞鶴池田正義府議にも合流していただき、会食。

 

 米農家の井上吉夫さんから案内をいただいたので、一昨日の夜志賀郷公民館での映画「草の乱」の無料鑑賞会に参加した。

 小源太も誘ったら来てくれるというので一緒に行った。映画が終わって立ち上がったら、後ろの席に父がいた。四方家三代で観るのは一昨年の「三島由紀夫VS東大全共闘 50年目の真実」以来だった。

 この映画を観たのは二度目。昔の日記を調べたら2004年(平成16年)11月27日に中丹文化会館で上映会が行われていた。小源太が生まれたのはこの年の8月で、翌9月に映画公開されている。

 前回観た時主人公である秩父困民党・会計長の井上伝蔵(緒方直人)の気持ちになって観たが、今回秩父困民党・総理の田代栄助(林隆三)の気持ちになって観ていた。当時は国会開設すらされておらず、民主主義が全くない時代困窮から逃れるには武装蜂起するしかなかったが、それが最終的には悲劇へとつながっていくことが分かっていた田代栄助の苦悩に共感した。前に観た時「なんと煮え切らないオッサンだ」と感じたように覚えている。

 もう一点エンドロールの最後JR東日本労組がメインスポンサーとして登場していたことにも、今回は気がついた。

 小源太と感想を話しながら帰った。

 

 また、その年の10月、秩父事件120年目(椋神社での決起は明治17年/1884年11月1日)記念して秩父出身井上直治さんが企画された「城峯山登山と秩父事件の跡をめぐる」日比谷一水会ハイキング旅行が開催され、10月30日、31日と初めて秩父を訪問している。

 記憶というのは曖昧なもので、秩父に行った記憶はあったものの、どういう旅だったか全く忘れていたが、日記に書き留めていたので、ここにも書いておきたい。2時間かけて山に登った記憶も全く欠落していた。

2004年10月30日「城峯山」

 朝6時過ぎに起きて、西武池袋駅に。そこで富山さん、高橋尚介さんら、日比谷一水会のメンバーとも合流した。今日は日比谷一水会のハイキングに久しぶりに参加した。

 東京にいた頃は、日比谷一水会(洋伯父が主宰する勉強会)の事務局をしていたので、ハイキングやゴルフというサークル活動にも時々参加していた。ハイキングは、富山さんと尚介さんが幹事をしておられる。今回は、井上さんの故郷である秩父を訪ね、「秩父事件」の跡を巡るハイキング旅行だった。

 秩父に着いたら、雨模様だった。民宿のご主人にバスを運転していただき、城峯山の登山口に行った。城峯山は標高1000mほどの山で、この山頂で秩父事件の秘密会合が行われていたそうだ。

 登るのは2時間程だったが、朝から何も食べていなかったので、空腹が苦しかった。雨も降っていて、登りにくい環境だった。

 下山して、民宿に行き、吉田町教育委員会で社会指導主事をしておられる秩父事件の研究家・篠田健一さんによる講義を受けた。ビデオも交えて、秩父事件の輪郭がようやくつかめてきた。

 夜は懇親会があった。こだわりの料理で、最後は手打ちそばも出てきて、おいしかった。

 

2004年10月31日「秩父事件」

 9時から、篠田先生にも同行していただき、秩父事件の史跡を巡った。秩父事件は僕は名前くらいしか知らなかったが、奥の深い事件で、今年「草の乱」(緒方直人主演、神山征二郎監督)で映画にもなった。

 単なる一揆や打ちこわしとは違う、新政府の藩閥政治による悪政を糾そうとする政治事件でもあった。事件が勃発したのは、120年前の11月1日。それに合わせての今回の企画だった。

 椋神社(吉田町、秩父市の隣町)に集まった3000人の武装農民(秩父困民党)は、高利貸を襲撃して、暴利の借用書を燃やし、大宮郷(現在の秩父市)の秩父郡役所を制圧した。ここに「革命軍本部」という看板を掲げる。ここに秩父困民党が何をしようとしていたのかが表れていると思う。

 困民党の指導者は、貧困に苦しむ農民ではなく、豪商や豪農、土地の名士達だった。映画では緒方直人が演じた会計長・井上伝蔵は、将軍家御用達の老舗「丸井商店」の主人で、地域の人たちからは「丸井の旦那」と慕われていた。伝蔵は事件後も2年間、自宅の近所に匿われ、34年に渡って逃亡生活を続け、最後は北海道で生涯を閉じた。

 井上伝蔵は事件の時、僕と同じ30歳だった。他にも20代や30代の若者達が幹部として、困民党を指導している。

 秩父事件の関係者は政府による苛烈な弾圧を受け、「暴動・暴徒」と決め付けられていたという。秩父市民でも20年ほど前まで、そういう評価が主流だったそうだ。それほど、時の政府が厳しく対処したということだろう。

 今日は、落合寅市の墓、加藤織平の墓、石間学習交流館、丸井商店跡地、井上伝蔵の墓、椋神社、伝蔵屋敷(復元)、常盤屋(当時の高利貸)、音楽寺、金仙寺(田代栄助の墓)などを見学した。

 秩父駅で解散し、再び東京に戻り、綾部へ向かう。21時25分の特急にギリギリだった。綾部に帰ってくるとホッとした。綾部と秩父は養蚕という共通点があるが、綾部の方がずいぶん豊かだなあと感じた。東国の厳しさは西国の比ではないなあと感じた。


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国連を世連に変え、世界平和の実現を!

2022年03月11日 | 歴史の探求

 11日㈮春の訪れを感じる朝であり、3.11東日本大震災の日でもある。

 午前中から府議会に向かい、午後に府民の安心・安全に関する特別委員会に出席し、「旅行業におけるコロナ禍の影響について」調査を行った。委員会の冒頭では黙とうをした。

 3.11この時代に生きた日本人が決して忘れることのできない日であり、災害対策、エネルギー供給、行政の在り方、社会の価値観など、様々な時代の大きな転換点となった出来事だった。

 お亡くなりになられた多くの方々のご冥福をお祈りすると共に、いまだ故郷への帰還ができていない多くの方々が早く元の生活に戻れるよう政府はもっと親身になって対策するべきだと感じる。

 原発事故は原発の30キロ圏(UPZ)に市域の半分が入る綾部市民にとって他人事ではない。国のエネルギー政策の犠牲となった方々が11年経ってもなお苦しんでおられる現実を目の当たりにし、私は綾部市の政治家として原発を推進することはできないと感じている。政府や電力会社の無責任さを見て、年々、その考えは強くなっている。

 世界ではウクライナへのロシアの侵攻に対する非難が高まっている。京都府議会でもロシアに対する非難決議を可決する予定で調整が進んでいる。

 今回のウクライナ侵攻で感じるのは「国連の無力さ」だ。

 国連第二次世界大戦の「戦勝国組合」で、今は「国連」と呼ぶが、戦争中は「連合国」と呼んでいた。

 今回のウクライナ侵攻は「戦勝国組合」の「内輪もめ」なので、国連は全く機能しない。これまではこういう事態には国連による制裁が発動されたり、国連軍や多国籍軍が派遣されたが、今回はそれができない。国連の安全保障理事会の5つの常任理事国(アメリカ、イギリス、フランス、ロシア、中国)は拒否権を持っており、このうちの1ヶ国が反対すれば決議できない。ロシアがロシアへの制裁に賛成するはずがない。

 敗戦国のドイツや日本は常任理事国入りを目指してきたが、いくら経済力があっても、この中には入れてもらえるはずはない。

 今回のウクライナ侵攻で改めて実感したのが、「国連では世界平和は実現しない」ということ。日本で最初の世界連邦都市宣言を行った自治体である綾部市は、今こそ「国連から世連へ!世界連邦による世界平和の実現!」世界に向かって声高に叫ぶ時だろう。

 安倍元総理らの言うような核共同化や核武装の「議論」を今からしても、それはロシアや中国に日本侵攻の口実を与えるだけだ。ロシアや中国の安全保障を日本の核兵器が脅かすからと言いがかりをつけられ、ウクライナと同じことをされるだろう。「議論」するなら、もっと早く(ベルリンの壁が崩壊した直後くらいのタイミング)ならあり得たかもしれないが、その当時ならアメリカに許されなかっただろう。北朝鮮の核査察などを行っているIAEA(国際原子力機関)本来、カナダと日本の核武装を監視するための機関だった。アメリカは日本の核武装を最も警戒していた。

 

 今から約20年前、2003年2月から2006年12月にかけて、「源太郎新聞」を45回発行した。今の「げんたろう新聞」の前身の新聞で、メールで周りの方々に送っていただけの新聞だった。

 その第28号(2005年6月3日発行)世界連邦について書かれた書籍、「国連を『世界連邦』体制へ」(長掛芳介著、近代文芸社、2005年3月)内容を掲載している。

 この本を読んで、世界連邦は単なる平和主義思想ではなく、たしか「EU(欧州連合)の世界版が世界連邦だ」というようなことが書いてあって、世界連邦は世界の枠組み転換のことなんだ意味が分かった同時にそれは今の世界の支配国からすれば過激な「危険思想」でもある。

 その本に引用されていた「世界連邦二十年史」の一文が印象に残ったのだろう、それを「源太郎新聞」に載せている。

 下記の文章だ。これからの日本を取り巻く国際関係は、すごく難しくなる。総理大臣のなり手があるのか、心配になる。

…世界連邦をいう前に、アジアを解放し、アジア連盟をつくろうという考え方があった。

 大陸派に属していた犬養毅とか頭山満、宮崎兄弟らと共に孫文、興黄らを助けて中国革命に奔走、アジア諸国の解放と独立を図るのであるが、彼らの思想は孫文の「大アジア主義」や北一輝の「中国革命外史」ないしは石原莞爾や松井岩根に代表されるように、その根底には「東亜連盟」または「汎アジア連合」の考えが横たわっていた。

 その彼らの思想の源流をたずねると、荒尾精、根津一、佐々友房を通して、横井小楠、西郷南洲に至るのである。

 この系譜はその後の日本の膨張主義と結びつき、あたかも東亜侵略を導いた帝国主義的思想のように解する向きがあるが、それは「大きな誤り」である。

 孫文の辛亥革命を助け、リカルテ、アギナルドのフィリピン独立運動を援助し、オツタマ僧正のビルマの独立、コンディ侯を中心としたベトナムの独立運動、ないしはケマル・パシャのトルコ革命といったアジア解放運動とアジア連盟の思想が、明治以後の日本の思想の一つの底流をなすのであるが、その源流である横井小楠の国家思想は、戦争と帝国主義の否定、道義国家の建設を通じての世界平和の実現であったのである」(世界連邦運動二十年史)と。


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合気道 開眼の地、綾部

2021年10月29日 | 歴史の探求

 24日㈰パネル展「綾部と合気道」(会場:グンゼ集蔵)見学に行った。

 綾部市合気道《開眼の地》であり、合気道創始者の植芝盛平翁綾部で暮らしていた頃に、合気道を武道として完成させた。

 綾部と合気道をつないだのは大本出口王仁三郎聖師であった。

 和歌山県田辺市出身北海道上湧別村開拓者として入っていた時「父親が危篤」との知らせを受け、北海道から和歌山に引き揚げる列車の中「綾部の大本で病気を治す」という話を聴き、そのまま綾部に来て出口王仁三郎聖師と出会い、綾部に居ついたとされている。

 しかし、列車の中の噂話だけで、危篤の父親のもとへ向かわずに綾部に来たというのは無理があるように感じていた。

 実はその頃、上湧別村の国有地の払い下げを受けて、北海道家庭学校が開校している。この学校の創設者である留岡幸助グンゼ創業者・波多野鶴吉に洗礼を受けさせた人物であり、綾部との縁もある。この国有地払い下げには田野町出身の田中敬造がかかわっていたのではないかと思っており、上湧別村で村会議員を務めていた植芝盛平との何らかの接点があり、綾部の様子を知っていたのではないかと考えている。

 二代目の植芝吉祥丸道主綾部で生まれ、綾部幼稚園の卒園生でもある。

 今回のパネル展のように、こういった歴史を綾部市合気道協議会(七良浴大吉会長)や植芝盛平翁顕彰会(木下芳信会長)の方々を中心に広めていっていただけるのは、綾部市にとってありがたいことだと思う。


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岩王寺の国指定重要文化財「髹漆卓」

2021年07月26日 | 歴史の探求

 26日㈪、午後から奈良国立博物館にて、国指定重要文化財「髹漆卓」(岩王寺蔵)撮影を行った。昨年度に引き続き「綾部 森の寺 海外発信プロジェクト」を展開しており、今年度岩王寺(綾部市七百石町)舞鶴市の二つの寺院が所蔵する文化財文化庁「文化財多言語解説整備事業」の助成を受けて、世界に発信するための取り組みを進めている。

 岩王寺松井真海住職同プロジェクトの役員である小林勝さんと共に綾部から出向いて、技術的な部分を担っていただいている㈱ギアチェンジ加藤洋さん撮影スタッフと現地で合流した。

 「髹漆卓」永享4年(1432年)が入っており、室町時代から本尊の前に置く台として使用されていたもので、大正14年に国指定重要文化財となっている。寺では管理が難しいため、奈良国立博物館に預けられている。

 照明を当て、プロカメラマンによって様々な方向からの撮影が行われた。上板の裏側に銘文が入っているが、ひっくり返すわけにはいかないため、撮影に苦労しておられた。

 3Dカメラでも撮影がなされたが、彫刻のすき間があり、撮影しにくいようだった。

 結構、重量感はあるそうだ。実物に触れられるのは住職と学芸員の人達だけだ。

 こういった「お宝」デジタル技術で拝観しやすくして、多言語化することによって幅広い世界の人達京都の「森の寺」を楽しみに来てほしい。


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20年前の自分

2021年07月22日 | 歴史の探求

 22日㈭今年はオリンピックの関係で、今日明日と祝日になるようだ。四方源太郎事務所も休みにすることになった。

 昨夕京都府第50回コロナ対策本部会議において、京都府内の感染拡大に伴って、京都市以外の府内の飲食店に対する時短要請は、7月25日まで」となっていたのを「8月1日まで」に延長されることが決まった。

 8月上旬には8月臨時議会が開催されると言われているので、8月2日以降もさらに時短が延長されるのではないかと思う。

 

 午前中は梅原哲史市議が来られて、互いの近況報告など。

 

 今から20年前2001年(平成13年)の8月18日若者まちづくりグループNEXT主催「地域通貨シンポジウム」ITビルで開催している。

 当時、KBS京都『田渕岩夫の得ダネ!てれび』という番組に出演して「地域通貨シンポジウム」の様子地域通貨研究会の活動について説明した際のビデオが最近出てきたので、保存のためDVDに焼き直した。

 当時27歳、今でもそんなに変わりがないつもりでいたが、相当老けてしまったと思った。子ども達に見せてみたら、小源太には「自信なさげな弱々しそうな若者」と言われ、涼子は「これがパパ?」と誰だか分からない様子だった。

 この時、着ているTシャツ劇団銅鑼による「センポ・スギハァラ」という演劇綾部に招いた時の実行委員会「千歩の会」のTシャツだ。この演劇「日本のシンドラー」と呼ばれ、第二次大戦中外務省リトアニア公使だった杉原千畝主人公で、綾部市とエルサレム市が友好都市になったタイミング綾部にて上演された。

 嫁さん「この頃、何を考えてこういう活動しとったん?最近はこの頃のようなパワーはなくなったな」と言われたが、確かに当時、何を考えていたのかあまりよく思い出せない。でも今よりもっと壮大なことを考えていたような気がする。

 

 明日はオリンピックの開会式だが、音楽の小山田某氏の昨日の辞任に続いて、演出家の小林賢太郎氏も解任されることになったと報じられている。過去にユダヤ人の大量虐殺に関して差別的な表現があり、海外のユダヤ人団体からの非難が殺到したようだ。

 昨年12月、げんたろう新聞のコラム「由良川」下記の通り、120年前の1901年と比較して2021年を占う内容を書いた。

今年は子年で、干支が最初に戻る年だった▼また西暦は2020年、ゼロに戻る年だった▼これが重なるのは60年に一度。「節目」の年は「コロナ」の年となった▼「なった」と過去形だと良いのだが、どうもそうはいかないだろう。「コロナ」にはまだ数年、もしくは、これからもずっと悩まされるのかもしれない▼今から120年前の「節目」の年は1900年。その翌年、1901年にアメリカのマッキンリー大統領が暗殺されている。過去に暗殺されたアメリカ大統領は4人で、リンカーン、ガーフィールド、マッキンリーとケネディ▼マッキンリー大統領の後継には、弱冠42歳のセオドア・ルーズベルト副大統領が就任し、米国史上、最年少の大統領となった▼セオドア・ルーズベルト大統領は就任して数週間後、黒人指導者ブッカー・T・ワシントンをホワイトハウスに食事に招いている。彼はホワイトハウスに招かれた最初の黒人となった▼若者の活躍や差別の解消、来年は困難の中にも、未来への光が見える年になることを祈りたい▼弥勒菩薩という仏様は、お釈迦様の死後、56億7千万年後にこの世に現れ、世界を救済すると言われる▼56億7千万の「5・6・7」は「コ・ロ・ナ」とも読める。悪いことばかりではないはずだ。(2020.12.9発行 げんたろう新聞コラム「由良川」)

 コラムでは、1901年に黒人差別の転換点があったように、2021年は「人権」や「差別」の転換を迎える年だろうと予測した。案の定、年明けからLGBT法案で国会や自民党内が紛糾し、オリンピックでは森喜朗会長の女性蔑視発言による辞任に始まり、数々の関係者が「人権」に関することで辞任している。

 時代は大きくうねり始めている。個人の思い込みは「哲学」でも「思想」でもない。明治以降の日本のあり様は「伝統」でも「国柄」でもない。今、覚醒が促されているのだと思う。


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大本開祖の白藤

2021年05月09日 | 歴史の探求

 7日㈮、12時半からの議員団会議に出席のため、京都へ。来週14日から5月臨時議会が始まるため、そのことについての報告等がなされた。

 9日㈰、9時から熊野新宮神社(出口孝樹宮司)へ。祭典準備や境内の掃除の後、10時から藤祭が行われた。

 熊野新宮神社の本殿には白藤が植わっており、これは大本の出口なお開祖が植えられたもの。藤祭は毎年5月第二日曜日に行われるが、その日にきれいに藤が咲くのは珍しい皆さんがおっしゃっていた。藤がきれいに咲くと綾部の町に良いことがあるそうだ。

 本来は氏子総会もあるのだが、コロナの影響で書面が配られただけとなった。

 出口宮司と共に境内の灯篭を見たら、「本宮」と地名だけで隣りに書いてあるはずの名前が削られているものがあった。

 同じく境内にある大本の出口王仁三郎聖師の歌碑の裏面を見ると、そこでも出口王仁三郎聖師の名前は一度削られて、その後、彫り直されているのが分かった。

 戦前の大本弾圧の際には天王平にある大本信徒の墓石でも「宣伝使」という教団の役職などが削られているが、熊野新宮神社でも同様のことがあったようだ。

 しかし、弾圧で獄死された大本幹部栗原白嶺氏の名前など、他にもある大本信徒の名前は削られていない。

…ということは、この削られた名前は「出口王仁三郎」だったのかもしれない。


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正暦寺の不動明王大祭と奥方の駕籠

2021年01月31日 | 歴史の探求

 31日㈰、10時から寺町那智山正暦寺(玉川弘信住職)にて、不動明王大祭の祭礼が行われて総代として出席した。

 例年檀信徒全員に加え、近在の真言宗寺院の皆さんや真言講の行者さん達によって、大きな護摩も焚かれるのだが、今年は新型コロナウイルスの関係で、住職と総代のみでの祭礼となった。

 那智山正暦寺今から1079年前朱雀天皇の時代である天慶5年(942年)空也上人が綾部を巡教された際、空也上人の42歳の厄除けのため聖観世音菩薩を彫刻され、須知山(質山)の山頂「霊山ケ嶽」に安置されたことが開創とされる。
 その後の一条天皇の時代聖楽上人によって、七堂伽藍が建立され、密教伝道の道場とされたと伝わり、これが正暦2年(991年)のことであった。
 その年の8月炎暑はげしく、旱害が各地に生じたため、朝廷が諸国に勅令して、雨を祈願させた。聖楽上人も選ばれて、雨を祈ったところ、たちどころに雨が降ったという。天皇はいたくその功績を賞され、年号を寺号に用いることを勅許されて「正暦寺」と名づけられ、かつ勅願寺となったといわれている。

 時代が下り、平安時代末期この地を領した平清盛の長男、平重盛正暦寺に多くの荘園を寄進し、また綾部の地形が紀州熊野に酷似しているとして、熊野三山(本宮、新宮、那智)を現在の正暦寺に隣接する本宮山に勧請した。正暦寺の「那智山」の山号はこれに由来しているとされる。

 その後、寛文12年(1672年)三重県の鳥羽から綾部に移封された初代綾部藩主・九鬼隆季は、正暦寺を現在地(上野町の陣屋の裏山である本宮山の背後であり、由良川からの上陸地点で、かつ京街道を見下ろす地)に移して、藩主の祈願寺と定められた。

 殿様の参勤交代の際には、正暦寺で道中の無事を祈願し、その際に持って行かれた不動明王像が正暦寺に安置されている。

 不動明王大祭は、戦後、自動車社会の到来で交通事故が社会問題化したこともあり、交通安全、家内安全などを祈願するために、正暦寺最大の行事として、毎年1月に営まれている。

 正暦寺には、殿様の奥方が輿入れされた際に使用された駕籠寄進されており、不動堂に安置されていたが、今回、観てもらいやすいようにと客殿に移転をすることになった。

 駕籠は軽かったが、駕籠を担ぐ棒はすごく重かった。これで旅をしていたとは、昔の人は偉いものだ。

 祭礼が終わったところで、たまたま亀岡から旧知の竹内博士くんが御朱印をもらいに正暦寺を訪ねてきてくれており、驚いた

 最近はこういう偶然なのか、必然なのかという御縁よくある正暦寺でお出会いするというのも意味があるように思った。

 祭礼の後は少しだけ総代会が行われて、弁当をもらって帰った。コロナが収まるまでは正暦寺の行事も、なかなかできそうにないということだった。


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当番交替奉告祭

2021年01月24日 | 歴史の探求

 24日㈰、10時半から熊野新宮神社(出口孝樹宮司)当番交替奉告祭に出席した。今年1年は、新宮・川糸組から並松上・下組に当番が交替することになる。

 終了後は、今年の当番で片づけをし、弁当とお下がりをもらって帰った。

 

 熊野新宮神社は、元は大本「御神体」である本宮山にあり、平安時代末期平清盛の長男・重盛が勧請して建立されたと言われている。重盛綾部では他にも綾部八幡宮を建立したとも伝えられている。

 江戸時代初頭九鬼氏綾部藩主となり、最初は今の綾部高校東分校のあたりにあった豪族・梅原氏の館に入ったが、後に上野町現在の大本長生殿の場所に館を移した。その際本宮山から現在の熊野新宮神社の隣地に場所を移したとされている。

 大本との関係も深く出口王仁三郎聖師全国およそ40ヶ所に歌碑を建立したが、その一つ「熊野神社歌碑」大正10年1月熊野新宮神社境内に建立された。第一次大本事件同年2月12日なので、その直前のことである。
 昭和10年の第二次大本事件で、全国のすべての歌碑は撤去され、ほとんど破砕されてしまった。現在、熊野新宮神社に建っている歌碑昭和43年4月8日に再建されたもので、境内に入って、すぐ右のところにある。

 現在の本殿の紫幕が寄贈されたのが昭和43年だったので、もしかすると、この時に合わせて新調されたものなのかもしれない。

 歌碑には出口王仁三郎聖師の和歌が二首、刻まれている。


「神の子の真心ささげて拡めたる神苑(みその)清(すが)しも石の玉垣」

「苔(こけ)生(む)して神(かむ)さび立てる常磐木の松に志るけし水無月の宮」

 

 石碑の裏面には石碑建立の寄附者名簿が刻まれており、私の曾祖父・源之助、祖父・源太郎の名前もあった。

 祖父明治24年(1891)生まれなので大正10年(1921)にはまだ30才当時住友電線(現在の住友電工)で経理部工場係の一従業員であった。すでに結婚して子どもがおり、55円という大金を自らが寄附できたのかは疑問に思う。曾祖父・源之助が20円を寄附しているので、長男の名前で55円の寄附を出したのではないか。二人合わせて75円で、山下清吉さんの80円に少し遠慮したのかもしれない

 石碑が建てられた大正10年第一次大本事件の年であるが、祖父はこの年、会社からの勧めで研修会に参加した「修養団」にそのまま入団している。

 大正13年には修養団の団長平沼騏一郎氏が就任している。平沼氏は大正元年に検事総長、10年に大審院長となり、のちに総理大臣にも就任した。いわば大本を弾圧した側の責任者のような立場である。祖父は大本の縁と修養団の活動をどう折り合わせていたのかなと思う。

 

 修養団の創設者である蓮沼門三主幹戦後の昭和21年、ひょっこりと綾部を訪問された祖父は次のように書き残している。

 …蓮沼主幹が綾部へ全く突然にやってこられたのでした。顔色は青味をおび、手は氷のように冷たく感ぜられました。私は愕然としました。平沼団長が戦犯として捕らえられていた事情もあり、八紘一宇、忠君愛国の思想が如何に進駐軍の逆鱗に触れたであろうことは、当時、府の教育委員をやっていた私には充分想像することができたのでした。主幹のご苦悩がいかばかりであったか、全くもって察するに余りあるものがあったのです。

 その時、宗教団体大本の二代教主様に会っていただきましたが、蓮沼先生は「全国でたくさんの人々にお出会いしたが、あんなえらい女性は知らん、大きな励ましを受けた」と言っておられましたし、一方の二代教主様も「あの人は立派な人やなあ」と言っておられました。

 蓮沼先生が、何故、綾部のような片田舎にひょっこり来られたのか、そして二代教主様と何をお話なされたのか、今の私には知る術がありません。当時の窮状の中では、何のおもてなしもできず、お慰めする言葉もありませんでしたが、二、三日ご滞留後、お帰りになられる時には、いつもの明るいご温容に立ち戻られ、お別れすることができたのでした。


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